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Not to fairy tale 3


 そうして、人の世界でロミと呼ばれていた少女は魔物の客人となった。金属と鉱石でできた花畑の中、幾つもの尖塔が奇怪な樹木のように聳え立つ城が彼女の新たな住まいであった。そこもまた、驚くべき美しさと不思議に満ちていた。
 ここでは何もかもが、ロミの暮らしていた世界とはかけ離れていた。
 空は常に黄昏のような紫だが昼のように明るく、いつまでも暗くならない。初めのうち、ロミはそのせいでうまく眠ることができなかったが、窓に黒天鵞絨の緞帳を巡らせることを思いつき、その問題は簡単に解決した。それに、不変の光のもとでも眠れるようになるまでそう時間はかからなかった。
 城は見たところ磨き抜かれた色とりどりの大理石でできているようだったが、触れれば温かく、華やかな漆喰彫りに見える壁からは時に柔らかな感触が返ることがあった。ロミが自分にあてがわれた部屋の翡翠とサファイアでできた窓を磨いてやると、部屋全体が嬉しげに震え、内からの輝きを増した。
 逆にキーラウに連れられて暫く留守にすると、目にもあやな宝石と鉱物でできているはずなのに城全体がくすみ、敷地そのものが少し縮んでしまうようにさえ見えた。ロミはその正体を誰にも尋ねなかったが、この城は言葉を発することも意思を伝えてくることもないけれど生きていて、主であるキーラウを慕っているのだろうと思っていた
 城の周りには塀の代わりに丈高い杉の木がぐるりと植えられていたが、その幹と枝は黒曜石、葉は深い色合いの孔雀石でできているのだった。
 白っぽく明るいのと青みがかった暗いのと、二色のオパールで作られた庭の噴水は、水の代わりに炎を空高く噴き上げていた。それは熱くもなければ燃え広がることもない火の粉をまき散らす、澄んだ緋色の炎だった。噴水の炎が流れ込む鏡のように滑らかな水面の池には青銅の鳥がゆったりと泳ぎ回り、空には翼の生えた魚が水晶に似た鱗をきらめかせながら悠然と飛び回っていた。
 最初の言葉どおりキーラウは彼女に、己が住まう場所だけではなく、その翼で訪れることができる世界の至る所を見せてやった。見るだけでは到底知ることも理解することも不可能なその地の事物を、世界を動かす真理の一端を、今やロメリアとなった少女は貪欲に学び、吸収していった。
 ロメリアは星々が不動ではないのと同様に大地もまた不動ではないことを知り、大地が平らではない世界もあることを知った。真昼の空にも星はあること、空の彼方には神の永遠ではなく遥かな過去が広がることを知った。それと同時に世界の理とは唯一絶対の普遍的なものではなく、世界の数と同じだけ存在するのだということも学んだ。その全てを知ることは、彼女の全生涯を費やしたとしてもおよそ不可能であろうということも。
 それでもロメリアは知ることを、知ろうとすることをやめなかった。そして彼女の飽くなき探究心、知識欲をキーラウは喜び、愛でた。ロメリアがもっと知ることができるよう、彼は魔法の指輪を額に押し当てることを以て地底の七つの言葉を理解せしめ、まじないをかけた指で舌先に触れて地上のあらゆる言葉を操らしめた。
 しかしキーラウが彼女に与えた能力のうち最も役立ったのは、言葉を使わず魂で直接語り合う方法であった。それによってロメリアは訪れた先の世界で多くのものと語り合い、自らの脳髄の奥に築き上げた記憶と知識の宮殿をより複雑かつ壮大なものとしていった。
 この宮殿を支える堅固な土台は、常の人から外れ、人ならざる友との交わりによって培われた、幼いながらも既に確立した自我と理性だった。滅多なことでは揺るがず、感情の波も届かぬそこは、たとえるならば広々とした見通しの良い平原のようなものであった。宮殿を宮殿たらしめる彩りと装飾は、ロメリアが日々目にし、耳にし、或いは全身で味わう驚くべき異界の美であり、惜しみなくその身に注がれる知識と教養であった。
 何かしらの体系だった学問と呼べるものから脈絡のない単なる事象のつらなりまで、彼女はあらゆることを学んだが、習い覚えたいかなるものも彼女を変えることはなかった。彼女はただひたすら知識を吸収し、記憶の宮殿を拡大させていくことに喜びを感じていたが、それを創造的な方向に――何かの目的をもって使おうという考えはついぞ浮かぶことがなかった。
 ある時、ロメリアは火の精霊たちから己の裡にひそむ力の引き出し方を授けられ、水の精霊たちからは引き出した力の操り方を学んだ。またある時、かれらはまたロメリアに音楽を教えた。それは風の精霊たちから学んだ精妙かつ軽やかな身のこなしと相まって彼女の一挙手一投足に優雅さを与えた。地の精霊たちはありとあらゆる鉱石や大地の性質を教える一方で、器用な手先を彼女に与えてやった。
