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黄金の綱 1


 それはまだ大地が平らであった頃。太陽と月、星々が不動の大地を巡り動いていた頃の物語。
 とある町はずれの森の中に、白い幻のように石造りの屋敷が建っていた。屋敷は蔦の絡まる高い塀と庭園に囲まれており、その庭園はとても見事なもので、そこではありとあらゆると言っても過言でないほどたくさんの植物が育てられていた。
 静かな森と、塀と、庭園。木々と草花たちによって幾重にも囲まれたその屋敷には、一人の女が住んでいた。
 町の人々は女のことを森の魔女だとか、黒い魔女と呼んでいた。彼女が住んでいるのはまさしく森の中であったし、その髪は夜の闇よりもさらに深い黒色をしていたからである。だが彼女が本当に魔女なのか、定かなところを確かめたものは誰もいない。確かに、まじないを用いるという面において女は魔女であったけれども。
 彼女はあまり好意的でないそれらの呼び名を好まなかったが、呼びたいように呼ばせていた。どちらにもせよ彼女が超自然の力を持つ存在であることに違いはなく、余人には計り知れぬ知識と力を持ち、時には自然の理すら従えることができる、そのような存在を定義する言葉は他にないことを知っていたからだ。
 しかし基本的に女は知識を得ることに貪欲な探究者であり、また、より力を高めようとする求道者であった。誰にも邪魔されない静かな生活を好んでいたので、広い屋敷には召使の一人もおいていなかった。けれども身の回りのことは大抵まじない一つで済ませることができたし、まじないでは行き届かないものを補う手段もきちんと持っていたので、それに何一つ不便を感じることも孤独を感じることもなく長い間暮らしていたのだった。
 女を知る数少ない者たちはその学識のほどを理解し、恐れていた。その他の者もやはり、その力ゆえに彼女を恐れていた。それでも、屋敷を訪れる者が誰もいないというわけではなかった。女が庭園で育てている植物の中には貴重な薬草があったし、女はしかるべき対価と引き換えに(これは女に少なからぬ収入を与えていた)それらを人々に分け与えてやっていた。また、自分自身の問題を解決するためにその知恵を求める者もいた。
 その夜も、町に住む男が一人、魔女の庭園へとやってきていた。
 しかし、男は招かれざる客であった。門を潜らず、夜闇に紛れて塀を乗り越えて入ってきたのだ。塀は高かったけれども侵入者を拒む矢来のたぐいは設けられておらず、その気になれば乗り越えることができた。男はすっかり女の目を盗んだつもりでいたが、屋敷には用心のためにまじないがかけてあったので(力ある魔女でも――或いは魔女だからこそ、一人暮らしは危険なものなのだ)、女はすぐにそれと気づいた。
 敷地の中なら望んだ場所をどこでも映し出すまじないをかけた鏡で庭の様子を確かめた女は、ため息一つと共に小さく肩をすくめた。
「やれやれ、やっかいな客が来たこと!」
 女に金を払いたくない、或いは払えない貧乏人が薬草を求めて盗みを働くことはこれまでにも何度かあったので、そういうことなら見逃してやってもいいかと女は思ったが、どうも男の目的はあまり褒められたものではないようだった。そうと見てとった女は音もなく扉を開けて外へ出ると、影のように密やかに男へと近づいた。
「わたくしの庭で、何をしておいでだい?」
 背後から魔女が声をかけると、男はばね仕掛けの人形のように一フィートほども飛び上がった。手にしたランタンを落として貴重な植物たちに危害を加えるのでは、と女はかすかに危惧したが、幸いにしてランタンは男の手から離れることなく、心底驚き、また怯えた男の顔を照らしだしただけだった。
「これは、これは、奥様」
 ぎくしゃくと振り向いた男は震える声で言った。声はすっかり女に怯えているというのに、顔には卑屈な笑いをしっかりと張りつけているのがいっそ見事だった。それは女にとって、まったく愉快なものではなかったが。
「お庭に勝手に入り込んだことは、申し訳ねえと思っています。ですが、どうしても、こちらの薬草を少しばかり分けていただきたくて――」
「わかっているのなら結構。で、何のために?」
 女は男の声を遮るようにして尋ねた。男はますます腰を低くし、揉み手をせんばかりになりながらへらへらと言った。
「女房に子供ができましたんで。それで具合が悪いんです。このままじゃ、死ぬんじゃないかと心配で心配で」
 修練を重ねた勘と知性によって、女はただちに男について多くのことを見てとった。男は見ての通りの盗人で、世間の屑であること。その主が魔女と噂される屋敷に忍び込むという暴挙をあえて冒すほど妻の健康を気遣っているのは愛情ゆえではなく、妻が彼の役に立つからというだけであること。そのことはただでさえ夜間の侵入者を不快に感じている女の心をさらに苛立たせた。
「それなら、何だってお前さんはこんな所においでだい? まさかここに植えてあるもの――今お前が手にしているものが何なのか、知らないわけでもあるまい」
 その声は冷ややかで親しみの欠片もなく、まるで氷の刃のようだった。男は悪戯が見つかった子供のようにぎくりとして、手袋をはめた手の中で既に萎れかけている数枚の葉を見下ろした。
