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Not to fairy tale 4


 ロメリアと蛇の子の眼前には、濃紫の空に溶け込んで、ガラスに描いた透明な板絵のように緑の森が広がっていた。それを見つめるロメリアの表情で、蛇の子はある程度まで事情を察した。少し気遣わしげな声で問う。
「大丈夫かい、ロメリア? 顔色が良くないよ」
「ありがとう、リューキル。大丈夫よ。少し驚いただけなの。考えていたわけでも、行こうと思っていたわけでもないのに、扉が開くなんて初めてのことだったから」
 ロメリアはリューキルの、トパーズ色にきらめく瞳を見つめて微笑んだ。その笑顔に暗い所や作った不自然さがないことを確かめて、リューキルはようやく安心した。
「思うに、あれは君が生まれた世界のようだね。話に聞いていたのとそっくりだ」
「ええ、そのようだわ。前に扉が開いたのとほとんど同じ場所よ」
「ではまさに、あの森の向こうが君の生まれ故郷なんだな!」
 リューキルは興奮したよう言い、鎌首をもたげて翼をはためかせた。
「少し遊びに行ってみる? あなたの翼と同じ色の空が見られるわ、きっと」
「だが、あちら側に住む人間に見られたら、少々厄介なことになるんじゃないだろうか」
 すぐにも肯定の言葉が返ってきそうな様子だったのだが、リューキルが発したのは慎重な返事だった。
 ロメリアは立てた人差し指を唇の下に当て、呟いた。
「そうね。危ないことはしないほうがいいわね。リューキルがひどい目に遭わされたら嫌だもの」
 その時彼女が思い出していたのは、畦道を渡っていた蛇に村の子供たちが石を投げつけ、棒で叩いて散々に痛めつけたあげくに殺してしまったことだった。この、目にもあやな色彩と、透き通るような白い羽毛に包まれた美しい友だちが、あの時の哀れな蛇のように無残な屍をさらす運命を辿るなど、可能性としても考えたくなかった。
「もし君が行きたいのなら、僕に遠慮することはない。遊びに行っておいで、ロメリア。せっかく、君にとっては懐かしい世界が扉を開いているんだから」
 友達と一緒に行って危険にさらすのは嫌だが、かといって思いがけず開いたかつての世界への愛着めいた情動も捨てきれないでいるロメリアのいくぶん錯綜した心情を敏感に読み取って、リューキルは水を向けた。それまで、一人で行くという選択肢を全く考えつかなかったので、ロメリアは目を大きく瞬かせた。
「私には見慣れたところだもの、リューキルに行く気がないのなら、わざわざ見るほどのものはないわ。別の場所なら考えるけれど」
「おや、ロメリアが生まれたのはよほど魅力のない世界なんだな。これまでの話からは、そうは思えなかったが」
 ちょっと皮肉めかした口調でからかい、リューキルは桜草のような淡い金色の鶏冠を動かした。
「美しいものは美しいのよ、ここや他の世界と同じで」
 軽く目を伏せて、ロメリアは呟いた。
「でも、それと同じくらい、美しくないものが多いことも知っているの」
「ああ、そのことは前に少し聞いたよ」
 リューキルは静かにロメリアに寄り添い、地面に腰を下ろして立てた膝を囲むようにしている彼女の腕に、頭を凭せかけた。半ば無意識で、ロメリアはつややかなその羽毛を撫でた。ほっと心を落ち着かせるぬくもりが手のひらから伝わってきた。
「それでも君は、あの世界を愛しているんだね」
「そうかもしれない。私はあの世界の一部ではないけれど、あの世界は私の一部だから、捨てることなどできないのだわ、きっと」
「生まれた地を愛するのは当然のことさ。何もおかしなことじゃない。仮にそこが君にとって優しい土地ではなかったとしても」
「ありのままに受け入れることも愛だと、《遠耳の殿》が言っていたわ」
「なるほど、ならばこれは世界の真理だな」
 リューキルは笑い、ロメリアもそれに和した。そして気分がほぐれてきたところで、彼女は再び話を戻した。
「帰りたいとか、何かを見に行きたいとは思わないけれど、向こうの友だちがどうしているかは少し気になるわね。畑の脇をいつも飾っていたひな菊たちは、今もまだ年ごとに戻ってきているのかしら。教会の裏にいたイチイは元気かしら」
「さっきの話じゃないが、気になるなら行って確かめてくればいいよ。大して時間はかからないだろうし、仮にこの扉が閉じてしまっても、別の扉を開けばいいんだから、何も心配要らないだろう」
 かの地に生きる同胞たちから受けた冷遇を忘れたわけでも、思い返さなかったわけでもない。だが、思い浮かべれば常に彼女の心を柔らかく温かなもので満たす異形の友たちの優しい記憶と愛とが、この時は人間への懐かしさをも呼び覚ましたのだった。
「――なら、ほんの少しだけ、戻ってみようかしら」
 ロメリアは独り言めかして言い、リューキルに視線を向けた。
