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Not to fairy tale 9


 農地を抜けて村の領域に入って間もなく、ロメリアは違和感を覚えた。夜明けと共に働きだす者も少なくないはずなのに畑に人の姿はなく、住宅や店舗が軒を連ねる中心部に近づいても、開いている店もなければ通りを歩く人すらいないのだ。まるで住民が丸ごと消えてしまったかのような静けさだったが、人々が放ついっそ猥雑なまでの精気は色濃く大気に漂っており、ここに人がいることは確かだった。
 少し集中して探ってみると、ほとんどの気配が一か所に集まっていることが判った。それは村の中央、教会とその手前の広場に近い場所であった。
 冷水を浴びせられたように、ぞわりとロメリアの全身が総毛立った。祭りでもないのに人々が日常の営みを放り出して一つ所に集まっている理由は、ゴテルがここに連行されたことと考え合わせれば、不吉なもの以外に考えられなかった。
「ゴテルは――ゴテルは無事なの? 誰か知っていたら教えて!」
 周囲を舞う風、或いは路傍の草や石くれに、ロメリアは必死に呼びかけた。乾いた北風の一人が小鳥のようにロメリアの肩に止まり、囁いた。
「広場で大きな火が焚かれているよ。そこに、人間がたくさんいる。火の中にいるのは君の尋ね人かい?」
 ロメリアは弾かれたように顔を上げ、飛び去った北風を目で追うこともなく、家々の屋根の彼方を見晴かした。周りの建物に近づいたせいで、村で最も高いとはいえ鐘楼は見え辛くなっていたが、王冠状の飾り彫りをほどこしたその先端を何とか見ることができた。そのすぐ傍らに立ちのぼる黒っぽい煙も。
 全身の血が一気に冷え切り、下がる感覚がロメリアを襲い、一瞬目の前を覆われたように視界が真っ暗になった。ただの大掛かりな焚火か、そうでなければ火事であってほしいと願いながら、ロメリアはそれが虚しい希望であることを知っていた。だが、だとしても全てを見届けなければならない――友として、同胞として、自分にはその義務があると、ロメリアは崩れ落ちそうになる体を叱咤した。
 教会前の広場へと抜ける小路に入ると、油と木が燃える独特の臭いが強く漂いはじめ、小路の出口には人だかりが見えた。そこで繰り広げられている見世物に、かれらは流血や暴力がもたらす高揚に宗教的な熱狂も加わって興奮していた。
「魔女を殺せ!」
「神の敵を焼き尽くせ!」
 耳を塞ぎたくなるような罵声、囃し立てる声が響いていた。農地や村内の通りに人がいないのも無理はなかった。広場は村中の全ての人々が集まっているのかと思われるほどの混雑で、その場にいないのはよほどの老人か幼い子供だけのようだった。広場から溢れたのか、それとも文字通り高みの見物と洒落こんでいるのか、広場に面した建物の窓という窓から人が顔を出し、群衆を見下ろしている。
 押し合い圧し合いしている人垣を縫うようにくぐり抜け、誰もが火刑に気を取られているおかげで誰にも見とがめられることなく、ロメリアは前へと出ていった。
 広場の中央にはてっぺんに罪状を書いた板を打ちつけた一本の柱が立てられ、その周りには薪や柴、藁が人の膝ほどの高さに積み上げられていた。そしてそれらを赤々とした炎が包みこみ、音立てて燃え盛っている。人の背丈ほどにも燃え上がる炎と真っ黒な煙の間に、ロメリアは探し求めていた顔を見つけて喉の奥でくぐもった悲鳴を上げた。
「ゴテル――!」
 ぐったりと項垂れてぼさぼさに乱れた髪が半ばまで顔を隠し、全身を覆う炎が揺れた一瞬のことではあったが、長年共に暮らしてきた彼女を見間違えるはずもない。
「火の精霊たちよ、お願い! ゴテルの体を損なわないで!」
 村人たちに姿を見られないようにしなければならない――少なくとも、ゴテルを取り戻すまでは正体を知られてはならないと考えていたことなどすっかり忘れて、ロメリアは叫びながら飛びだした。
