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 メルヌでの当座の宿は、例によって傭兵二人組の厳選によって《松の風》亭という宿屋に決まった。ここでもアインデッドは敵意の攻撃にさらされることになった。最初に口火を切ったのはおかみであった。
「ちょっとあんた、まさかティフィリス人じゃないだろうね。女王様がなんと言おうと、私ゃティフィリス人なんか泊めないよ!」
 陽気ではあるが寂しがり屋のアインデッドは、こういった剥き出しの敵意にはあまり強くなかった。おまけに気弱そうな宿の主人までが、おかみの剣幕に押されて同じようなことを言い出したので、アインデッドはすっかり弱ってしまったようだった。
「あの、俺は……」
「こいつはペルジア人だよ、おかみさん。ほら、目も緑だろ」
「そうです。それにあまり皆に言われるので彼も落ち込んでるんです。そっとしてやってくれませんか」
 アルドゥインが助け舟を出し、サライがそれに続いた。アインデッドはほっとしたように二人を見、ことさら哀しげな顔をしてみせた。三人が三人とも非常な美男であったのも手伝ってか、おかみの態度はそれでころりと変わってしまった。
「まあ、ペルジア人なの? それはすまないことを言ってしまったわね」
「いや、まあ、俺の髪がこんなに赤いからいけねえんだ」
 アインデッドはしおらしく言ってみせた。
「そんな、悲しい顔しないどくれよ、おにいさん」
 すっかり皆の同情票を集め、アインデッドはめでたく今夜の寝床を確保することができた。夕飯はすでに済ませた後だったが、アインデッドはよほどストレスがたまっていたのか、部屋に着いて荷物を置くなり出て行こうとした。
「俺、ちょっと飲みに行ってくる」
 それに続いてアルドゥインが、一人で行かせては危ないとぶつぶつ言いながら、隣の部屋にアトと泊まることになったサライに、出かけてくると言い残して宿を出た。
「おい、待てよアインデッド!」
「なんだよ。ガキじゃねえんだから、お守りなんていらねえぞ」
 アインデッドは不貞腐れた。暗い夜道では、アインデッドの赤い髪もだいぶ緩和されて、目立たなくなっていたのでアルドゥインは内心ほっとした。アインデッドがいみじくも言ったように、少々保護者的な気分になっていたのは確かだった。
「何言ってやがる。俺だって酒が飲みたいんだ」
「お前が? てっきり飲めねえもんだとばかり思ってたぜ」
「あの天使様とお付きの妖精が嫌そうにするから飲めなかったんだよ。お前だって、いっつも酒を恨めしそうに見てたの、俺が気づかなかったとでも思ってるのか?」
 その台詞で、アインデッドははじかれたように笑いだしてアルドゥインの背中をどやしつけた。
「なんだ、お前もかよ!」
 セルシャ以来、アインデッドは好きなだけ飲むことができなかったのだ。セルシャにつく前に一度、街道筋でしたたかに――しかし意識を失うほどではなかった――酔っ払ったことがあった。その時は夜も寝かせてもらえずに、酒がいかに有毒なもので、輝かしくあるべき彼の人生を駄目にしてしまうかということを延々と、朝までサライに説教をされたのだ。そんな経験は二度としたくなかったので、アインデッドとしては可哀相なくらい自分を抑えていたのだった。
「あいつときたら、ふた言目には体に悪いだの、アトに悪影響だのと言いやがるからな。飲めるくせに」
「へえ、飲めるのか」
「火酒は強すぎてだめだとさ」
「やっぱりな」
 そんな会話を交わしながら、二人は適当な酒場に入った。あまり好意的な目は感じられなかったが、それほど気にはならなかった。それでも用心して入り口に近い席に座り、ミール麦から造る蒸留酒を一つぼ頼んだ。
「久々のまともな酒に乾杯」
「同感だ」
 アルドゥインの一言以上に彼らの心境を的確に表した言葉もなかったので、アインデッドはそれだけを言った。それから、二人はぐっと杯を傾けた。
「しかし、遠くに来ちまったもんだな……」
 何杯めかのお代わりの後、アルドゥインが呟いた。本当に小さな小さな、ため息のような言葉だったが、アインデッドは聞き逃さなかった。
「でもお前、傭兵ならあちこち行くだろうに」
「俺が範囲にしていたのは沿海州の、それもアスキア地方だけだ。セルシャだって遠出だったのに、まさかこんな所まで来るとは思ってなかった。……お前は、けっこういろんな所に行ってるんだろう?」
「まあ、十六になるちょっと前からやってるからな」
「だったらキャリアは一緒のはずだ。おれは十七からだ」
「そういえば、どうしてお前、こんな稼業にしたんだ?」
