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黄金の綱3


 ところで町を治めている公爵には、跡取りとなる息子が一人いた。彼は高位貴族の義務と慣例に従って幼いうちに王のもとへと送られ、そこで基本的な教養を授けられ、また騎士としての教育を受けていた。成人を迎えたので正式に王に剣を捧げて臣下となり、父の後を継ぐべく町に戻ってきたが、それは実に十年ぶりのことであった。
 公子は十八歳。彼は生まれながらの地位と名声、称賛されるにふさわしい恵まれた外見と知性を持っていたが、周囲から批判など受けたことのない若者の常として、少々自己評価の高すぎる感のある青年であった。
 若い公子は、まだまだ壮健ながら隠しきれぬ老いの兆候を見せはじめた公爵のもとで、町を治めるために必要なものごとを学び、経験し、時には代理としてその能力を試す機会を与えられ、そのようにして一年が過ぎた。
 ある日公子は二、三人の供と猟犬たちを従え森へと猟に出かけた。半日をかけてすらりとした華奢な鹿を追いまわし、死の予感に悲しげな目を瞬かせるビロードのような兎たちを、美しい羽根にくるまれた小鳥を殺すことに明け暮れた。
 最後に、琥珀のような色合いの艶やかな毛皮を持つ魅力的な狐を追ううちに、一行は森の奥深くへと分け入っていた。次第に木々が密度を増して枝葉が作り出す影が濃くなっていき、それにつれて時に騒々しいほど鳴き交わしていた小鳥たちの声も疎らになっていく。大きな一跳ねで藪を踊り越えた狐を追って、公子は巧みな手綱さばきで馬に藪を飛び越えさせた。するとそこには、森の中にはおよそ不釣り合いな一本の小道があった。
「こんな所に道があるなんて」
 公子が驚いて呟いたのも無理はなかった。森に通じた狩人ですら滅多に入らないような奥地だというのに、その道はほのかに透明感を帯びた白い玉砂利を敷き詰めて整えられ、雑草の一本も生えていなかったのだ。
 道の中央まで進み出た公子が左右を眺め渡すと、彼から見て右に当たる道の端は森の奥へと飲み込まれるように消えていたが、左側には高い塀と、そこから覗く屋敷の屋根と塔とが見えた。道と同じようにほの白く、幻のように佇む屋敷であった。
「丁度いい。馬たちも疲れてきたようだし、あの屋敷で少し休ませてもらおう」
 独り言のように言った公子は、屋敷に向かって馬を進めはじめた。黙ってつき従った供たちだったが、やがて自分たちがどこに向かっているのかに気づいた一人が慌てた声を上げた。
「いけません、若様。早くここを離れましょう」
 公子はしばし馬を止め、尋ねた。
「なぜだ?」
「あれは黒い魔女、森の魔女の屋敷です」
 すると公子は皮肉っぽく片眉をあげてみせた。
「ほう、これは意外だ。なかなか趣味の良い屋敷だが、あれが噂に聞く魔女の住処か。怪しげな薬を作り、まじないをよくすると聞いているが、そんないかがわしい商売でも随分と稼いでいるようだな」
 そう言いながら屋敷を見やる目は値踏みをするようであり、彼が魔女という存在をその呼び名だけですでに相手を一段、或いはそれ以上に低いものとして見下していることを明らかにしていた。
「まだ魔女というものを見たことがないが、さぞや醜い老婆なのだろう。ひとつ確かめてやろうじゃないか」
 傲岸に言い、公子は再びあぶみを蹴った。慌てふためいた従者たちが制止しようと騒ぎたてる声を背中に聞いたが、彼は振り返らなかった。暫時遠ざかった従者たちの声は、まもなく乱れた蹄の音と共に近づいてきて、結局のところ一行が魔女の屋敷の前にたどり着くまで離れることはなかった。
 やがて公子は魔女の屋敷と庭を囲む壁の際までたどり着いた。そこは屋敷の裏手に当たる場所だったので入口はなく、馬に乗っていてさえ頭を向こうへ覗かせることもできないほど高かったので、中を窺う術は無かった。
「ふうん」