 彼女の呼びかけに応じて、犠牲者の肉体を食べ尽くさんとしていた精霊たちは動きを止めた。相変わらず炎は燃えていたが、彼らは薪や藁の上で踊るばかりで、薪の山に囲まれたゴテルだけでなく、ためらうことなくその中に腕を突っ込んだロメリアを焼くことも、彼女に熱さを感じさせることもなかった。ロメリアは積み上げられた薪と藁の山をかき分け、半ば以上燃えた縄を解いてゴテルを柱から解放し、全ての力を失って倒れかかってきたその体を抱きとめて引きずりだした。
 けれども必死の思いで炎から助け出し、広場の石畳の上に横たえた時には既に手遅れで、ゴテルの魂はその肉体から飛び去ってしまっていた。最初に火がつき、ロメリアが駆け付けるまで炎の中にあった脚は肉体の梁が剥き出しにされ、黒焦げになった肉の合間から体液が蒸発してしゅうしゅうと音を立てていた。衣服もほとんどが焼け落ちたせいで、体のあちこちの肉が抉り取られ、血を流しているのが見えた。
 顔にはどす黒い斑点が現れ、血が流れるほどに食いしばった歯、かっと見開き飛びだした両目、歪んだ表情、その全てが窒息による断末魔の苦しみを物語っていた。老齢のため色が抜けて白金から銀となっても豊かだった髪は汗や血にまみれてべたついた房になり、煤だけでなく、恐らくは閉じ込められていた牢のものと思しい泥や埃にまみれて汚れていた。無残な死を迎えるまでに、彼女の老いた体にどれほどの責め苦が与えられたのか、それを想像しただけでロメリアは震えた。ロメリアはぐにゃりと力を失ったゴテルの頭をそっと持ち上げ、座りこんだ自分の膝の上に載せてから髪を包んでいた布を取り、死の苦痛に歪んだ顔を拭ってやった。白かった亜麻布はたちまち、煤と埃とで黒く汚れてしまった。
「ゴテル、ゴテル! ごめんなさい、私が家を空けたばかりに。私がいれば、決してあなたをこんな目に遭わせなどしなかったのに……ああ、痛かったわよね、苦しかったわよね? どんなに辛いことだったか……!」
 限りない愛しさと悲しみを込めて頬を撫でさすり、見開いたままの目を閉じさせ、強張った口元を緩めてやると、ようやくその死顔は恐ろしい斑点こそ消えなかったものの、生前の面影を幾らか取り戻した。
 突然火刑に割って入った若い娘の行動に驚き、罵り騒ぐことも一旦忘れていた村人たちだったが、ようやく一人が言葉を取り戻した。ざっくりした麻布で仕立てられた、濃い灰色の僧衣をまとったその男は、領主が送り込んだ異端審問官の一人だった。
「何者だ、お前は? 神の御名において命じる。即刻、その穢れた魔女から離れるのだ。裁きを妨げることは許されん」
 先端に金の十字架を飾り付けた杖を目の前に突き付けられても、ロメリアは微動だにしなかった。ただ黙って、広場を囲む人々を順に眺め、最後にひたりと異端審問官を見つめた。涙を流すことすら忘れた、深い悲しみに沈むその瞳は静かに凪いでいた。嵐をはらんだ空のはるかな青さをたたえて。目を通して魂の底までも覗き込むような彼女の視線に、広場に集う人々の中でただ一人、僧だけは自分が恐ろしい失策を犯したことに気付いた。相手が何者であれ、人間が手出しをしてはならない領域に自分は踏み込んでしまったのだ、と。
 ロメリアは再び頭(こうべ)を巡らせて、重々しく人々を見やった。
「穢れた魔女、ですって?」
 呟くように静かな――しかし広場の隅々にまで響く声で、彼女は言った。
「それは、誰のことなの? ゴテルが魔女だったと? 彼女があなたたちに何をしたというの。ただあなたたちに見えぬものを信じ、聞こえぬ声を聞こうとしていただけなのに、それの何が罪だというの? 彼女は何もしていないわ、あなたたちの害になることなど何一つ。なのになぜ、ゴテルを殺したの。あなたたちは一体、何の権利があってこんな惨いことをしたの」
「か、神の敵は滅ぼさねばならん。この女は魔女だった」
 人の輪の最前列、金の刺繍を施した上衣を着て、先端の長く垂れ下がった絹の帽子を被った村長が叫んだ。それに勇気づけられたのか、他の人々も口々に和す。
