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黄金の綱2


 赤ん坊が訪れて後の数年間は当初の予測どおり、魔女にとり実に興味深く、新鮮な驚異の連続となった。何しろ全てが初めて体験することだったからである。赤ん坊が幼児となり、子供になり、若い娘と呼んでも差し支えない背格好の少女となるまでは、魔女の今まで過ごしてきた時間に比べれば瞬きする間にも等しかった。だが子供がほんとうに子供である時間はごくごく短いことをよく知っていた魔女は、彼女の成長の一つ一つを余すことなく見届け、喜びや驚きと共に見守り、時々には適切な庇護や指導を与えた。
 子育ての間、これまで過ごしてきた独りきりの静謐は魔女の生活からほとんど完全に消え去ったが、彼女はそれを惜しいとは思わなかった。いずれ子供が成長すれば再び得られるものであるし、二人で過ごす時間には日々新たな発見があり、これまで魔女の知らなかった喜びや幸福というものがあったからである。
 一瞬たりとも目を離せない時期が過ぎると、魔女は子供に読み書きや芸術など一人で過ごす術を教え、退屈を紛らわす道具や本を与え、互いに一人きりで時を過ごすことに少しずつ慣れさせていった。だが子供自身が望まないかぎり、半日以上一人きりにはしなかった。
 孤独とは、それを愛する者にとっては友であり身の一部のようなものだが、慣れぬ者にとっては敵であり命を奪いかねない毒であることを魔女は知っていた。
「少し散歩をしようか。今日もいい夕暮れだよ」
「昼間に、メリッサの花が咲いているのを見つけました。とてもきれいです」
「そう。では少し摘んで、ポプリを作るのもいいね」
 魔女と子供は朝な夕なに連れ立って庭をそぞろ歩くのが習慣だった。大小二つだった影はいつしか同じ大きさになり、手を引かれて後ろを歩いていた子供は一人で先に立って歩くこともあれば、親しい友人のように肩を並べることもあった。
 もともとの性質もあっただろうが、たゆみない教育と薫陶の甲斐もあって、子供は物静かな少女に成長した。
 彼女を取り巻く世界は次のようなものだった。
 とりどりの色彩に溢れた広い庭に面した美しい居室。庭を囲む塀は高く、見上げるとまるで空を切り取る額縁のようだ。美しい居室の天井も非常に高くそびえていたが、年月が経ち、子供用のベッドや椅子、机などの家具が片付けられて大人用のものに変わる頃には、少しだけ低くなった。
 クローゼットの中には庭に咲き誇る花のように色とりどりのあでやかなドレスが長々と床に裾を引いていたが、以前は似たような色合いの、やはり上質な子供用のドレスが同様に場所を占めていたものである。
 少女に与えられたもう一つの部屋の中央には、鍵盤が象牙と黒檀でできており、本体には鮮やかな草花の絵が描かれた素晴らしいハープシコードが一台。それに、艶やかな飴色をした二挺の木製ギター。
 そこで彼女は慰みに銀の鈴を思わすあえかな声で歌いながらギターを爪弾き、ハープシコードを奏でた。時には魔女がそこに加わり、少女と合奏することもある。或いは教えられても少女には再現できぬ、繊細な指さばきで妙なる調べを聞かせてくれた。
 少女は自分を育て、共に暮らしている女を「お母さん」ではなく「奥様」と呼んでいた。女自身がそう呼ぶように教えたのだ。「奥様」は少女に名を与え、優雅な衣服や宝石を与え、穏やかな情熱を以て今ある知識を教え、知識に輝きを添える音楽や文学を与え、ぎこちない少し奇妙な愛情と共に庇護を与えてくれた。
 天井が低くなるにつれて「奥様」も縮み、今や少女とほとんど同じ背丈となったが、それ以外には何一つ変わらないように見えた。魔女はまじないの力で老若や美醜を操ってどのような姿も取ることができ、相手によって姿を変えているらしかったので、自分の見ているものが魔女の本当の姿かどうか、少女は知らない。
 そのように、自身の保護者について少女が知るところは少なかったけれども、彼女は自分の出自をきちんと知っていた。ゆえあって引き取り育てることになったけれども、自分たちは他人同士なのだと、これは少女が物心ついてすぐ、魔女が最初に教えたことだった。
「お前はわたくしがお腹を痛めた子供ではない。お前を欲しがらなかった男女の間に生まれた子供だよ。わたくしはお前という命が生まれる前に闇に葬られてしまうのは忍びないと思ったので、引き取ることにした。だが、悲しんだり僻んだりすることはない。血を分けた両親は、お前にはいないも同じこと。お前の命は薬草(エルベ)によって奪われるところだったが、お腹の中にいるお前が健やかに育つように母親に与えたものも薬草だったので、エルベティーナという名前を付けられた」
 だからエルベティーナと名付けられた少女は両親について何の感情も覚えなかった。本来なら両親に向かうであろう思慕や愛は、すべて魔女に向かっていた。彼女を生んだのは確かに別の女であったかもしれないが、今日まで育ててきたのは魔女だったのだから。
 だが両親という存在への興味は持ち合わせていたので、会いたいと望むならいつでも会わせてあげようという魔女の言葉に従って、実際にエルベティーナは一度だけ両親の姿を見たことがあった。
