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Not to fairy tale 5


 ロメリアが、兄の子供に自己紹介しようとしたその時である。炉の中で跳ねまわっていた火蜥蜴が一斉にこちらを向き、シュウッと鋭い音を立てて炎の舌を閃かせた。
『ロミ、後ろに気を付けて』
『危ないよ、後ろから来る!』
 一部は母親の叫び声と重なってうまく聞き取れなかったが、ロメリアはよく判らないまま体をひねり、火蜥蜴たちが言うものを見定めようとした。すると視界の端に移ったのは、焚きつけに使う木の枝を高々と振りかぶった兄の姿だった。
 兄が狙っていたのはロメリアの頭だったが、振り向いた動きで頭の位置がずれたので、実際に殴られたのは肩だった。それでも頭蓋骨を割らんばかりの力で殴りつけられたロメリアは、あまりの痛みに声も出せずその場に崩れ落ちた。だが、倒れたままではお終いだ、と彼女の知識は警告を発した。
『逃げて、ロミ』
『殺されてしまうよ!』
『早く逃げて!』
 火蜥蜴たちの悲鳴が響いた。再び空を切って振り下ろされた焚きつけを、ロメリアは髪や衣服が土と埃にまみれることも構わず転がることで避けた。彼女の頭のすぐ横で、硬い土に叩きつけられた棒の先端が砕け散った。兄がまた殴りつけてくる前にロメリアは素早く起き上がり、開いたままだった扉から夜の闇へと逃れ出た。
「待て! 化け物め!」
 ロメリアが駆けていく足音で小屋の中で眠っていた家鴨が目を覚まして、けたたましい鳴き声を上げた。その後ろから兄と母の怒鳴り声、悲鳴が追いかけてきた。二人のただならぬ叫び声を耳にして、近隣の家からも人々が顔を出す。
 そして彼らは、月明かりの下で淡く虹色に輝く髪を持つ少女の姿を目にした。彼女が身にまとっていた膝までの質素なシュミーズ・ドレスは倒れた時に汚れてしまっていたが、魔界の蜘蛛たちが紡いだ糸を織り上げた布で作られた、裁断の跡や縫い目など全く見えないその青白い光を放つドレスのこの世のものならぬ美しさはいまだ明らかだった。
 それは、常の人ならば決して持ち得ないもの、この世界には存在しないものだった。そして存在しないはずのものが現出した時、人々が取る行動は一つだった。すなわち、尊び崇めることによって、或いは忌み、貶めることによって、それを再び別世界の存在とする――己の世界から引き離すのだ。村の人々が選択したのは後者だった。
「ロミが戻ってきたんだ。全く同じ姿で!」
「いいや、あれはロミじゃない、悪魔だ! あの子の姿をした悪魔だ!」
 恐慌に駆られた二人の声を、ロメリアは信じられない思いで聞いた。逃げ場のない道の上に立ちつくす自分を見ている村人たちの目が、同じ人間を見る目ではない――忌まわしいもの、恐怖の対象を見るような目であることを知って慄いた。
 時の流れが違う世界、住人たちが時によって姿を変えることのない魔界で暮らす間、ロメリアもまた彼らと同じように生きていただけだった。そして、生まれ持った本質が変わることなどない。だから、なぜ変わらないことが恐れられるのかが彼女には判らなかった。それがこの世界では異常なのだと、この時まで彼女は全く気付いていなかった。
 しかし気付いたその時、自分はもはや完全に異質な存在となったのだと彼女は理解した。元から何もかもを受け入れられていたわけではないが、それでも僅かに与えられていた場所は、魔界で過ごした年月の間に消え失せていたのだ。
(もう、私はここにはいられない)
 居場所を持たぬ者、持ち得ぬ者に対するこの世界の峻厳さについて、《深きに住まう者》が語った古の記憶を思い出すまでもなかった。集まりだした村人たちの唇から迸る、彼女の存在を否定し消し去ろうとする最初の一声を聞く前に、ロメリアは身を翻して夜の中を走り出した。
 肩越しに振り返ると、家を飛び出してきた兄は焚きつけの代わりに先端がぎらりと輝くものを手にしていた。それは鉈だった。
 彼女の頬を掠めて、何かが飛んできた。地面に跳ね返った音から、それが石であることがわかった。石を投げつけられ追い立てられることなら、これまでに何度もあった。嵐のような暴力に、ロミであった当時はなすすべなく耐えるしかなかった。だがこれはじっと黙って耐えていれば過ぎ去っていく類のものではないと、ロメリアは本能的に悟っていた。
 深く考えている暇などなかったので、ロメリアは自分がどこに向かって走っているのかを全く把握していなかった。石の飛んでこない方向、人の声がしない方向を咄嗟に探し、そちらに足を向ける。どこか行き止まりに誘導されたとしても、今のロメリアにはそうと気付くことはできなかったに違いないが、幸いにして村人たちの方にも動揺と混乱が広がっていたため、追跡は組織だったものにはならなかった。そうでなければ、肉体的には幼い少女にすぎないロメリアはすぐにも命を落とすことになっていただろう。
 すぐに走り出したおかげで稼いでいた距離は、子供と大人の足の違いもあってあっという間に縮まった。騒ぎ立てる声を聞いて、何事かと興味本位で顔を出しただけの村人も、悪魔が現れた、化け物が自分たちを殺しに来たのだと血走った眼で訴えるロミの兄と母の狂乱に引きずられるように、興奮状態に陥っていった。集団の後ろについた者たちには、自分が何を追い掛けているのかさえ分かっていなかった。