 鼻を鳴らして壁を見上げ、公子は二度ほどその前を往復してみた。だがやはり、この屋敷の入口は彼らがいるのとは反対側の一か所にしかないようだった。なおもその場を離れようとしない公子に、従者たちはしきりに周りを気にしながらためらいがちな声をかけた。
「若様、もう戻りましょう。獲物は充分に獲れましたし、魔女の住処をお確かめになられたのですから、もうよろしいではございませんか」
「そろそろ戻らねば、森の中で日が暮れてしまいます」
 自分の思い付きを口々に反対されるので、公子は少なからず気分を害した。たった一人の後継ぎだというので幼い頃に甘やかされていたこともあり、もともと気を悪くしやすいたちだったのだ。
「何を言っている。まだ魔女を見ていないではないか」
「しかし、見つかったら何となさいます。呪いなどかけられでもしたら……」
 青ざめて心なしか震えているようにも見える従者たちに、公子は蔑みの目を向けた。
「ばかなことを。まことの信仰さえ持っていれば、呪いなど恐れるに足らぬものだ。そんなに恐ろしければ、先に戻っているがいい」
「そ、そのようなわけには参りません」
 公子を一人置き去りにした場合に振りかかるだろう公爵の怒りを恐れているのか、それとも公子個人への忠誠心の強さゆえなのかは定かでないが、必死な表情で壊れた人形のように首を横に振る彼らを見て、公子は傾きかけていた機嫌を直した。
 屋敷の建て方から察するに、恐らくは今公子たちがいるのとは反対の側に設けられているだろう門まで行くのは面倒であったし、相手を最初から侮り、見下していたとはいえ恐ろしい噂ばかりを聞く魔女の屋敷に正面から乗り込んでいくほど向こう見ずではなかったので、公子はその場から塀の中を覗くことにした。
「お前たち、そちらから魔女やら使い魔やらが来ないか、しっかり見張っているんだぞ」
 そう命じると、鞍の上で伸びあがり、塀のてっぺんに両手をかけてしっかりと掴み、彼は馬の背を踏み台にするような形で上半身を塀の上に引き上げた。訓練されているとはいえ全く動かないわけではない馬を足がかりにしているので幾分不自然で辛い体勢だったが、公子は魔女の庭を覗くという目的を果たすことに成功した。
 様々の植物に覆われ、色彩に満ちた庭を目にした公子は、その見事さに思わず感嘆のため息をついた。奇妙な形に矯めたり、思いどおりの形に刈り整えた木だとか、幾何学模様を描くように植えられた芝や花といった人工の美しさはそこには無かったが、自然の美がそこにはあった。一見するとほったらかしにされ、好き放題に伸びているように見えたが、荒れているわけでは決してない。植物たちは本来の姿を失わず、それぞれの領域を侵しあわない程度に手入れされ、穏やかな秩序の中に繁栄していた。
 公子が手をかけて覗いている塀の周囲には背の低い植物が植えられており、中央へ向かうにつれ樹高が高くなってゆく。庭のほぼ中央には小さな白亜の噴水が見え、その周囲には多くの花が咲き乱れていた。ここからではその種類までも見分けることはできなかったが、その色彩は鮮やかな錦織を見るようであった。
 庭の最も奥まった場所には、屋敷を囲むものよりも少し低い塀と、さらにそれを守るように一定の間隔で植えられたトネリコの木立で区切られた一角があり、蔦のように優美な曲線を描く鋼鉄の扉がそこに付けられていた。明らかに秘密めいた雰囲気を醸し出すそこが恐らく、噂に聞く、怪しげな薬の材料となる植物が育てられている場所なのだと公子は察しを付けた。
 その時、金属が軋むどこか悲しげな音が響いた。夕暮れ間近ということもあって鳥の声もほとんど絶えて周囲はとても静かだったので、その音は彼の耳にもはっきりと聞こえた。音の聞こえた方へと目を転じれば、件の薬草園の扉が開いてそこから誰かが出てくるところだった。
 公子はトネリコの木の陰からゆったりと近づいてくる輝かしい生き物を目にして息を呑んだ。