 異界での日々は常に新鮮な驚きに満ち、学び、知ることの喜びに溢れていた。これまで、ロミは全てが均一な泥濘の中に混じりこんだ一粒の結晶のようなものであった。同じ種族の中にありながら彼女は根本において異質であり、孤独であった。だがここに来てロメリアは、生まれて初めて誰もが自分と同じものを見聞きし、同じように感じる世界に生きることができた。
 そしてロメリアは世界の一部となった。
 確かに彼女は別の世界から迷い込んできた異邦人ではあったが、その違いは表面的なものにしかすぎず、魂の本質は養い親であり師であるキーラウたち魔物とほとんど同じものであった。
 おのれの目に映らぬものは存在しないと決めつけ、見ることのできる者を受け入れず、解そうとはしない世界。ただ一種類の真理しか――それが正しいか否かはさておくとして――許さない世界に異分子として生まれてきた、魂の同胞たる人の娘を妖魔たちは歓迎した。ロミが属していた世界にそのような魂の持主が生まれ落ちることは珍しく、その者が本来属すべき魂の故郷に辿りつくことは更に稀なことだった。
 というのも、妖魔や精霊と同質の魂を持つ人間は、そうではない人間から神のごとく崇められるか畏れられるかのどちらかであり、どちらであっても人として扱われることは少なく、長く生きることはほとんどなかったからである。ロミ――ロメリアが生まれたのは、他のどの時代にも増して多様性を許さず、異分子を徹底的に排除しようとする時代であったから、なおさらであった。
 ロメリアはその存在のたぐいまれなるがゆえに、またかれら妖魔のもとに迎えられるまで魂を濁らせることなく無事に生き延びたがゆえに、かれらの関心のみならず愛と少なからぬ敬意さえ勝ち得ていた。
 かつては人間達と親しく交わりその知恵を惜しみなく与えていたが、遥かな昔に人間を見限り、おのれの領域である海の深淵に引き篭もった古き者の一人――《深きに住まう者》でさえも、ロメリアがそのもとを訪れるのを拒まなかった。
 《深きに住まう者》からロメリアは人の世では喪われた過去、語られざる記憶となった多くのことを学んだ。人に厭いた魔物の語ることであったので、それは往々にして諦観と悲哀が通奏低音のように流れる、人の愚かしさと残酷さへの嘆きとなりがちであった。
「ロミよ、お前も既に知っているだろうが、人間は些細な違いも受け入れられない上に、違うものを劣ったものと決めつける愚かで狭量な生き物だ。もちろん、お前はそのような愚を犯さぬ稀有な存在だがね」
 《深きに住まう者》はしみじみと語った。
 限りなく闇に近い青を背景にして、小さな生き物たちの死骸が雪のようにしんしんと降り続く冷たい深海の中、光を抱いた泡沫にも似て浮かぶ宮殿に《深きに住まう者》はその眷族と共に住んでいた。
 彼の真の名を、ロメリアは知らなかった。同様に、彼女の真の名を《深きに住まう者》は知らなかった。この世界では真実の名は命そのものであること、それゆえ原則として名乗ってはならないし、いたずらに尋ねてもならないと、《遠耳の殿》キーラウから最初に教えられたことであった。なので彼女の存在は魔界でも広く知られるようになっていたが、《ロメリア》の名を知る者はキーラウの他にはいま一人の親友しかいなかった。
 二人が並んで腰かけているバルコニーを覆う、まるで存在しないかのように透き通った水晶の窓の外では、青白い光を放ちながら一匹の奇怪な姿をした魚がゆらゆらと漂うように目の前を横切っていった。
「百あるうちの一つが違うだけで、かれらはそれを仲間とは認めない」
「何もかもが同じものばかりだなんて、ひどくつまらないでしょうにね」
 ロメリアの相槌に、《深きに住まう者》は微笑んで頷いた。とはいえその微笑は、ぬるついた鱗と粘膜に覆われた魚を思わせる顔に一筋走る亀裂が、奇妙な形に歪んだようにしか見えなかったが。
「ああ、全くだ。しかし多くの人間にとっては、そのつまらぬ世界こそが理想なのだ。同じものは正しく善であり、違うものは誤りであり悪であると考えるのだ。人間が我々を受け入れる余地を持っていた時代は悲しいほどに短かった。世界は己たちだけのものではないことを理解しようとせぬ人間たちの頑なな心が、世界をつなぐ通路を塞ぎ、扉を閉ざしてしまった。そうして我々や、我々の仲間を締め出して、内に残ったものも滅ぼそうとしているのだから、全くかれらの愚かさときては驚き呆れるばかりだ」