 ロメリアの足を包んでいた、羽のように薄く軽い素材のサンダルは石くれだらけの硬い地面を走るうちに引き裂かれ、破れてしまった。ほとんど素足も同然で走る小さな足はたちまち傷だらけになり、尖った小石が刺さって皮膚を裂いた。一足ごとに痛みが貫いたけれども、ロメリアは決して立ち止まらなかった。
「あっ」
 道のくぼみに足を取られ、半端な受け身を取ったせいで肘を擦りむきながら転んでしまった。一度そうして止まってしまったら、今度は再び起き上がるのもやっとの疲労がどっと押し寄せてきた。せわしなく繰り返す呼吸で乾いた喉が痛み、肺は焼けつくようだった。胸郭の中で心臓が肋骨を破らんばかりに暴れ回っている。
「いたぞ、あそこだ!」
「今のうちだ、早く!」
 ロメリアの姿を見つけて叫び交わす声が響いたが、指一本動かすのすら苦痛だった。しかしこのまま村人たちに捕まれば、冬の祭りで嬲り殺される狐のように、夏至の祭りで村中を引きまわされて燃やされる悪魔に見立てた人形のように、自分もまた人として扱われぬまま殺されるのだと彼女は理解していた。誰かに助けを求めることなど無意味だということ――自分を救えるのは自分自身だけだということも。
 気力を振り絞り、ロメリアはよろよろと立ち上がった。しかし子供の足と体力では、複数の大人たちの追跡から決して逃れ得ないこともまた、彼女はよく理解していた。この場を逃げるため、命を守るためにどうすればいいのか考えた時、己の中に積み上げてきた知識と力が使えるのだということにロメリアは初めて気付いた。
 異界で学んだあらゆる事柄――世界に満ちる果てしない力と己の裡に在る力を利用して行う穏やかな魔法のわざ、そして近づくためには理性と魂と自己を賭さねばならない危険な道すじ、それらの全ては今までロメリアにとって、広がり続ける知の宮殿の一角をなす扉の列でしかなかった。叩く気も鍵を探す気も起きなかったその扉の奥にあるものを、初めて彼女は求めた。すると開くべき扉、部屋の中に求めるべきものはたちどころに現れた。なぜならそれは初めから彼女の一部だったのだから。
 ロメリアはさっと周りを見回し、麦畑の傍らで人の背丈より少し高いくらいに茂ったエニシダと、その根元のマンネンロウが生垣を成しているのを見出した。木々は自然の理に従って眠りに就いていた。ロメリアはよろめきながら生垣に駆け寄り、人ならざるものにだけ通じる言葉、かれらの魂に直接呼びかけることのできる、世界そのものよりも古い呪文を口にした。
 すると風もないのに枝がざわめき、エニシダたちは目を覚ました。眠りを突然破られたというのに、かれらが気分を害した様子はなかった。心なしかいまだ眠たげな様子を見せながら、目覚めたばかりの人が伸びをするように細かな葉が茂る小枝をざわざわと揺らめかせ、木霊の一人が尋ねた。
「わたしたちに呼びかけたのはあなた? 見慣れない子ね」
「こんな真夜中にどうしたんだい?」
「助けて、お願い。隠れるのを手伝ってほしいの。少しの間でいいわ、私の姿をあなたたちの陰に隠してちょうだい」
「いいわ、さあ私の腕の中へ隠れなさい」
「ありがとう」
 真ん中の木霊が腕を広げ、迷いなく歩を進めたロメリアをそこに抱きしめた。たちまち、彼女の姿は枝葉に覆われた。次いでロメリアは、敵意あるものだけに作用する、追跡者の目を眩ますために必要な呪文を唱えた。そうしてようやく、彼女は大きく安堵の息を吐いて生垣の中で膝をついた。
 体力は限界に近付いており、ひとまず身の安全を確保したという思いで全身から力が抜け、ともすると意識が霞みがちだった。しかしロメリアにはまだ、もう一つだけやらなければならないことがあった。
(この体では、逃げきれない。早く大きくならなければ)
 魔界の住人たちの中にはしかじかの呪文や己の意思一つで望みのままの姿を取ることができるものもいたが、そこに働く理はロメリアが肉体の時を止めていた理由や方法とは全く違っていた。だから今のロメリアにかれらと同じ事ができるのかどうか判らなかったが、やるしかなかった。
 それを願うこと自体は、彼女にとって難しいことではなかった。しかし願い得ることと為しうるか否かは別であった。彼女の知識は確かに膨大なものであったが、知識を使った経験はわずかであったから。
 ロメリアは再び古く力ある言葉の幾つかを呟き、我と我が身を隠すためのまじないが完全に生垣を覆っており、どこにも綻びなど無いことを三度確かめた。それからやっと安心して、落ち葉の重なり合うひんやりとした土と、密に茂る枝葉の天井が作り出したささやかな空間に胎児さながらの姿勢でうずくまった。
 まさしくそれは、まじないによって造り上げた子宮に他ならなかった。この世界で生き延びるために必要な姿を手に入れて生まれ変わるための。喜ばしいものではなかったにせよ、肉体の変化は恐れるほどのものではなかった。ロメリアをロメリアたらしめるものは魂であり、その器がいかように変化しようとも魂の本質が変わることはない。
 柔らかな闇と、おのが髪の放つ七色の光、マンネンロウの葉が漂わせる清らかな香りに包まれてロメリアは目を閉じた。魔法の眠りが彼女の瞼に優しくくちづけし、やがて魂をその腕に抱き取った。


(2013.11.20up)

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