 真珠を思わせる肌は、庭の植物たちに溶け込む、地が淡く縁が濃い青林檎色のドレスから浮き上がるように眩しい白さ。緩く編まれた髪は肩から胸へと回され、少女の半身を覆っている。その髪はまるで黄金の滝であり、暮れはじめた太陽の赤みがかった光を浴びて炎のように輝いていた。
 あまり熱心に見詰めていたので、その視線がまるで熱か質量を持ったものとなって届いたかのようであった。エルベティーナは公子の視線に促されるように顔を上げた。そして見知らぬ顔が塀の上からこちらを覗いていることにようやく気付いて驚いた。だがその汚れない無垢さのおかげで、それが不審なものだという先入観を持つことも、人がいると叫ぶことも思いつかなかった。
 エルベティーナが自分に気づいたと知るや、公子はもっと大胆になった。
「美しいお嬢さん、君の髪はまるで太陽のようだ」
 ため息をつきながら公子は言った。
「あなたはどなたです?」
 暫く無言で驚きが去るまで静かに見つめた後、エルベティーナは首を傾げた。この時まで瞬きするのも忘れて彼女に見惚れていた公子は、容姿を裏切らぬその声の軽やかな響きにまた感心した。
「驚いた。僕を知らないのか? 僕は町の公子、いずれ町を治め、君の主人となる者だ」
 彼の声に傲慢の響きを感じ取ったエルベティーナは、自らに自信を持っている者は美しいが、それが尊大の域に達してしまっているものはあまり快いものではないと思った。しかし生来の優しさと慎み深さから、それを表に出すことはせず丁寧に答えた。
「申し訳ありませんが、私はあなたを存じ上げません。町のことには詳しくありませんから。どのようなご用向きでここにいらしたのですか? もしも奥様にご用がおありなら、そのように塀から覗かれるのではなく、どうぞ門から入っていらっしゃいませ。玄関は開いておりますから」
「魔女などに用はない。だが、君には興味がある。そちらに行って、話をしても?」
 エルベティーナは幾分か困ったように再び小首を傾げた。屋敷への出入りは主である奥様が可否を決めるべきだと思ったし、仮にその権限が同居人である自分にもあったとして、正面から入る気などさらさら無さそうなこの男を招き入れてもよいものか、彼女には判断がつかなかったのだ。
 屋敷にいったん戻り、奥様に尋ねてみようかとエルベティーナが塀と屋敷とに視線をさまよわせて逡巡している間に、痺れを切らした公子は塀を乗り越え、塀にびっしりと絡んだ蔦を頼りにこちら側へと降りてきていた。
 その足音で男の侵入に気付いたエルベティーナは、今度こそ驚きと同時に恐怖の色を浮かべた。薔薇色の頬をさっと青ざめさせ、拳を口元へ当てた。だが、その唇から悲鳴が漏れることはなかった。
 未知の恐怖に心臓を掴まれるような思いを味わったエルベティーナだったが、間もなく屋敷にかけられた安全のまじないによって、奥様に気づかれず屋敷に忍び込むことなど不可能であることを思い出した。
 となれば奥様はもう男が庭に入り込んだことに気づいているはずであるし、それでもこちらに来ないということは、切迫した危険はないと判断されたということだ。もし男がエルベティーナに害を加えようとするなら、すぐに奥様が助けに来てくれると思うと恐怖は薄らいでいき、やがて芽を出した好奇心に押されて消えていった。
 心に余裕が出てきたので公子の様子を観察していたエルベティーナは、彼が携えている銀象眼の銃に目をやり、かすかにその整った眉を寄せた。たとえきらびやかに装飾されていたとしてもそれが無粋な武器であること――目の前の公子と名乗る男がこの屋敷に辿り着く前に行っていたのは、必要に駆られてではなく、楽しみのために命を奪う行為であることに気づいたからだ。しかし彼女はそれに対する抗議も不快を表明する手段も知らなかった。魔女を介さずに他人と接するのはこれが初めてのことであったからだ。
「なぜ君のように可愛い人が、こんな魔女の屋敷にいるんだ?」
 己の考えを押し付けるような公子の訊き方と口調には相変わらず好感を持てなかったが、エルベティーナは自己に下された評価には触れず、簡潔に答えた。