「そうだ! 牛たちの病は魔女のせいだ。奴らを焼き尽くさんことにゃ、病はおさまらねえ」
 一人の叫びがきっかけとなり、たちまち群衆全体がざわめきだした。
「魔女の肩を持つってことは、お前も魔女の仲間か」
「こいつはあの魔女婆あが隠していた、娘に違いねえ!」
 土に汚れた衣服をまとう農夫風の男が、ロメリアに向かって指をさしつけた。この男が、ゴテルの小屋に薬を求めに来たことがあるのをロメリアは憶えていた。
「どこを探しても見つからなかったが、自分から出てくるとは馬鹿なやつだ」
「だったら、いちいち訊くまでもなかった。さっさと婆を焼いちまえばよかったんだ」
 捕らえられた後、ゴテルが無用の苦痛を与えられた理由の一つが、自分の所在を喋らせるためだったのだとロメリアは知った。雷鳴にも似た喧騒の中で、ロメリアはゴテルの額に哀悼の口づけを一つ落として、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたたちはただの人殺しだわ。魔女であろうとなかろうと、喰らうためでも生き延びるためでもなく、殺すために殺すなんて、決して許されることじゃないわ。あなたたちがしたことは、命に対する冒涜よ」
 彼女の声は相変わらず、荒れ狂う怒号の中でもはっきりと人々の耳に届いた。
「今まで何度も、人間同士が殺し合うのや、一方的に傷つけ殺すのを見てきた。でもその理由を、とっくの昔に地上を見捨てた存在に求めるべきではないわ。誰かを傷つけ、苦しめ、嬲り殺すことを楽しんでいるのはあなたたち自身でしょう? ならばそれを認めなさい。あなたたちが殺したのは魔女でも悪魔でもない。ただの人間、善良な一人の女に過ぎなかったのだということを知りなさい」
「冒涜だ!」
 村の教会に仕える、たった一人の司祭が叫んだ。
「この娘は、神を冒涜しておる!」
「こいつも魔女だよ! 悪魔の力を使ったんだ! あたしは見たよ、この娘は火の中に入っても燃えなかった!」
 群衆の奥から、ヒステリックな女の声が飛んだ。火刑台を囲む最前列の人々は、ロメリアが服も腕も焼き損なわれることなく炎の中からゴテルの亡骸を取り戻すその様子を見ていた。それはまさしく、彼女が邪悪な力を使った証拠であるとみなされた。火や水はその邪悪なるものを祓うと、火によっても傷つくことのない人間は神の祝福を受けている、神意を得た者であると信じられていたにも拘らず。
「失せろ、魔女め!」
「こいつも引っ捕らえて、吊るしてやれ!」
 どこからか石くれが一つ、くるくると宙を舞い、ロメリアの頬を目掛けて飛んできた。それからもう一つ。続いてもう一つ。石つぶて、土くれ、煉瓦のかけら、棒切れといった様々なものが雨のように降り注ぎ、それからはたと止んだ。一つとして当たるものはなかったからである。
 鎖につながれているからと猛獣をからかい、尻尾を引っ張ってみて初めて、鎖が切れていることを知った愚か者のように、群衆は一斉に浮足立った。魔女狩りの狂気と興奮はたちまち恐慌へと変わり、怒号は悲鳴になった。
「神よ、お助け下さい!」
「悪魔から我らをお守りください!」
 こちらも恐怖に駆られて真っ青になっている僧や司祭に取りすがり、わけもわからず叫び立てる人々を、ロメリアは黙って見渡した。人ごみに身を潜めるためのまじないは、広場の中央に飛び出すという対極の行為を取ってしまったことで既に効果を失ってしまっていたし、もはやそうしていることに意味はないと、まだ残っていた別の外見を見せるまじないも解いた。
 すると人々の目の前で、抜けるように白かった肌は一目で南の生まれと分かる褐色の肌に、この北国ではありふれた金髪はただの人間ではないことを示す七色に輝く黒髪へと変化した。彼女を構成する色彩の中で、変わらぬものははかない紫みを帯びた淡い空色の瞳だけだった。
