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 決心は昨日の夜に固めたはずだったのに、いざ言おうとすると急に心拍が早くなり、握った拳に汗をかくのが感じられた。喉まで渇いてきたが、これは緊張のためと言うよりは二日酔いのせいである可能性が大きかった。
 しかしここまで来て言わずに帰ることなどできなかった。逆に言えば、そこまで追い込まれなければアルドゥインは一生その言葉を言えないままだったに違いない。イェラインやサラキュールが抱いていた焦燥感も、あながち的外れなものではなかった。
「……本日は、婚姻の許可をいただきたく参りました」
「うむ」
 イェラインは頷いた。その顔が思わずにんまりとほころびかけるのを、彼は必死で抑えた。が、たとえ抑え切れなかったところで緊張が最高潮にきているアルドゥインが気づくとは思われなかった。何とか重々しい表情を作り直して、イェラインはそ知らぬふりをして言った。
「そなたが身をかためる気になったというのは実に喜ばしいかぎりだ。これでメビウスに根を下ろし、真実我が民となってくれようもの。して、誰との婚姻を願うのだ?」
 ここがどちらにとっても正念場だった。
 イェラインはその一言を熱烈に待ちわびていたし、アルドゥインはその一言を言うために、ありったけの勇気と、昨日のサラキュールとの会話と、殴られた顎の痛みと、自分の決意を思い出さねばならなかった。
 決して平穏無事に過ごしてきたとはいえない二十五年の生涯の中、戦争に明け暮れていた傭兵時代でも、これほどまでに緊張を強いられ、勇気を振り絞った瞬間はないと思われたほどであった。
 あまりにも緊張が過ぎて、頭痛は激しくなる一方で目眩までしてきた。くらくらする頭を何とか支えつつ、アルドゥインは喉にからむ声を何とか絞り出した。
「その……ええと……俺と……あの……」
「早く申せ」
 真っ赤になってひざまずき、冷や汗まで浮かべているアルドゥインは、見ていて気の毒なほどであった。だが、イェラインも悠長にしていられる気分ではなかったので先を急がせた。
「俺と……いや、俺に…あのぅ……リュ、リュアミル殿下を――つ、妻に……いただけないものかと……」
 かすれたような声しか出なかったが、アルドゥインはやっとその言葉を口にした。その途端、イェラインは相好を崩して彼の傍に駆け寄った。
「そうか、そうか! よく申した、アルドゥイン!」
「は……?」
 思わずと言ったていで、アルドゥインは口をぽかんと開けてしまった。皇帝には二バール以内に近づかないようにとエルウィンに言われたし、そうしようと思っていたのに、イェラインから近づいてきた上に一緒になって床に膝をつき、アルドゥインの肩を抱いてばしばしと背中を叩く始末だった。
 案の定かすかに酒のにおいがしたが、イェラインは気にしなかった。サラキュールがどんな手を使ってこの奥手で恥ずかしがり屋の青年に結婚を決意させたのか、予想はついていたからである。
 酔った勢いだろうが何だろうが、言わせてしまえばこちらのものであった。
「そなたがいつ申してくれるのかと、一日千秋の思いで待っていたぞ。いや、よく言ってくれた。うむ、実に喜ばしいかぎりだ」
 盛大にアルドゥインの両肩を叩くイェラインの頬は紅潮し、その顔は抑えようとしても抑えきれない喜びに満ち溢れていた。この意外な――少なくとも彼にとっては――反応にアルドゥインはまだ呆然としていたが、ようやっと言葉を取り戻した。
「あの……陛下。ということは……お許しをいただけるのでしょうか……?」
 おずおずとアルドゥインは言ったが、イェラインはきっぱり頷いた。
「むろんのこと。余が今さっき申したことを聞かなかったか。そなたがそう申し出てくれるのを、今か今かと待っておったのだぞ。それともそなた、今自分の申したことを取り消すとでも申すのか」
「いえ、決してさような」
 では、サラキュールの勘は間違いではなかったらしい――と、何も知らないアルドゥインは無邪気に思った。残っているのは、アルドゥインとしては最後の関門、リュアミルの意思であった。
「ですが陛下、最終的には、リュアミル殿下のご意思に沿いたく存じますので……そのお答え如何では、このお願いは取り下げさせていただきたく存じます」
「何を申すか」
 やや憤然としたように、イェラインは言った。
「リュアミルに異存のあるはずがなかろう。そうであろう、リュアミル?」
 言いながら、イェラインは左の壁に顔を向けた。アルドゥインもつられてそちらを見る。そして、今度こそ固まってしまった。
 いつの間に呼ばれていたのか、トオサとヴィダローサを従えて、開かれた扉から入ってきたのはリュアミルその人だったのだ。
「で、殿下!」
 アルドゥインは思わずばね仕掛けのように立ち上がり、意味もなく手をばたばたさせてしまった。それは、求婚者の振る舞いとしてあまり格好がいいとは言えなかった。しかし幸いにして、そのことを気にする人などこの場にはいなかった。
「聞いておっただろうが――アルドゥインがそなたに結婚を申し込みたいそうだ。リュアミル、断るも受けるもそなた次第だ。いかがする?」
 同じく立ち上がったイェラインが、こちらは余裕をもって娘に尋ねた。用意周到と言うべきか意地が悪いと言うべきか、最初からイェラインは隣にある黄色い部屋にリュアミルを待たせて、一部始終を聞かせていたのである。
「それは……」