「こういうことだろう。お前の妻は体を売って、お前にいい稼ぎをもたらしてくれる。それが子供を孕んで不格好な姿になったら客が寄り付かなくなるし、仕事にならなくなると、そう思ったわけだね」
 男はほんの数秒、表情すらも凍りつかせて女の顔を見つめたが、気を取り直したように再びへらりと愛想笑いを浮かべた。
「奥様に隠しごとをしようなんて、俺は馬鹿でした。仰るとおりです。まともに働こうったって、それじゃとうてい食っていけないんでさ。二人とも干上がっちまった日にゃ、ろくなことになりゃしません。けど、もしもよく効く薬草をいただけるなら、心配ごとは全て解消するわけでして……」
 女の視線はさらに冷ややかなものとなった。彼女は自分に知識を与えてくれるあらゆるものに対するのと同じくらい、命というものに対して博愛の感情を持っていたからである。しかし幸か不幸か男はその視線に気づかなかった。
「その子供はお前の子のはずだから、勝手に始末していいと思っているのだね」
「いや、それはわかりませんが」
「そうでなかったとすればますます、お前にとっては必要ないということじゃないか」
 女は言った。そして自分の言葉によってますます不快になった。それこそがこのような客を招きよせてしまう原因の一つでもあったのだが、彼女が取り引きする品の中には致命的な毒もあった。しかしそれは傷や病の痛苦を無用に長引かせず、安らかな最期を迎えさせてやるためのものであり、依頼者自身の真摯な望みを受けて初めて処方されるものだった。決して、第三者の勝手な都合で命を闇から闇へと葬り去るためのものではなかった。
 だがそれをこの男に説明したところで、恐らくは詮無いことだろう。澱のように沈んでいく腹立たしさと厭わしさをどうしたものかと、彼女は考えた。そうするうちに、ある一つの思い付きが心に浮かんだ。
「わたくしはどんな頼みにも、報酬を求めることにしている。承知だろう」
 それを聞くと、男はまるでもう全ての問題が解決したかのように晴々した顔つきになり、媚びるような視線はそのままに、勢い込んで言った。
「女房が元気になりましたら、初めの月の稼ぎをそっくり差し上げます」
 すると女は男を睨んだ。
「では、言ってごらん。その月の稼ぎはどれくらいになる?」
 男はある金額を口にした。女は男の思念が明確なイメージとして読み取れるまで待って、納得したように頷いた。
「額を半分に減らしたね。いや、何も言わなくていい。お前にいい話をしよう。わたくしの方からその額を倍にして、ひと月ごとに払ってやろう。ただし、お前の妻が無事子供を産めばの話だけれどね」
 男はぽかんとした。
「なんでまた――」
「お前にとって、悪くない取引だろう。丸儲けじゃないか」
「けどあの――」
「外に出してもいいくらい大きくなったら、ここに連れておいで。その時に最後の支払いをしてやろう。お前の悲しむべき損失の埋め合わせをするためにね」
「けど――」
 なおももごもごと言い返そうとする男に、女はぴしゃりと言った。
「理由を聞こうなんて気は起こさないことだよ」
 男はたじろいだ。自分に運が向いてきたのか、ただ相手が気まぐれを起こして、掌を返してひどい目に遭わせるつもりなのか、判らなかったのだ。
「ここでお待ち。これ以上、何も触るんじゃないよ。この屋敷は全体に安全のまじないがかけてあって、わたくしの許可なくこの屋敷のものを一つでも持ち出せば、大怪我をするからね。信じるかい?」
 さっと青ざめた顔から、男がその言葉を信じたのが判った。
「最初の支払分を持って戻ってくるよ。具合が悪くならないように、お前の妻に精をつけさせる薬草もね」
 女はくるりと背を向け、足早に屋敷へと戻った。ことの成り行きはあまり気に入らぬものであったが、今の気分には高揚に近いものがあることに女は気づいていた。未知の事物や経験への尽きせぬ好奇心と知識への飽くことなき探究心こそが、女を動かす原動力であり、力の源であった。彼女をしてこの取引を持ちかけさせた動機は、望まれぬまま消されようとしている命への憐憫だけでなく、その命に責任を持ち、一個の人格として完成させること――おのれの知識を誰かに分け与え、育てることへの興味であった。
 これまでにも女は、迷い込んできた獣の子や小鳥を育てたことがあった。だが、子供を育てるとなると、これは知識として色々な事を知ってはいても、経験としては全く未知の領域だった。そもそも、最後に誰かと共に暮らしたのすら、気が遠くなるほど昔のことである。ずいぶん長いこと、女は一人であることに慣れていた。
「でもまあ、大丈夫。何とかなるわ」
 女は呟いた。
「何をどうすればいいのかは知っているんだから」
 かくて数ヵ月後、月満ちて産まれた赤ん坊は母の手から引き離され、女のもとへと届けられた。
「女の子か」と女は言った。
「実に結構。男の子は騒がしいし、汚いし。何かと面倒だからね。でもこの子なら、賢そうな顔をしている。きっといい子に育つだろう」


(2011.6.20up)

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