「両親が望まなかった私を、奥様が引き取ってくださったからです」
「望まなかっただって? 君ほど美しく可愛い人を、望まない親などあるだろうか」
 公子は心底から驚いた声を出した。
「かわいそうに、君は魔女の囚われ人だというのに、そのことに気づいてもいないんだな。一緒においで。君を牢獄から解き放ってあげよう」
 そう言って差し出された手から、エルベティーナは一歩下がって逃げた。それは男を避けようとする本能的な反応だった。彼女は公子の目を真っ直ぐに見つめ返し、きっぱりと首を横に振った。
「牢獄などと、何をおっしゃっておいでなのでしょう。見てお分かりになりませんか? 私は自由です。囚われてなどいません」
「なら、君自身の意思でここを出ないか。君にはもっとふさわしい世界がある。もっと美しいドレスや宝石で身を飾り、人々の称賛を集めてしかるべきだ。君のような美しい人を、こんな森の奥に閉じ込めておくのはいかにも惜しい」
「いいえ、できません」
 エルベティーナの拒絶など耳に入らぬていで、公子は熱っぽく訴えた。彼は目の前の少女ほどの美を目にしたこともなく、また明確な拒絶に遭ったこともなかった。そしてまた、おのれの容姿や地位を意に介さぬ相手がいたというその事実が、彼の熱情を逆に掻き立てた。
「つれない人、せめて名前を教えてくれないか」
 半歩進んで再び詰めようとした距離は、エルベティーナがもう一歩下がったことによって慎重に維持された。そうして男から逃げながらも、エルベティーナは静かに答えた。
「エルベティーナです」
「エルベティーナ……」
 公子が続けて何かを言おうとしたまさにその時、すっかり薄闇に包まれた屋敷の奥の影から稲妻が閃くような炎が見えた。エルベティーナの居室でランプが灯されたのだ。光は二つに分かれ、小さな方がゆったりと揺らめきながら動き、黒い影と共に庭へと出てきた。奥様が自分を迎えに来るのだとエルベティーナは気づいた。
 小道に足音が響いた。
 魔女がこちらに近づいてくること――侵入の現場を魔女に押さえられれば、いかに自分が身分高いものであろうが、多かれ少なかれ困った状況に陥るだろうことに公子も気づいた。彼は慌てて背を返し、近くの木と蔦を頼りにして塀をよじ登った。
 塀を乗り越える寸前、彼は肩越しにエルベティーナを振り返った。彼女は侵入者が完全に消えるのを確認するつもりだったので、目を離さずにいた。それを都合よく解釈した公子は、慌ただしい口調で告げた。
「また来るよ」
 エルベティーナは応えなかった。そして公子の姿が塀の向こうに消えるなり、くるりと身をひるがえした。ぼんやりと夕焼けの残照に浮かぶ生け垣の向こう、遊歩道の向こうから、闇を切り取ったように黒い姿が近づいてくる。魔女はほんの少し呆れたような――軽蔑の色も混じっていたかもしれない――目を塀に投げた。
「まったく。公爵の息子ともあろう者が、こそ泥のように覗きをして、裏から他人の屋敷に入りこむなどと、ずいぶんと卑しい真似をすること。怖い思いなどしなかったかい、エルベティーナ?」
「大丈夫です、奥様。いきなりのことで少しびっくりしましたけれど、奥様が見守っておいでのこのお屋敷で、危ないことなどありませんもの」
 それを聞いた魔女はうっすらと微笑んだ。
「あの男、どうもつまらぬことを色々言っていたようだけど、何と?」
「私に、ここを出て一緒に来ないかと。もちろんお断りしましたけれど。それから、また来ると仰っていました」
「おやまあ。こんなことなら、花の手入れにはわたくしが行けば良かったね。さあ、戻ろう。もうすぐ夕飯だよ」
 魔女は肩をすくめながら、エルベティーナに手を差し伸べた。迷いのない動作でその手を取り、エルベティーナは魔女と並んで歩きだした。


(2011.9.10)

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