 アルドゥインはあまり多くを語らなかったので、アインデッドは彼に関することはほとんどといっていいほど知らなかった。セルシャで出会ったときも、自分に関することはほとんど話すことはなかったし、二人で話し合うこともなかったのだ。
「それはまあ、長くなるし、二人でじっくり話すことができたときにな」
「サライがいたらまずいか?」
「というより、アトさんに悪影響な話かも知れないからな」
 悪いとは思いながら、その言葉にまたアインデッドは笑い出した。
 思うさま――とはいえ高潔と節制の権化ともいうべきサライにお説教をされない程度にセーブしながら酒を飲み、店を出たのは深夜のナカーリアの刻をまわったころだった。街灯はほとんど火が落ち、ちょっと入り組んだ小路などは何が潜んでいてもおかしくないくらい真っ暗だった。
「おいアル、あれ」
 アインデッドはアルドゥインを愛称で呼び、腕を突付いた。彼の指し示した方向に何があったのかアルドゥインもすぐに気づいて頷いた。
「どっかのお嬢様がお忍びって感じだな」
 彼らの進行方向とは逆から、一人の少女が足早に歩いてきていた。つまり、色町に近いほうへと歩いていこうとしていたのだ。薄ぼんやりした街灯で、彼女がどうやら青いマントを被っていること、着ているものはなかなか高価そうだということが窺われた。
 彼らと少女は、ちょうど噴水広場の真ん中あたりですれ違った。こんな時刻に娘が一人だけで出歩くなど危険なことだったが、かかわり合いになるべきことでもないので二人はあまり気にも留めなかった。しかし規則的だった少女の足音が急に止まり、代わりにばらばらっと乱れた数人の足音が響くのはしっかりと聞き取っていた。
 咄嗟に、アインデッドとアルドゥインは近くの物陰に身を潜め、様子を窺った。少女は数人の覆面にマントの男たちに行く手を阻まれていた。
「何者です! 名乗りなさい!」
 彼女は気丈にも叱咤したが、その口調は普段命令しなれているものの倣岸さをどこかに隠していた。男たちの一人がさっと手を挙げると、彼らは少女を取り囲み、一人が彼女を抱え上げた。
「キャアアッ! 人さらい! 助けて……」
 少女はさらに叫ぼうとしたのだが、男が面倒そうに振り下ろした手刀に、ぐったりとしておとなしくなってしまった。傭兵の二人をすっかり無視した――気づいていない――その一幕に、アルドゥインが呟いた。
「どうするよ」
「助けてやるのか? 強そうだし、やだな……」
「やるしかないだろ」
 アルドゥインはきっぱりと言い、アインデッドもしぶしぶながら建物のかげから出た。それでやっと、男たちも彼らの存在に気づいたようだった。
「おいおい、女の子一人に、男が寄ってたかって何をしようってんだ?」
 アインデッドは面倒くさそうに言いながら、男たちの前に進み出た。頭らしい男がアインデッドとアルドゥインをちらりと一瞥して、馬鹿にしきったように言った。
「何かと思えばいやしい傭兵風情か。この場を黙って去れば命だけは助けてやらぬこともないぞ」
「あいにく、誘拐されかけの女の子を見捨てるほど、俺たちは落ちちゃいないんでね」
 アルドゥインは肩をすくめた。
「ふん。よほど命が惜しくないのだな。……やってしまえ!」
 頭が命じ、男たちが一斉に二人を取り囲んだ。油断なく剣を構えながら、アルドゥインはアインデッドにささやいた。
「あの女の子を抱えた奴を逃がさないようにな」
「わかってるさ」
 答えたか答えないかの間に、彼らが襲い掛かってきた。二人の反応は素早かった。アルドゥインは身をかがめて二人の男をやり過ごして石畳に転がったが、すぐに体勢を整えなおして、振り返ろうとした彼らをあっさり過ぎるほど簡単に切り捨てていた。
「英雄気取りもそこまでだな!」
 アインデッドは男に足払いを掛けたが、避けてしまうのではないかという予想に反して見事に男は地面に叩きつけられた。
「しょうがねえだろ」
 うんざりしたように彼は言い、何か叫ぼうとしていた男のみぞおちに強烈な一撃を入れて黙らせた。
「本当に名前だけは英雄なんだから」
 あっというまに三人を片付け、残るは少女を抱えた男と、頭だった男の二人だけになってしまった。これだけの騒ぎであるのに、すぐそばの家々のどこも、起き出したりする気配がないのが不気味なほど静かだった。
「さあ、あとはお前らだけだぜ。おとなしくその子を放して逃げるか、それとも俺たちにやられるか、とっとと選ぶんだな」
「伯爵、ここは私が」
 少女を抱えた男が、もう一人にささやくのをアインデッドは聞いて、眉をひそめた。
(伯爵だと――?)
