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     私はあの人を愛してしまった
     決して結ばれないと判っていたのに
     でもその愛の証拠だけは
     ここに生きている!
      ――ナカル・カルナ・ジャニュア




    第一楽章 砂漠の舞踏曲




 ソレルア大陸の南端に位置する国、ジャニュア。
 イェラント海とミリア海の境界線を領海として持ち、幾つかの大きな商業港、漁業港を抱えている。首都は内陸部のメルヌ市であり、世界でも一、二を争う古い伝統ある国家である。国土はジャニュア半島の全てを占め、太古より《砂漠の王国》と呼び習わされている。
 ジャニュア族の単一民族国家であり、人々は小麦色の肌と茶色系の髪、そして緑色の瞳を持っている。大地の女神マナ・サーラを守護女神として崇め、そのスペルもマナ・サーラに由来したものである。
 《砂漠の王国》の美名にもかかわらず、実際のジャニュアは豊富な地下水と、先人たちが至る所に張り巡らせた地下水路のおかげで、緑豊かな美しい農業国である。特に首都メルヌの大街道は、樹齢百年以上の木からなる並木が市大門から王城前広場まで続いており、壮大な眺めとなっている。しかし、だからといってこの呼び名は間違いというわけでもなかった。
 ジャニュアの西部には広大なエシル砂漠と、ジャニュアの水源であるエシル山脈が広がり、種々の古文書等の記述によれば、聖大帝アルカンドがクラインを興した頃とほぼ同時期、三千年も前の黎明期には、ジャニュア全域は一面を砂漠に覆われた貧しい国家だったという。それを何代も掛けて国家事業として国土を開拓し、地下水路を発達させたおかげで今の豊かな国家へと生まれ変わったのである。だから《砂漠の王国》というのは歴史的事実を裏付ける、由緒正しい呼び名であったのだ。
 元来が砂漠であった土地であるから、建築物に用いることができるほど大きな木が育つことはほとんどない。そのためジャニュアの建築物はほとんどが日乾し煉瓦を積み重ねて造られた原始的ともいえるものである。しかし雨が一年に二、三日しか降らないことや、大きな気象や気温の変化が無いことから、その耐用年数は驚くほど長い。補強用の白い石粉を塗れば、ゆうに五百年は持つ。
 しかし王宮だけは別で、白いタイルと大理石で作られた、世界でも有名な美しい建物であった。その壁一面を覆うタイルはジャニュア・ブルーと呼ばれる独特の美しい深みのある青で彩色されている。上部は球体の先をちょっとつまんだような形で、ジャニュア・ブルー一色に統一されている。そのために、遠目から見ればメルヌ城は白と青のコントラストが眩しいほどに映えるのであった。
 ジャニュア・ブルーはジャニュア特有の染料で、深い色合いと鮮やかな発色性を持っている。色彩にこだわりを持つものならこの青に魅了され、どうしてもその秘密を手に入れたくなるといわれ、様々な伝説が飛び交っているが、その製造方法は国家機密に準じ、職人は国外に出ることを許されず、外国人が学ぶことは許されない。国旗や王の衣服、官吏の制服などにも用いられ、ジャニュアを象徴する色となっている。
 ジャニュアは豊かな国であり、前述のように砂漠の近くであるので乾燥した土地に良く育つ綿が特産品である。綿の原産地というだけでなく、織物工業も盛んな国である。その品質も特産地の名に恥じず、ジャニュアの綿は中原ではエトルリアの絹と並び賞されている。
 もう一つの特産品はエシル砂漠に属するエシル山脈から採掘される数々の宝石類であり、貴婦人がきそって身に付けるきらびやかな宝石の殆どはこのジャニュアで採掘されたものである。数ある宝石の中でもジャニュア産のものは最高級品であり、その透明度や美しさはもちろんのこと、原石の大きさでも世界一と言える。
 文化、風俗においても、歴史においても他の中原各国とは一線を画するジャニュアが他の国々と大きく違う点は、女王が擁っているというそのことであった。同じように歴史の古い他国――クラインやメビウス、ゼーアでも、女王、女帝がたったことはいまだかつて無かった。
