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     獅子の王とロザリアの花のえにしは
     星の巡りによって定められたこと。
               ――キャスバート




     第二楽章 嵐のロザリア




「なあアルドゥイン、おぬし、リュアミルが好きなのだろう」
 少し口調を和らげて、サラキュールは尋ねた。酔っぱらっていたせいもあって、アルドゥインは今度は素直に頷いた。
「好いておるなら、結婚したいと――ありていに言えばその女を欲しいと、ものにしてしまいたいと思うのが男というものではないのか?」
「お前、そんな直截な……」
 アルドゥインは困ったが、サラキュールはそれを遮って続けた。
「誰ぞの夫人に愛を捧げて云々という恋愛遊戯が一昔前には流行ったものだが……おぬしは別に既婚の貴婦人を好いておるわけではないだろう。好いた女に対して情熱を抱くことは何も不自然なことではないし、間違ったことでもないぞ。まさか不能というわけでもあるまい?」
「失礼だな、そんなわけ……!」
 ない、と叫ぼうとしたアルドゥインであったが、それは間接的に自分がリュアミルにそういった欲望を持っていると認める事になると気づいて口ごもってしまった。しかしサラキュールは自分がきわどい話をしているという自覚がなかったこともあり、アルドゥインの困惑など気にも留めずにどんどん話を進めてしまった。
「恋愛遊戯でもないのに、好いた男に仕えられるだけが女の幸せか? 女だって、好いた男とは結ばれたいと思うのが当然だろう。お互いの気持ちが明らかなら、申し込むのは男の義務だぞ」
「だ、だからそれは……」
 アルドゥインはなおも、逃げる言い訳を探そうとした。
「アルドゥイン」
 だがサラキュールの目は真剣だった。
 彼は渇いた喉を潤すように一口だけワインを飲み、グラスを脇に置いてからずいと身を乗り出してきた。アルドゥインは勢いに押されたので、その分だけ背もたれにのけぞることになった。
「正直に答えろ。おぬし、惚れた女と一生何事もなくて平気なのか? その女が他の男のものになってもよいとか、ただ遠くから見守っていればよいとか、仕えるだけでよいとか、本気で申しておるのか」
「……そんなことはない」
 ぼそぼそとアルドゥインは答えた。
「なら、なぜそれが言えぬのだ」
「だからそれは……俺が殿下にはふさわしいとは思えないから……」
「なら、誰ならふさわしいと思う。エトルリアの阿呆公子どもか、逆賊の姉を持ったハークラーの馬鹿殿か? まさかあの皇后陛下の弟がふさわしいなどとは、いくらおぬしが間抜けで大馬鹿で、ついでに頓馬の呆けなすだとしても言うまい」
 まだ判断力と理性はかすかに残っていたものの、こちらも酒がだいぶ入っていたので、修飾語がかなりきわどいものになっていた。といって、対するアルドゥインも自分にとんでもない修飾語がつけられたことに気付いていなかった。しらふだったら、取っ組み合いくらいにはなっていたかもしれない。
「アルドゥイン、リュアミルに幸せになってほしいと思うか? 心の底から、真剣に?」
 子供のような素直さで、アルドゥインは無言のままこくりと頷いた。
「あのな、アルドゥイン。このままいけばリュアミルは好いてもおらぬ男と望まぬ結婚をせねばならぬ。あるいは、断りつづければ一生結婚せぬかもしれぬ。それがリュアミルにとっての幸せだと思うか?」
「……思わない」
「しつこいかも知れぬが、なら何故おぬしは自分が幸せにしてやろうとは思わぬのだ」
「……」
 アルドゥインは答えなかった。ただ、固い顔をして黙り込んだだけだった。サラキュールは小さなため息をついた。
「それは、リュアミルが皇太子だからか。おぬしは地位目当てと思われることが嫌で求婚できぬのか」
 アルドゥインは黙ったままだったが、サラキュールはその表情を見て自分の推論が正しいことを確信した。
 数秒、サラキュールは頭痛でも起こしたように額を軽く押さえ、机に肘を突いていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「アルドゥイン、ちょっと立て」
「?」
 サラキュールは立ち上がり、アルドゥインを差し招いた。促されるまま立ち上がったアルドゥインは、次の瞬間後ろに吹っ飛んでいた。
 殴られたと気付いたのは、床に転がってからだった。普段なら踏み堪えられたはずだが、酔っていた上に予想もしていなかったことだったので、まともに拳を受けた上に、受身を取ることもできず仰向けに倒れてしまった。
「ってぇ……!」
 倒れた拍子に床に頭を打ちつけ、アルドゥインは呻いた。
「何するんだよ!」
 殴られた顎を押さえながら起き上がり、文句を続けようとしたアルドゥインは、仁王立ちになって見下ろしているサラキュールの目に射られて口をつぐんだ。それは黒い炎を思わせて、これまで見たことがないほど冷たく、厳しい目だった。
「見下げ果てたぞ、アルドゥイン」
 サラキュールはほとんど感情を読み取れない、平坦な声で言った。しかし、白刃で切りつけるような鋭さがあった。アラマンダ公としてのサラキュールならば今までにも様々な場面で見てきて、すでに見慣れたものであったが、こんな表情はアルドゥインには初めて見るものだった。
 それでこそメビウス海軍の長なのだと――数万の海兵を束ねる大元帥なのだと納得できる、氷海のような冷厳さを持つ顔であった。
 ただ、敵でもないのにそんな表情を向けられるのは、できれば遠慮したかった。こちらは全くの私的な空間で私人として対していたから、突然サラキュールの態度が変わってしまったことに、とっさには対処できずにいた。
