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 こうして、その夜サラキュールは紅玉将軍の公邸を訪れたのであった。オルテアに滞在している間、サラキュールが何の前触れもなく訪ねてくるのはよくあることだったので、アルドゥインは不審がるでもなく歓迎した。
「夕飯は?」
「必要ない。済ませてきた。今夜は泊まっても良いか?」
「構わないが、奥方をほったらかしにしていいのか」
 アルドゥインは厭味のつもりで言ったのではなく、純粋に心配したのだが、サラキュールは眉を寄せた。
「イルゼビルにはちゃんと説明した。行き先も告げず出かけたりはしておらぬ。一晩くらい友人の所に行ったからとて邪推したり、機嫌を損ねたりするような狭量な妻ではない。それに、一晩会わぬ分、翌日に再会の喜びがいや増すではないか」
「それは結構」
 これを機会とばかり盛大にのろけられて、今度はアルドゥインが白けた顔になった。突然押しかけたわりに、サラキュールは着替えや寝巻きなどの一式を詰めた旅行用の革鞄を持ってこさせていた。
「準備万端だな、お前」
「もとより泊まるつもりだったからな」
 アルマンド家の召使からトランクを受け取った召使が置き場所を尋ねたので、アルドゥインはとりあえず客用の寝室に運ぶようにと命じた。
「それで……何しに来たわけだ?」
「二ヶ月ぶりの話をしたいと思っただけだ」
「じゃあ、いつもの居間でいいか」
「ああ、構わぬ。先に行っていてくれ。――ジーク」
 サラキュールは頷き、それから召使を連れて帰ろうとしているジークフリートを呼び止めた。何か言伝でもあるのだろうと思って、アルドゥインはそれ以上立ち入った事は聞かずに、先に居間へと歩いていった。それを見送ってから、彼はその辺りにいた公邸の召使も数人、手招きして集めた。
「今宵はアルドゥイン殿に大事な話がある。絶対に邪魔をせぬと約束してもらえぬか。他の者にも伝えてくれ」
 声を低めて囁く。ついでに駄目押しに、と付け加えた。
「これは我らがメビウスの行く末に関わる重大事なのでな。よいな、頼んだぞ」
 何も知らぬ召使たちは、一体何事かと緊張した面持ちになった。少し離れた所にいたジークフリートは、毎度の事とは思いつつため息を止められなかった。彼の方は全ての事情を知っていたので。
「大げさでございますよ、サラキュール様……」
「なに、メビウスの行く末に関わるというのは事実だ。では明朝迎えを頼むぞ、ジーク」
 飄々と言うと、彼は踵を返した。
「かしこまりました」
 ジークフリートは呆れ顔のまま一礼し、玄関を出ていった。
 彼が去っていっても、まだその場に何となくかたまっていた召使たちを見やり、サラキュールは含みのある笑顔を見せた。
「皆の衆、これから私は水晶殿に咲くロザリアを手折るよう、照れ屋で奥手の紅玉将軍殿を説得せねばならぬ。後方支援を頼むぞ」
 召使たちは一斉にぽかんとした。
「――でしたら、特別強いお酒をご用意いたします」
 レーナが真っ先に立ち直り、奥へと駆けていった。
「他に必要なものがございましたら、何なりとお申し付けください」
 やっと彼の訪問の真意が見えてきた召使たちは、一様に決然とした表情で頷いた。実の所、アルドゥインはこれまでの数々の言動から、宮廷の人々はおろか屋敷の人々にまでリュアミルへの片思いを知られていた。ついでに言えば、一部の人々を除いてほとんどに応援されてもいた。むろん本人は知らないことであったが。
 首尾よく人を遠ざけ、酒とつまみを用意させて、サラキュールはアルドゥインの待つ居間に乗り込んだ。もちろん、アルドゥインには何も悟らせぬように、と召使たちに言い含めた上でのことである。
「待たせたな」
「いや、それほどでもない。……何だ、そんなにたくさん酒を持ってきて」