 この変容もまた、人々を更なる恐慌に陥らせた。腰を抜かしてへたり込む者、ひたすらに神の名を唱える者、泣きわめく者と反応は様々だったが、広場にはあまりにも多くの人が密集していたため、逃げ出せた者はわずかだった。
「そんなにも《魔女》を殺したいのなら、あなたたちが望むものを見せてあげる。本当に力を持つ魔女がどういうものか教えてあげるわ。あなたたちが今まで殺してきたのはただの人間だったと知った上で、魔女を殺せるのなら殺してみなさい」
 ロメリアの声はいっそ優しいと言えるほど穏やかで滑らかだった。だがそこには深い悲しみと怒りがあった。煮えたぎるように熱いけれども、静かに青白く燃え立つ、氷の炎のような怒りが。ロメリアは己のうちにある力がこれまでになく高まっているのを感じていた。今にも肉体のくびきを離れて迸り出ようと荒れ狂う力の底流にあるものは、彼女と常に共に在った悲嘆、そしていまだ慣れぬ感情である瞋恚と憎悪であった。
 この魂を焼き尽くすばかりの力の奔流が、怒りによって生み出されていることをロメリアは知った。それは初めての感覚だった。これまでの人生で、彼女は自分や親しいものを傷つけた相手に対して、その暴力の理不尽や残酷さを憂い悲しむことはあっても、一度として怒りを覚えることはなかった。
 それは優しさや、諦めに似た受容のためというよりも、彼女自身にも例外なく当てはまる浮世離れた感覚――人間への無関心から来るものであったかもしれない。人ならざるものたちの愛や友情しか知らなかった彼女の心には、ある意味で何かしら人として欠けた部分があったと言ってもいい。妖魔たちの世界に憎悪は存在せず、そして愛と憎悪とは、常に対極にあるものであったから。
 ゴテルによって人間の愛を与えられたロメリアは、彼女の愛と死によって怒りを知り、憎しみを知ったのであった。
 ロメリアは力強いざわめきを周囲に聞いた。太陽は明るく全てを照らし出し、空には雲すらも見受けられなかったが、今やその輝きは衰えて色あせ、世界を灰色の紗幕が覆うようだった。頭上に広がる黒い宇宙から、魂の奥底から、急峻な谷を下る奔流さながらに力が押し寄せてくるのを感じ、それを支配する力が自分の中にあるのを悟った。今ならば星を落とすことすらもできるのではないかと思えた。試しに精神を集中してみると、幾重にも重なり合う世界の深層をたやすく引き寄せることができた。
 引き寄せた世界の中に懐かしい気配を感じ取り、ロメリアはかれらの言葉でその存在に呼びかけた。広場にいる人々には、それは意味を成さない音の羅列、呪文にしか聞こえなかった。何が起こるのかと固唾をのむ人々の前で、彼女に呼び掛けに応じて二つの世界がさらに距離を縮め、やがて重なり合って住人どうしの姿を互いの前に現出させたが、それもやはり人々の目には見えないのだった。
「人の世では久方ぶりになるのかな、ロミ?」
「私が《遠耳の殿》のもとにいたのと同じだけの時が流れたわ。むろんあなたには瞬きするほどの間でしかないでしょうけれど」
 ロメリアは目を伏せて微笑んだ。
「でも、お久しぶりね《深きに住まう者》。あなたが昔、私に約束してくれたことを憶えているかしら? 私はもうあの頃の私ではないし、戻ることもできないけれど、あの約束は今も有効かしら?」
 所々になでしこ色の斑紋を散らした深い灰青色の鱗と銀色の側線、ベージュから華やかな珊瑚色へと移り変わるひれを持つ半人半魚の魔物は、背びれを震わせて喜びを示す鮮やかな菜の花色のオーラを燃え立たせた。
「お前の魂は確かに少し変わったようだ。だがそれは決して私や《遠耳の殿》が愛でた美しさを損なうものではない。ロミ、お前の怒りは地上の光のように眩く、お前の憎しみは地下の焔のように烈しい。お前自身にも、それらが生み出す力のいかばかりかは分かっているはず。そして力ある者はそれだけで貴く美しい。たとえ約束がなくとも、今のお前にならば私は喜んで従うよ」
「ありがとう」