「行ってくればいい。君の古い友だちはきっと喜ぶだろう」
 彼女が立ち上がるのに合わせて、リューキルは絡みついていた腕からするりと離れた。
「もし帰るのが遅くなって、《遠耳の殿》が私を探すことがあったら、私は昔の世界に遊びに行ったと、言伝をお願いしてもいいかしら?」
「もちろん」
 リューキルはきらめく空色の翼を広げ、機嫌良く答えた。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるわ」
 蜃気楼のようにたたずむ緑の森へと近づくにつれて、かつて炎と金属の花畑に歩み入った時とは逆の現象が起きた。花畑は次第に薄らいで遠ざかり、代わりにみずみずしく茂る木々の枝葉が息苦しさを覚えるほどの草いきれとともに現実のものとなって迫ってきた。これほど圧倒的に嗅覚を刺激されるのは久々だったので、ロメリアは軽く目眩を感じた。
 だがすぐに彼女は以前の感覚を取り戻した。この世界の歩き方を思い出し、そっと周囲に目を走らせた。遠目に見ただけでは何も変わっていないように思えた森の中だったが、やはり変化が幾つも訪れていた。びっしりと足元を覆っていたシダたちは姿を消し、代わりに日の光を好む草花と幼い木が葉を茂らせていた。
 魔界に赴いた時に見送ってくれたシダたちに会えなかったのは残念だったが、一年で姿を消してしまう草花は常に、その時限りの友でしかなかった。自然は悠久ではあったが不変ではなく、その点についてのロメリアの切り替えは早かった。昔馴染みを探そうと決め、森の中を歩きだした。
 まもなく、ロメリアはあの優しい樫の木と出会った場所――きょうだい達と別れたその場所まで戻ってきた。当時、彼女が倒れ込んでしまった灌木の茂みは切り払われたのか枯れてしまったのか、朽ちた小さな切り株が幾つか残るだけとなっていた。だがその奥に生えていた樫の木は無事だった。すらりと美しい立ち姿の彼女は、記憶にあるよりも一回り以上大きくなっていた。
「久しぶりね」
 ひやりとした木の肌に手を当てて、ロメリアは青々と茂る枝を見上げた。
「ええ、久しぶり。また会えて嬉しいわ、ロミ」
 ロメリアの挨拶に応えて、幹の中から湧き出すように樫の木の精が現れた。彼女の外見は何一つ変わっていなかったが、葉むらの輝きを宿す瞳は、永遠の少女だけが持ちうる無邪気さと軽やかさと同時に、年ふりた者だけが持つ一種の穏やかさと落ち着きを湛えるようになっていた。そのような変化が一朝一夕で訪れるものではなかことは明らかだったので、ロメリアは考え込むような顔つきで口を開いた。
「私はずいぶん長い間、ここを離れていたみたいね」
「そうね。もっとも――あなたたち人間の時と、私たちの時は、全く同じではないから、他の人間がどう感じているのかまでは解らないけれど」
 そう言って樫の木の精は微笑んだ。
「何にせよ、戻ってきてくれたことは喜ばしいわ。私たちとこうして語り合うことができる人間は、ロミの前にも後にもいなかったから、ずいぶん寂しくてつまらない思いをしたのよ。向こうは楽しかった?」
「とても。色んな世界を見てきたし、色んな事を知ったわ。まだ何もかもを見て、知るには時間がかかるだろうけど」
「あら、ではまた向こうに行くの?」
「ええ、そのつもり。こちらに帰ると言って出てきたのではないから」
「そう、それは少し残念ね。でも、向こうであなたを待っているひとたちがいるのなら、仕方ないわね。あなたは私たちのものではないし」
 ロメリアと樫の木の精が話している間に、彼女の帰還を知った別の木霊たち、風や土の精たちが集まってきて、周りはずいぶん賑やかになった。その顔ぶれはロメリアの記憶にあるものとはだいぶ変わってしまっていたが、かれらと旧交を温め、新たな友情を結ぶ妨げにはならなかった。ロメリアは、かれらが遠い昔に生まれた世界のことを語り、求められるままに別の世界についても語った。それは魔界の友たちと語らうのとは性質を異にしていたが、同じくらい楽しいひと時だった。
 気付いた時には日がすっかり傾き、巨大な赤い円盤となった太陽が木々の輪郭を燃え立たせるように照らしていた。森の中には青い闇のとばりが夜の纏うヴェールさながらに広がり始めている。昼の光を好む精霊たちはいつの間にか姿を消し、夜をさまよう者たちがそれに代わって現れていた。
「私もそろそろ休むわ。今日は会えて本当に良かった。もし向こうに戻らないのなら、明日も会いましょう、ロミ」
「ええ。おやすみなさい」
 樫の木の精は自らの本体である木に背を預け、もたれかかるかに見えた。次の瞬間、現れた時と同じように、彼女の体は幹に吸い込まれるようにして消えていた。残ったのは闇を好む妖精や、土や風の精といった、昼夜を問わずそこに存在するものたちばかりだったが、数はそれほど多くなかった。
「さてどうするね、ロミ?」