 アルドゥインは怪訝な顔をした。レーナが押してきたワゴンには、はちみつ酒、火酒、サモス酒、ワイン、カディス酒と、種類も様々にこれでもかというほどたくさんの酒瓶が積まれていたのだ。
 これほどの量を公邸の酒蔵から全て出させるのも悪いような気がしたので、サラキュールはアラマンダで作っている自家製の酒も持参してきていた。ちなみにイェラインの特別許可を盾にして、オルテア城の酒蔵からもいくらか失敬していた。こんな機会でもないかぎり、皇室献上品の最高級ワインなど滅多に飲めるものではない。
「去年仕込んだアラマンダ酒が飲み頃なので持ってきた。それから、皇室献上品のワインを手に入れた。おっと――手段は聞くでないぞ」
「……聞いたら駄目なのか」
 残念そうにアルドゥインは言った。
「これで飲み比べといこうではないか」
「突然だな」
「おや、自信がないのか?」
 からかうようにサラキュールが言うと、アルドゥインは負けん気充分に笑って首を振った。
「まさか。今日は負けんぞ」
 そんなわけで始まった飲み比べだったが、最初のうちは二ヶ月の間にそれぞれに起こった出来事など、何気ない会話が交わされた。サラキュールはいきなり本題を出してアルドゥインをびっくりさせたり、慌てさせようとは思っていなかった。それに、本心を聞き出したり、言質を取るためには酔わせなければならない。
 酔わせるにしてもアルドゥインはざると言ってもいいくらい酒に強かったので、手強い相手だった。とはいえサラキュールも底なしで、今まで何度かやった飲み比べでは、一度も負けたことがなかった。
 酒が入り、話が進むにつれて、何となく話題はサラキュールの新婚生活に移った。冷ややかそうな外見とは裏腹に熱烈に妻を愛する彼としては、延々とのろけ話をしていてもよかったのだが、とりあえず今夜は大切な使命があったので、その欲求は抑えた。そしてさりげない様子を装って尋ねてみた。
「私の話はさておいてだな。おぬしはどうなのだ。神官や僧侶ではないのだから、一生独身でいるつもりでもあるまい? どうだ。そろそろ結婚を、とは考えていないのか」
「ん……まあ、いつまでも独り身でいるつもりはないけど」
 アルドゥインは明らかにこの話題から逃げたがっている様子で、そわそわと酒のグラスをいじり、つまみに供されていた鮭の燻製をフォークでつついた。しかしサラキュールは追及の手を緩めなかった。
「今のところ付き合っておる女性はおらぬようだが、おぬし、結婚したいと思うような相手はいるのか?」
「それは……」
「おぬしはリュアミル殿下を好いているのだろう?」
「――サラキュール」
 アルドゥインは咎めるような声を出したが、サラキュールは無視した。
「今さら隠しても――と申すか、全然隠せておらぬからな。否定しても無駄な事だぞ。だからだ、リュアミル殿下と結婚したい……などとは、思わぬのか」
「まさか! そんな大それた事」
 アルドゥインは慌てて首を横に激しく振った。ついでに手まで顔の前で振ってみせた。それが彼が内心では正反対のことを考えていると示していたが、毎度の事ながら気付いてもいなかった。
「何が大それておるのだ」
「いや……それは、その……」
 かわいそうなくらいアルドゥインが狼狽したので、サラキュールは小さく肩をすくめて話題を変えた。
「なら話を変えよう。リュアミル殿下と結婚したいというのではないなら、おぬしはつまるところ、どうしたいのだ?」
 アルドゥインはもぞもぞと居心地悪そうにしながら答えた。
「それは――その、俺は、殿下にずっと仕えて――この国を守っていられるなら、それでいいんだ。殿下のいるこの国を守れるだけで幸せだから」
「……」
「サラキュール?」
「……ぬるいっ!」
 いきなり両の拳を机に叩きつけてサラキュールが怒鳴ったので、アルドゥインはびくっとしてグラスを取り落としかけた。衝撃で皿やグラス、酒瓶が踊った。次には人差し指を指し付けて、彼はもう一度怒鳴った。