 ロメリアは再び、広場へと目を転じた。《深きに住まう者》との邂逅と会話は地上の時間にすればほんの数瞬のことに過ぎず、恐慌を起こしていた人々は突然あらぬ方向に得体の知れぬ呪文を唱えて佇むばかりのロメリアに、その場から逃げ出すこともしばし忘れて不審の眼差しを向けた。
 火の中でも燃えず、石つぶての中でも傷一つつかない奇跡――怪異をまざまざと見せつけてはいたが、この時までロメリアは人々に対して非難の言葉を浴びせる以外のことは何もしていなかった。そのことが、直前の宗教的熱狂の名残もある上に集団である安心感に支えられた人々を再び勇気づけた。決して称賛されるべき部類の勇気ではなかったが。
「我々には神がついておられる!」
 誰かが悲鳴のような声を上げた。
「失せろ、邪悪な魔女め!」
「悪魔にさらわれてしまえ!」
 家に戻って持ってきたのか、それとも最初から持っていたのか、鋤を槍のように振り上げて威嚇する男がいた。見れば群衆の重なり合う頭の合間から、一種奇妙な植物のようにそうした得物が突き出され、振り回されているのだった。
「ただの口ばかり達者な小娘さ。ちょいと鞭打ってやりゃ、とりついた悪魔だって出ていくさ」
 奥から、震えてはいるが意地悪な女の声が飛んだ。即座に自分の不利益に結びついたり、危険にさらされたりするのでなければ――反撃されないと思えばすぐに増長して責めかかってくる、人間の憎しみと残酷さとそして愚かしさを、ロメリアは改めて目にした。
「魔女――そう、私こそが魔女よ」
 彼女は虚ろな、表情のない顔で呟いた。
「だから見るがいい、魔女の力を。悪魔の力を借りるということが、どういうことなのかを身をもって知るがいい」
 その途端、秋の初めの月だというのに身も凍るような風が広場に吹き込んだ。
 しかしそれは正しくは風ではなく、魔界の海をめぐる潮の流れであった。ロメリアが引き寄せ、扉を作り、通い路をつないだ世界において、地上の村は光も射さず底も知れぬ海のただなかにあったのだ。
 ロメリアはいつかの時に盗賊たちの魂を捕らえたのと同様に魔力の糸を張り巡らせ、誰一人として村から逃げ出すことができないようにした。目には見えず、触れることもできないのに、力を持たぬ者はその糸をくぐり抜けることができないのだった。それはさながら、村全体を覆い尽くす蜘蛛の巣にも似ていた。
 そうして全ての準備を整えてから、ロメリアはこちら側とあちら側を隔てている扉を開いた。冷たい魔風が広場に流れ込み、人々を飲み込んで渦巻く。扉を抜けて、《深きに住まう者》とその眷族がロメリアの世界へと入ってきた。今やその姿は扉を抜けたことによって、力のない人々の目でもはっきりと見ることができた。それはまさに悪魔、かつて滅び去ったとされる異教の神そのものの姿であった。
 恐怖に駆られ、先ほどとは比にならぬ恐慌と混乱に叩き落とされた人々は悲鳴を上げ、我先に広場から逃げ出そうと通りや小路に殺到し、建物の中にいた者は扉や窓を閉め、かんぬきを差して閉じ籠もろうとした。しかしその全てが無駄なあがきでしかないことを、間もなくかれらは体で理解せざるを得なかった。別世界の住人たちにとって、この世界での物理法則や障害物など、全く意味のないものだった。空を泳ぎ大地に潜り、石壁を水のように抜けていく異形の魚たちは、牙の並ぶ口で、奈落にも似た巨大な口で、逃げ惑う人々を頭から飲み込み、引き裂いて喰らっていった。村の境界まで逃げていった者も、張り巡らされた魔力の糸に絡め取られ身動きが取れなくなったところを喰らわれた。
 一方的な虐殺――魔界の魚たちの饗宴は村から全ての命が消え失せ、完全な静寂が満ちるまで続いた。
 ロメリアが心からそれを望んだ時、彼女に害を為し、あるいは為そうとしたものを滅ぼしてやろうという、《深きに住まう者》の約束どおりに。


(2014.3.10up)

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