 アルドゥインが混乱し、また圧倒されて呆然としている間に、サラキュールは再び口を開いた。
「リュアミルが地位目当てで求婚する馬鹿と、真実まことの愛を語る者の違いも判らぬ愚か者だとでも思っておるのか? おぬしはリュアミルをその程度にしか思っていなかったのか。こんな男を親友と呼んでいたとは、おのれが情けなくて涙が出るわ」
「それは……」
 アルドゥインは言葉に詰まった。サラキュールは一歩進んで、まだ座り込んだままのアルドゥインの前にしゃがみ込んだ。
「リュアミルを失望させるな」
 見つめるサラキュールの瞳に燃え上がっていた怒りの色はすぐに消え、穏やかなものになっていた。
「リュアミルに必要なのは、地位など見向きもせずリュアミルだけを愛してくれる男だ。加えておぬしにはリュアミルを守る力と、女帝になった後も支えてゆける器量がある。リュアミルを幸せにしてやれるのは、おぬししかおらぬ。リュアミルを幼い頃から見てきた私が――アラマンダ公であり海軍大元帥たるこの私がそう確信しているのだ。少しは自分の価値に気づけ」
「……」
「地位とは、その持つ意味を知らず地位それ自体を望んでいるものには決して与えてはならぬのだ。王の称号などどうしても要らぬとおぬしは言うかも知れぬが、リュアミルを幸せにしたいならその程度は我慢しろ。リュアミルを支え、守っていくにはそれぐらいの地位だって必要なのだぞ」
 何か言うことが間違っているような気がする――と思いながら、サラキュールは続けた。アルドゥインはうなだれて、ただ彼の言うことを黙って聞いていた。あまり黙ったままでいたので、サラキュールは確かめた。
「聞いておるのか、アルドゥイン」
「聞いてる」
「自分がなすべき事は判ったか」
 アルドゥインは顔を上げ、間髪入れずに答えた。
「陛下に殿下との婚姻の許可を願う」
 しかし言った後で、自分の言葉に照れて顔を伏せてしまった。
「誓えるか」
「俺の全ての名誉と命にかけて」
「では今から……と言いたいが、今夜はもう遅い。明日の朝になっても、その言葉を忘れるなよ」
 サラキュールは立ち上がって、アルドゥインのために手を差し出した。アルドゥインはその手を取って自分も立ち上がろうとした。だが、アルドゥインが後ろにのめったのが先かサラキュールが倒れたのが先か、二人とも床に倒れこんでしまった。
 倒れた次の瞬間には、二人とも寝息を立てていた。
 アルドゥインは気が抜けたせいで、サラキュールはそれまで張っていた神経が緩んだせいで、回っていた酔いが一気に出たのであった。
 扉の前で成り行きに耳をそばだてていた召使たちが、急に静かになったのを心配してそっと扉を開けた時に目にしたのは、テーブル中に散らかった酒の瓶とグラス、そして床に折り重なって死んだように寝ている二人の青年、であった。
 翌日の早朝、アルドゥインはまだ抜け切らない酒と二日酔いのせいでかすかな鈍痛が澱のようにそこはかとなく感じられる頭を抱えつつ水晶殿に赴き、朝見前に拝謁をたまわりたい、という使者を出した。
 同じく酔いつぶれたサラキュールは数人の手で客用の寝室に運ばれて、アルドゥインが出ていった時にもまだ寝ていた。明らかにアルドゥインよりもたくさん飲んでいたから、ジークフリートが迎えに来ても、たぶん今日一日は何もできないだろう。
 早朝の――まだリナイスの半刻である事もあり、イェラインが起床しているかどうかは判らない。もししていなければ、皇帝の起床と身支度が終了するまでしばらく待たなければならない。
 アルドゥインはそのことを考え、待っている間にもう一度覚悟を決めておけると思ったのだが、驚くほど早く、謁見を許可するという返事を持って従者が戻ってきた。何のことはない。イェラインは昨日の夜から、アルドゥインがやってくるのを今か今かと待ちかまえていたのである。
 当然のことながら、今朝はいつもより一テル以上も早起きして、自室でやきもきしながらこの時を待っていた。アルドゥインが来たと知らせを受けて、イェラインが飛び上がって喜んだ事はいうまでもなかったが、その世にも面白い現場は残念ながら知らせを持ってきた侍従しか目撃できなかった。
「……エルウィン、俺、酒臭くないかな」
 謁見の場に赴く前に、アルドゥインは従者に尋ねた。一応、朝一番に風呂をつかい、歯も磨いて香味のあるマリニアの葉を噛んでおいたのだが、目が充血していなかっただけましと言うもので、酔いつぶれるまで飲まされたのだ。嬉しくも何ともないことだが、絶対に酒臭い自信があった。
「皇帝陛下から二バール以内には近づかれない事です」
 普通に考えるとばかばかしいことを尋ねられたエルウィンだったが、主人が真剣であることは理解していたのでしごく真面目に答えた。そしてまた、アルドゥインもしごく真面目な顔をして頷いたのだった。
「わかった。なるべくそうする」
 アルドゥインが通されたのは、昨日イェラインとサラキュールが極秘の会見を行った黄色の小部屋の隣で、格式ばらずに私的な謁見を行う部屋の一つであった。
「お早うございます、陛下。貴重なるお時間をいただきましたこと、まことにもって感謝いたします」
 膝をついて挨拶を述べると、イェラインはもどかしそうに手を振った。
「堅苦しい挨拶はいらぬ。用件を早く申さぬか、アルドゥイン」
「はあ……」
 何をそんなに急ぐのか、とアルドゥインは内心首を傾げた。まさか、自分が何を言いに来たのかをイェラインが予測でとはいえ知っており、それを心待ちにしているなどとは夢にも知らなかったので。



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