「私たちと一緒に踊りましょうか、向こうの空き地で」
 かれらは口々にロメリアを誘った。だが暫く考えた後、ロメリアは言った。
「食べ物を集めている途中で向こうに行ってしまったことを怒られるだろうけれど、一度家に帰るわ。こんなに長く家を離れていたのは初めてだし、向こうに戻る前に、今度はもっと長くいなくなることをちゃんと言っておいた方がいいだろうから」
「だったら茸を幾らか持っていくかい?」
 膝の下まで届く真っ白い髭を揺らしながら、土の精が訊いた。
「ありがとう。でも籠を持って来なかったから、六人分も持っていくことはできないでしょう。集めるのに時間がかかるでしょうし。今日はやめておくわ」
 ロメリアは笑って、森の中の友人たちに手を振って別れを告げた。来た時に始めて足を踏み入れた森の奥で、景色も少なからず変わっていたが、道に刻み込まれた、そこを歩いた人々の気配を辿れば村へと戻るのはわけないことだった。森の入口から村を見やれば、教会の最も高い屋根に掲げられた十字架が何一つ変わらぬ風情で立っているのが見えた。
 しかし村の中は、ロメリアの記憶にあるものとはだいぶ様子を違えていた。あったはずの建物が無くなっていたり、野原だったところが畑になっていたり。或いはその逆のことが村のあちこちで起きていた。
 日が落ちてしまえば外を歩く者など後ろ暗い目的を持つ者以外にはないのがこの時代の夜であった。森と村とを繋ぐ、教会の正面へと続く一本道には月明かりを受けたロメリアの影だけが黒々と落ちていた。
 ロメリアは教会の屋根を見晴かし、裏手の墓地を守るように生えているイチイが屋根越しに頭を覗かせていることにささやかな驚きを感じた。
「あの子が、屋根より大きくなるなんて思わなかった」
 ひとりごちながら、ロメリアは我が家に向かって歩みを進めた。木と土で作られたきわめて粗末な家々は、数年ごとに土壁を塗り直し、屋根を葺き替えなければ維持できないため、森の中や村全体の風景と比べて外見の変化が著しかった。ロメリアの家もまた、幾らかその様相を変えていた。いつの間にか家の脇には小さな家畜小屋が建てられ、夜目にも白い家鴨が二羽、翼にくちばしを埋めて眠っていた。それを横目に見ながら、ロメリアは閉ざされた扉を叩いた。
「日も暮れたっていうのに、何の用だね」
 のんびりした声と共に、かんぬきを外す音がした。家の中央に設けられた炉から立ち上る煙でうっすらと霧がかかったようになっている室内に、夜のさえざえとした空気がさっと流れ込んだ。家の中の煤けたにおいは懐かしいものだった。ロメリアは微笑み、炉の周りを囲んでいる家族を見つめた。
 父と姉、弟は姿を消していた。代わりに見知らぬ女と子供が三人、家族に加わっていた。扉を開けてくれた兄は随分背が伸びて、今では父よりも年上に見えるくらいだった。では見知らぬ女と子供は彼の妻子なのだろう、とロメリアは考えた。やはり自分は思っていたよりも長く家を空けていたらしい。
「帰りが遅くなってしまってごめんなさい。寄り道をしてしまったの」
 ロメリアが口を開くと、兄の顔に表れていた困惑の色が、さっと恐怖に染め変えられた。
「まさかお前……ロミ、なのか……」
「ええ。ただいま」
 にっこり笑って答えると、兄は弾かれたように後ずさり、戸口から離れた。ロメリアが家の中に入ると、炉の中で火蜥蜴が嬉しげに踊った。その暖かな火に赤々と照らしだされた家族の顔が一様に強張り、青ざめているのが不思議だった。
「ねえお母さん、お父さんたちはどこ?」
 炉端の腰掛けに座っている母親に、ロメリアは近づいた。家を出た時よりも彼女の白髪は増え、貧しさと厳しい労働のせいで常に不機嫌そうな顔には傷跡のような深いしわが幾筋も刻み込まれて元の顔立ちをほとんど隠してしまっていたが、見分けるのはたやすかった。母親はロメリアを目にした時から張り裂けそうなほど目を大きく瞠り、乾いてひび割れた唇を震わせていた。
「こんな、ばかなことがあるはずない」
 老いたせいで低くなり、掠れた声で彼女は言った。
「三十年……三十年も経ってるんだ。あの子が生きてたとしたって、こんなのはありえない」
「ねえどうしたの、お母さん? ああ……ごめんなさい。食べ物なら明日、ちゃんと採りに行くわ」
 家中に満ちる異様な雰囲気に戸惑うロメリアを指さし、一番幼い子供――ロメリアと同じくらいの、五、六歳ほどの男の子が母親に尋ねた。
「おばあちゃん、この子はだあれ?」
「あなたには、はじめましてね。わたしは……」
 ロメリアが言いかけたのを、母親の鋭い叫びが遮った。
「どんな悪魔が貴様をよこしたんだ、この化け物め!」
「え……?」
 そして次の瞬間、ロメリアを恐ろしい激痛が襲った。


(2013.11.10up)

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