 その他の国でも王位継承権法で女の継承権を認めない国が殆どで、例外としてメビウスだけが皇女の継承権を認めていたが、それも現在の皇帝イェラインの長子リュアミル姫が成人に際して帝位継承権を放棄しなかったことによって初めて女帝がたつのではないか、といったところであった。
 ジャニュアと並んで古い国家の一つであるクラインでもとうとう世継ぎの皇子には恵まれなかったが、現在の二人の皇女のみを遺して皇后ネイミアが薨るまで、継承権法が改正されたことは一度としてなかった。メビウスに嫁いだことによってルクリーシア皇女は継承権を失って請求権のみを有するので、今クラインの帝位継承権を持っているのはレウカディア皇女だけである。
 この時代、王子というものは貴重な存在であった。大国で男子に恵まれた国といえば、エトルリアのラン、ファンの二公子、ダリアのクルース公子、ラトキアのナーディル公子くらいしかいなかった。
 同じく直系の男子を辛うじて持っている沿海州の大国ティフィリスでは、現在の王ディートリヒには子供はおらず、魔物退治に明け暮れて婚期を逸した王太子フリードリヒと、男色家で嫁の来手の無いルートヴィヒの二王弟がいるのみで、ティフィリス王家はフリードリヒの代で絶えるのではないかというのがもっぱらの世論である。
 そんな中で世界唯一の女王というのが、このジャニュアの女王ナカル・カルナであった。彼女もまた前王であった夫ティイを十年前に亡くし、一子ユーリ姫をもうけているのみである。しかし、女王がたったからといってジャニュアが悪くなったわけでもなく、むしろ彼女の治世のもと、繁栄を謳歌している。
 そのためか、国民性はごく穏やかで、戦乱時代に一度だけ戦争をしたのをのぞけば他国に侵略したこともなければされたこともなく、戦争、内乱をも経験したことがない国でもあった。一つには彼らが農耕民族で、元来が戦い向きの民族ではなかったこともあっただろうが、使うスペルがマナ・サーラの力、すなわち大地を富み肥やし、草木を守り育てる能力であったということも、穏やかな国民性を形作る大きな要因の一つであったことは否めない。
 様々なジャニュア独特の文化の一つに、カーファ茶がある。ジャニュア原産で、ジャニュアの気候でしか生育しないカーファという木の実が原材料である。果肉は瑞々しい赤で、かすかな酸味と甘みがあって、それもそれで珍味なのだが、その種だけを取り出して乾燥させて煎り、それを挽いた粉で茶をいれるのである。独特の香ばしい香りと苦みが通にはたまらない味わいだという。また生産地によって微妙な味の違いがあり、それもまたファンを惹きつけるこの茶の奥深さであった。
 様々な飲み方があるが、メルヌに来たら一度は試してみるべきだというのが、とびきり濃くいれたカーファ茶に、これまた大量に砂糖を入れ、ままごとのようなカップで飲むメルヌ・カーファという飲み方である。メルヌの男たちは酒代わりにこのメルヌ・カーファで仕事後の一服を楽しむという。
「苦い……」
 一口飲んで、アトは顔をしかめた。青く輝いてみえる黒髪はゆったりとした三つ編みでまとめられ、椅子に座った彼女の腰のあたりまである。ここしばらくの放浪生活と、一年間の軍隊生活とでだいぶ鍛えられ、以前のように男たちの保護欲をそそっていたおどおどした感じは影を潜めてきていた。
 彼女がそれをどう思っていたのかは判らないが、今では護ってあげたいか弱げな少女から、どちらにせよ美少女であることに変わりはないが、共に肩を並べて戦いたいと思わせるようなきりりとした表情になってきていた。
「だから言ったろう。あんたくらいの年の、しかも初心者には無理だよ。砂糖とミルクを入れなきゃ」
 見かねたように、前に座っていたアルドゥインが手付かずだったミルクピッチャーと砂糖の壺を差し出した。見るからに沿海州系とわかる浅黒い肌と黒髪である。彼もまた、頬のそげた精悍な感じのする渋い二枚目であった。言われたとおりに砂糖を一杯と、好みの分だけミルクを注いで、彼女はもう一度その液体をおそるおそる口に含んでみた。「ほんとう。これなら飲みやすいですね。香りもちゃんと残っているし」