 魔女はその姿を人々にみだりに見せることを嫌っていたが、かといってエルベティーナの両親が暮らしているはずの下町に彼女を一人で足を踏み入れさせることはしなかった。どれほど質素な衣服を着せて顔や髪を汚したところで、隠しきれぬ美しさと育ちの良さをにじませる子供が一人で歩きまわるには危険だと判断したのだ。
 馬も御者も魔法仕掛けで動く馬車にエルベティーナを乗せて町へと向かい、そして向こうからは決してこちらを覗くことができない細工を施した窓から少女が属するはずであった世界を見せたのだ。
 薄汚れたごみごみとした下町でエルベティーナが目にしたのは、それまで書物ではその存在を知っていたが見たこともなく、想像したこともない世界と人々であった。エルベティーナは生まれながらに持ち、魔女によって鍛えられた直感によって、そことそこに住まう人々――ひいては両親さえも――自分とは縁遠いもの、交わることのないものと判断した。
 それでも観察するようにじっと見つめていると、魔女が問いかけてきた。
「両親のもとに戻りたいかい、エルベティーナ?」
 振り仰いだ魔女の目は、思っていたよりも優しい光を宿していた。
「いいえ、奥様。もう満足です」
 エルベティーナは魔女の瞳をまっすぐに見返し、魔女が浮かべているのと同種の静かな微笑みをたたえて首を横に振った。その時少女が何を感じ、何を思ったのかを魔女は尋ねなかったし、少女自身も語ることはなかった。だが、それ以来両親へのエルベティーナの興味や関心はぱったりと途絶え、消え失せた。
 彼女は幼いながらに理解していた。自分の居場所など最初からあの町の中にはどこもないことを。おのれが属し、これからも属していくであろう世界は魔法に満ちた花咲く庭と雅な屋敷であり、それだけが彼女にとって意味を持つ現実であることを。
 そしてその世界の中心にいるのは彼女の「奥様」――彼女にとって母であり姉であり、師であり友であるひと、無二の存在であるひとだった。
 魔女はいつでも飾り気のない黒っぽいドレス(とはいえ生地は上等のものだ)に身を包んでいるので、佇む姿はまるでほっそりとした影のようだ。陶器のようになめらかな肌は影すらも溶け込むほどに白く、ほとんど病的ですらあった。彼女の目は本来ごくごく淡い青なのだが、あまりに色が薄いせいか、昼間には血液の色が透けて紫がかって見えた。
 興味深いものを目にする時や、なにがしかの集中を要する作業に没頭している時、その目はさらに赤みを増したが、かといって青みを失うわけでもなく、まるで夜明けか夕焼けのような色に染まった。その瞳は彼女の怜悧に整った非凡な顔立ちの中でも、ひときわ異彩を放っていた。そこに浮かぶ絶妙かつ様々な色合いの輝きが、その目が自分をとらえてくれる瞬間が、エルベティーナはとても好きだった。
 そのように肌も瞳も色素というものをほとんど持たないのに、逆に髪は黒々としており、まるで艶やかなヴェールのように女の後姿を覆っている。その髪は魔女の持つ色を全てそこに集めたかのように、陽や月の光を浴びて不可思議な虹色に輝くのであった。
 エルベティーナは、不思議な彩りの黒髪と瞳を持つ魔女こそ地上で最も美しい存在だと思っていたが、おのれも魔女の持つそれとは異なる種類の美を持つことを知らなかった。屋敷の中では他に比べる相手を知らなかったし、ごくまれに目にする外の人々にも、彼女たちほどに美しいものはいなかったので。
 そのようにして月日は流れ、魔女の屋敷を影のように取り巻く噂に新たなものが付け加わった。それは屋敷に美しい少女が一人、囚われているのだというもの。
 少女がどこから来たのかは誰も知らない。赤ん坊の頃にさらわれたどこぞの姫君なのだとか、魔法で作られた人形あるいは生き物だとか、はたまた魔女自身の子供であるとか、少女については何もかもが語る者ごとにまちまちであった。だが、共通していることが一つだけあった。件の少女は目も覚めるような美貌の持ち主だ、ということである。
 しかし少女の姿をはっきりと見た者はいない。ある者は少女の髪は黄金にも勝る輝かしい色をしているのだと言い、またある者は、少女の髪は魔女と同じで墨よりも黒い色だと言うのだった。
 もしも噂を聞いたなら、黒髪の女とは奥様のことだ、とエルベティーナは言っただろう。とはいえ魔女の姿を垣間見た町の人々が、彼女こそが囚われの少女なのだと誤解しても無理はない。エルベティーナの前では若く美しい姿でいる魔女だったが、かれらに見せる姿は大抵、恐ろしげに老いた姿であったので。
 エルベティーナにとって魔女は敬愛と憧憬の対象であり魔法は日常であったが、屋敷を訪れる者の大半は彼女とその力を恐れているようだった。魔女から許された時しか客の前に出ることのないエルベティーナであったが、屋敷の空気にまるで、香気の中に紛れこむ苦い煙のような客人たちの怯えや軽蔑や恐怖といった感情を敏感に感じ取ることができた。彼女にはそれが不思議でならなかった。
 人々の噂はどうであれ、魔女と少女の間には確かに絆があり、二人だけで完成された幸福の中に暮らしていた。


(2011.7.10up)

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