「おぬしはぬるすぎる!」
「な、何が」
 少々気おされながら、アルドゥインは尋ねた。サラキュールは怒っているのかそれとも呆れているのか、あるいはその両方ともとれない表情を浮かべていた。目が完全に据わっていたので、酔っぱらって大声を出したとも考えられるが、どうやらそれだけではなさそうだった。
 サラキュールにとって、リュアミルは未来の主君であると同時に妹のような大切な存在である。それが幸せに結婚できるかどうかというのは、重大な事だった。イェラインに頼まれたから――というのも、穏やかに話を持っていこうというのもすっかり頭から消し飛んでしまい、彼は苛立たしげにアルドゥインを睨みつけた。
 実際、お互いの気持ちは判りきっているのに進展のないこの状態は、本人たちにはどうだか知らないが、それを心待ちにしている周囲の人間にとっては、ただひたすらにもどかしく、苛立たしい以外の何ものでもなかった。
「おぬしは何なのだ。要するに殿下が好きなのだろう。結婚したいのだろう。それをああだこうだと下らぬ理屈をこねて、うじうじしおって。あげく、仕えるだけで幸せだと? ぬるいにも程がある。好いておるのならさっさとそう申せばよかろう」
「そっ、そんなに簡単に言えるものか」
 アルドゥインは耳まで火照らせて言い返した。浅黒いのでそれほど目立たないが、ちょっと注意して見ると中から灯をともしたみたいに赤らんでいるのが判る。彼はうつむいて服の裾をいじりながらぼそぼそと口答えをした。
「俺は外様だし、貴族といってもラストニアは小国だし、俺が殿下に打ち明けたとしても殿下が受け入れられるとは思えんし、陛下だって……」
「馬鹿者、それがぬるいのじゃ!」
 サラキュールは容赦なかった。
「よいか、ミリーはああいう性格だから素直ではないし、自分の心を明かしたりしないが、絶対おぬしに惚れておる。幼なじみのわしが言うのじゃ、間違いない。おぬしの一言を待っておるのじゃぞ。だいたい、ミリーのために決闘までしておいて今さら何を申すか。告白せぬほうがよほど無礼じゃわ。陛下も、おぬしがミリーの婿となるのにやぶさかでない。それにな、小国小国と言うが貴族に変わりはあるまい。しかもおぬし、ヴィラモント家の長男じゃろうが。ラストニアとファロスの王族じゃろう。血筋に問題などないわ」
 あんまり興奮していたので、サラキュールは幼なじみの習慣をすっかり出してしまい、リュアミルに「殿下」をつけることも忘れて、子供の頃の愛称で呼んでいた。ついでに、酔っぱらったせいで発音が所々怪しくなっていたばかりか、自分のことを「わし」などと言っていた。
「ミリーは世継ぎの皇女だ。いずれは結婚せねばならぬ。それでどこぞの心にもない男と結婚させられたらどうするのだ。おぬしはそれでも仕えるだけでいいと申すのか。それこそ大馬鹿、度し難い大間抜け、底無し沼級の愚か者というものだ。おぬし一人が馬鹿者ならまだしも、ミリー……いや、リュアミルが不幸になることは私が許さぬぞ」
「そこまで言わなくたっていいだろ!」
「では、おぬしはあれが他の男と結婚してもよいのか」
 アルドゥインは顔を真っ赤にし、不貞腐れたように答えた。
「……それは嫌だ……」
「だったらおぬしが行動するしかないだろう」
「でも、陛下や殿下に何と言えばいいんだ」
「手はいろいろある。陛下もとっくに気付いておられるのだ。打ち明けて相談すれば、二つ返事で認めてくださるだろう」
 ようやく落ち着いたサラキュールは、ついでの一言を付け加えた。
「他には――そうだな、トオサを引き込んで既成事実を作るとか」
「既成事実って、お前……」
 からかわれているとも気付かずに、アルドゥインは困惑した。



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