 そう言って、《深きに住まう者》は喉元に生えたひれを彩る虹色の光に、怒りを示す赤いオーラをつかのま閃かせた。いささかバランスを欠いた感のある長い手足や背中に生えた魚そっくりの大きなひれを波打たせながら、《深きに住まう者》は彼を神と崇めていた人々が、違うものを神と崇めることだけが違う、同じ人間たちによってどのような運命を辿るに至ったかを語って聞かせた。それは過去の物語でありながら今なお続く現実であり、未来への予言でもあった。ある意味で人間の本質を語る言葉であった。
 人間が同胞に対して発揮する、時として独創的かつ徹底的な残酷さについて《深きに住まう者》が語るたびに、ロメリアが思い出すのは村の子供たちの囃し声と、大人たちの奇妙なまなざしであった。突き飛ばされ、石を投げつけられ、手を振り払われる、そのたびに与えられた肉体的にも精神的にも傷を残した痛みの記憶であった。
 ロメリアのまだ始まったばかりといっても過言ではない人生のごく初期に与えられたそれらの傷と痛みは、《深きに住まう者》が語る人類の非寛容と残酷さと根本を同じくするものだったのだから、それも無理ないことだった。むしろ《深きに住まう者》は彼女にそれを思い起こさせるために繰り返し語っているふしが見られた。
 その日もロメリアは《深きに住まう者》の話から、この世界を訪れることとなった日に兄姉から受けた仕打ちを思い出した。明確な映像として浮かび上がったその思念を読み取り、《深きに住まう者》はそっとロメリアの手を取った。
 長い時をかけて適応してきた生命以外のものを拒む峻厳な深海を訪なうため、ロメリアは精神と魂だけとなり、我が家となった城の一室に体を残していた。つまり《深きに住まう者》は彼女の心と魂に直接触れたのであったが、伝わる感覚は肉体のそれと変わりなかった。
 窓の外を眺めていたロメリアは首を曲げ、《深きに住まう者》の顔を仰ぎ見た。彼の両目は、正面を向いているロメリアのそれとは違って顔の両脇に近い所に付いていたので、血の真紅を奥に透かす黄金の瞳と見つめ合うのは少し難しかった。
「お前は優しい娘だな、ロミ。そうする権利があるというのに、傷つけた者に怒りを覚えることも、恨むこともしない。怒りと憎悪に満ちる魂の美しさもまた格別だが、それらを知らぬ魂の美しさはお前の存在と同じほどに尊く、得難いものだ。お前の魂はどこまでも純粋で美しい。お前ほどに清らかな魂を私は他に知らない。だからこそお前が同胞にどんな仕打ちを受けてきたのかを忘れてはいけないよ。そして私の話を憶えておきなさい。同胞たちのもとに戻った時、そのことがきっとお前を助けるだろうから」
 ロメリアは思いやりに溢れたその言葉に微笑んだ。
「ええ、忘れないわ。私が、一度覚えたことなら決して忘れないこと、あなたも知っているでしょう?」
「知っているよ。それもまた、お前の驚くべき美点の一つだ」
 《深きに住まう者》は穏やかに答えた。言葉どおり、ロメリアは一度見聞きしたものを決して忘れなかった。可能な限り全てを知りたいと望む彼女にとって、その能力はまさに天与の才であったが、他方で、もはや肉体的には何の痕跡も残さぬ過去に何度も繰り返し心を傷つけられることも意味していた。忘却という名の祝福は彼女には無縁なものだった。
 普通の人間が痛みを忘れることによって相手を許すのだとすれば、ロメリアは与えられた痛みごと相手を受け入れた。そうすることしかできないという意味においてその寛容は許しとは少し違っていたが、形は違えど神の愛にも似ていた。同じ人間から与えられるものといえば拒絶しか知らない彼女は、自己と他者の関わりとはそのようなものだと思っていた。むろん、家族や村人たちの生活を見ていれば拒絶ばかりではない人間関係が存在することはすぐに理解できたが、それは彼女にとって異世界よりも遠いものであった。
 だが、だからといってロメリアがそのような温かな関係を誰とも望んでいなかったというわけではない。彼女は常に遠い世界、未知の世界に憧れ、あらゆる感覚を通じてそれらを知ることを求めていたのだから。
 妖魔や精霊たちに愛され、かれらを愛するロメリアは、今まで与えられてきたものが拒絶と悪意だけだったとしてもいまだ人類を愛することに絶望していなかった。彼女を捨てた両親を、突き放したきょうだいたちを、それでもなお愛していた。愛する心と同じように、愛されたいと願う心もまた、枯れることなく彼女の心の裡に息づいていた。
 だから、彼女の真の名を知るいまひとりの友――花畑で最初に言葉を交わした蛇たちの子と他愛のないお喋りをしていて、ふと目をやった先にかつて後にしてきた世界への扉が開いているのに気づいた時、彼女を捨て去り、彼女が置き去りにしてきた家族を懐かしく思ったのも、無理ないことであったかもしれない。


(2013.10.30up)

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