 彼らの呼び方があだ名ではなく真実だとすれば、相手は貴族である。だが、たった一人の少女相手に誘拐などと卑劣なことをするような貴族であれば、どうせろくなものではないだろうとアインデッドは察しをつけた。そう思えば、何をやったとしてもかまわないという気分になるのだった。
「いや、いい。お前は下がっていろ。私が直々に相手をしてやる」
 《伯爵》が言い、腰のレイピアを抜き放った。
「アル、お前あいつが逃げないように見てろ」
 アインデッドは言い置いて、剣を構えなおした。
「正義の味方気取りを、あの世で後悔するがいい」
 油断なく身構えて向き合いながら、《伯爵》は薄暗がりの中で白い歯をむいて笑った。それはあまり気持ちのいい光景ではなかった。
「それ!」
 いきなり《伯爵》が剣を繰り出した。予想外だった動きに、アインデッドはとっさに避けたがよろめいて、剣を石畳の隙間に突き立ててどうにか転ぶのだけは免れた。ここぞとばかりに突き出される切っ先を慌ただしく受け止めながら、アインデッドはやっと立ち上がり、体勢を整えなおすことができた。
 暗がりで急に襲われたからこそ隙もできてしまっただけであって、アインデッドは自己流の剣でも互角以上に渡り合っていた。しかし戦いが長引けば、力よりも技、自己流よりも正統が勝るのは必至のことであった。
「痛ッ」
 剃刀のように鋭いレイピアが、左の二の腕を掠めた。やっと相手に傷を負わせることができたのに興奮したのか、《伯爵》は語気荒く言った。
「次はお前のその生白い顔を、一寸刻みに刻んでくれるわ!」
(こいつ、やっぱり変だぜ――!)
 いつも傷だらけで戦うのには慣れているアインデッドである。この程度の傷でひるむ訳は無かったが、《伯爵》のどこか病んだ雰囲気に一瞬呑まれかけた。しかし、自分に向かってくる白刃を見た瞬間、戦いの本能が彼を我に返らせた。
 両手で剣をしっかりと掴み、上から彼を切り伏せようとする《伯爵》の剣をはねあげるように、力任せに剣を振り上げた。かたい金属音が周囲の空気を揺るがせ、次の瞬間、《伯爵》のレイピアは真っ二つに折れて、敷石の上に落ちた。
「なにっ……!」
「この顔を傷つけられたらまずいんでね」
 アインデッドは《伯爵》に真っ直ぐ剣を突きつけ、ちょっと息を整えながら吐き捨てるように言った。彼自身、敵を殺すのにためらいを感じたり、憐れみをかけるような性格ではなかったが、無意味に相手を傷つけるようなことは嫌いだったし、そういった相手と戦うのは実際に気分が悪かった。
「くそっ……おい、その娘は捨てておけ! 退くぞ!」
 少女を抱えていた男が慌てて彼女を下ろし、彼の主人が逃げていった方向へと駆け去っていった。アルドゥインは一瞬二人を追うかどうか迷い、少女のほうへ駆け寄った。幸いどこにも怪我はしていないようで、気を失っているだけのようだった。
「おい、大丈夫か」
「ん……」
 肩に手をかけて揺さぶると、じきに少女は目を開けた。まだ自分がどうなったのかいまいち理解できていなかったようで、噴水広場のあちこちに倒れている悪漢たちと、彼女を見下ろしている二人の傭兵を交互に見比べてから軽く首を傾げた。
「あなたたちが、わたくしを助けてくださったのですね」
「当然のことをしたまでで」
 アルドゥインはごく尋常に答えた。
「有り難うございます。わたくしの名はユーリ。お二方は? ジャニュアの人ではございませんね」
 ユーリと名乗った少女は丁寧に頭を下げた。暗くて色合いまではよく判らないが、髪はふんわりとした巻き毛で、背中の中程まである。何よりも彼女をじっくりと見て二人が驚いたのは、ユーリの肌の色の白さだった。彼女がジャニュア人だというのなら、不自然なほど色白だったのだ。
「俺はアインデッド。こっちはアルドゥイン。ペルジアと沿海州から来た」
「帰るなら、送っていきましょうか?」
 アルドゥインは優しく尋ねた。ユーリが口を開きかけた時、三人の耳朶を新たな足音が打った。


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