 アトはにっこりと笑った。ここはメルヌの一角にある、カーファ茶の専門店である。そういった店はメルヌの至る所にある。誰から言い出したものか、せっかく本場に来たのだから、このジャニュア名物をじっくり味わってみようということになったのである。アトの様子を見ていたアインデッドが自分のミルクピッチャーを差し出した。
「俺は要らないから、使えよ」
「ありがとう」
 ミルクをもう一度たっぷりと注いでから、アトは不思議そうな顔をして目の前のアインデッドを見た。彼女がそのとおりにして閉口した、何も入れないカーファ茶をアインデッドは平気な顔をして飲んでいたのだ。
「よくこんな苦いものを、何も入れずに飲めますね」
「あ? ああ。母さんはこれが好きだったんだ。滅多に飲めるもんじゃなかったけど、慣れてるといやあ慣れてるんだ。だからかな」
 そう言って、アインデッドは最後の一口を飲み干した。飲んだことがあるというサライもアルドゥインも、砂糖を入れて飲んでいるのに、アインデッドだけは一向に平気な様子であった。
「お前、一度もジャニュアに来たことないんだろう?」
「もちろん。来れるわけがねえ」
 アインデッドは自信を持ってうけあった。
「そのわりには馴染んでるな」
「そりゃ、あちこち飛び回ってりゃどんなとこだって適応できるようになるさ」
 ただでさえ人目を引く彼らであったが、今回店の人々の視線を一身に受けていたのはアインデッドであった。というよりも、アインデッドの赤い髪だった。先にも言ったようにジャニュアはたった一度だけ戦争をしたことがある。その相手というのがティフィリスであったのだ。
 どちらが悪いというようなものではなく、双方同じくらいの被害があったようだが、それ以来百数十年間、両国の間では徹底した無関心、無干渉が貫かれ、《冷戦》と呼ばれるあまり褒められない状態が続いている。
 ティイ王の治世になってから、つまり十五年前から、セルシャの代表としてジャニュアを訪れたマナ・サーリア・ラティン将軍を受け入れたことから少しずつだが使節の交換をしたり、ナカル女王が入国拒否を撤廃したりとわずかながらの進展を見せているが、民間レベルではまだまだ両者の壁は厚かった。
 そんなわけで、今回のジャニュア行きを最後まで渋ったのはアインデッドだったし、いちばん行動が慎重だったのもアインデッドだった。何しろ髪が赤いだけで後ろから石を投げられたりするのである。メルヌに入ったころには彼は自分はペルジア人だと名乗っていた。それが一番トラブル回避には有効だったし、相手も納得してくれた。彼ほど鮮やかな赤髪は、ペルジア人にはありえなかったが。
 アインデッドにとって幸いだったのは、彼が全く訛りの無い中原共通語を喋れることと、ほとんどの国の言葉を使えるということであった。ペルジア人をよそおうにも、ペルジア語か訛りを入れてしゃべっていればまずたいてい疑われることはなかったのである。
「まあ、このまま気をつけていろよ」
 アルドゥインはアインデッドの瞳をちらりと見て、頭を軽く振った。沿海州、とくに港町に混血児が多いことは周知の事実だったが、今までにアルドゥインが見てきたティフィリス人の混血児に、緑色の瞳をもったものはいなかったのだ。遺伝学など確立されていなかった時代だが、ティフィリス人の赤い瞳はどの民族との混血であってもかならず現れる色であることは経験的に知られていた。
 アインデッドの瞳の色は出会ったころからアルドゥインの疑問の一つだったが、ジャニュアに来てから、彼は一つの仮定を考えるようになっていた。どんな混血でも、というが、ティフィリス人とジャニュア人の混血児ならば、もしかしたら赤い髪と緑色の瞳を持った子供が生まれるかもしれないと思い始めていたのだ。
 とくにアインデッドの場合は母親の国籍を知らないということもある。だがそこにも一つの問題点があった。何にせよジャニュアとティフィリスの国交が正常化に向かいはじめたのは十五年前のことであり、それ以前はジャニュア人とティフィリス人が出会う機会などありえなかったし、まして結婚など考えられもしなかったのだから。


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