 リュアミルはほんのりと頬を薔薇色に染め、かすかに首を傾げるふうであった。
(うわああー……。なんて可愛い……)
 その愛らしい恥じらい方に、このような際であるのにアルドゥインは胸をときめかせてしまっていた。リュアミルはそんなアルドゥインを伏し目がちに見つめた。ロザリアの花のような不思議な色の瞳と、淡い茶色を混ぜた黒い瞳が一瞬だけ合った。
 リュアミルはとても恥らっていたが、答えはきっぱりと返した。
「わたくしには、お断りする理由はございません。この求婚、お受けいたします」
 イェラインはぽんと膝を叩いた。
「ならば決まりだ。メビウス皇帝イェライン・ル・アルパード・ドゥ・メビウスの名において、カノン伯爵にして紅玉将軍アルドゥイン・ヴィラモント・ラ・カノンと我が娘リュアミルの婚姻を許可する。そなたたち二人は、今この瞬間より婚約者である!」
 その声は、勝利のラッパの響きを持っていた。
 こうして、アルドゥインが一世一代の勇気を振り絞ったわりには、彼とリュアミルの結婚はあまりにもあっさりと許可されたのであった。
 アルドゥインは信じられないといった様子でリュアミルを見た。自分から申し込みはしたものの、こうまで何の障害もなくとんとん拍子に話がまとまってしまうと、果してこれは現実なのかどうかと疑いたくなったのである。さすがに人前であったので自分の頬っぺたをつねったりはしなかったが、確かめずにはいられなかった。
「本当に……俺などでよろしいのですか?」
 リュアミルに尋ねると、彼女は色白のうなじまで朱に染めつつ、こくりと頷いた。
「……あなたでなければ、嫌ですので……」
 答えたはいいがますます真っ赤になってうつむいてしまったリュアミルを前にして、アルドゥインも耳まで真っ赤にして同じように顔を伏せてしまった。イェラインをはじめとして周囲の人々は、毎度の事となったこの痒い光景を実に温かく見守った。
「ようございました、姫様。本当にようございました……」
 トオサなどは感激のあまりそれしか言えなくなったように「ようございました」を繰り返し、潤む目頭を押さえていた。ヴィダローサもそんなトオサの背にそっと手を添えて、微笑ましく主人とその婚約者を見上げていた。
「さて、これからが忙しいぞ」
 満面の笑顔でイェラインが言う。
「婚約披露に、婚礼までの日取りを決めてその準備。婚礼はメビウスの威信をかけて華やかに行わねばならんな。――やる事は山積みだ。その前に、まずはエトルリアからの申し込みを丁重にお断り申し上げねば」
 というわけで――。
 日が完全に昇ったマナ・サーラの刻、イェラインは朝見前にエトルリア公使のチン伯爵と再度の会見を持った。イェラインがどことなくうきうきした様子に見えたので、これは朗報になるのでは、とチン伯爵は考えた。
 そこで期待を込めながら挨拶を述べ、本題を切り出した。
「イェライン陛下、我が国の公子いずれかお一方と、貴国の皇太子殿下との縁組――本日はお返事をいただけるものと存じます」
 イェラインはゆっくりと頷いた。
「申し訳ないが、そのお申し出は受けられぬとサン・タオ大公にお伝え願いたい」
 チン伯爵の目が丸くなった。
「とは、何ゆえにでございましょうか。失礼ながら、我が国の公子殿下は皇太子殿下のお相手にふさわしからぬとお考えなのでございましょうか?」
 責めるような口ぶりで、彼は言った。
「いやいや、決してそのようなつもりでお断りするのではござらん。ただ、リュアミルには先約があるゆえ、お受けするわけには参らぬのだ」
「主には陛下のお言葉をそのままお伝えいたしますが、しかしお相手とは、一体どなたでございましょう? それがし寡聞にして存じ上げませんでしたが」
 探るように首をかしげて、チン伯爵は言った。先約があるというのなら昨日の内に言うはずのところ、今日まで引き延ばしての、この返事である。エトルリアの公子ほどのものを断るとは一体何者だと、大した相手でなければ言い訳と受け取る事も辞さぬと、要はそう言いたいのである。
「それは――貴殿も良くご存じの者かと思う。我が紅玉将軍アルドゥイン・ヴィラモントである」
 ちょっぴり自慢げに、イェラインは宣言した。今度こそ、エトルリア公使は口を開けかねない顔つきになった。もちろん、国の格で言えばエトルリアとラストニアでは少々アルドゥインの分が悪いが、知名度は負けないどころか今や新たな英雄としてアルドゥインの方が有名である。
 それに勇将、智将としての名は――これはそうと認めることはエトルリアの民としてはたいへん悔しい事であったが――はるかにアルドゥインが上回っている。
 さらに、紅玉将軍がイェラインのお気に入りであるというのは誰もが知っている事実であった。たとえエトルリアの公子でも、メビウス皇帝のお気に入りと張り合って蹴落としたところで、当の皇帝の機嫌を損ねたら政略結婚をする意味がない。それはチン伯爵ならずとも容易に悟られる事であった。
「そ――それは、おめでとうございます」
「ありがとう。ともあれそういうわけであるから、たいへん申し訳ないがこのお話はお受けできぬよし、よろしくお伝え願いたい」
「は、はい。確かに」
 しどろもどろになりつつ、チン伯爵は何とかその場を取り繕う言葉を述べた。対するイェラインは終始にこにこ顔であった。



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