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鎮花異譚――残花 前編



 それが何時のことであったのか、妾には()うはっきりとは思い出せません。ただ随分と昔のことであったという事だけは確かです。
 妾は(かつ)て、絢という名でした。生まれたのは、未だ東京が江戸と呼ばれていた頃――将軍様が世をお治めになっていた頃の事で御座居ます。生まれは長崎、父と、上の兄は出島に出入りを許されたお役人で御座居ましたから、女の身とはいえ妾が異国の話を耳にする機会は幼時より少なからず御座居ました。
 十四の年に、中老格を勤めておりました叔母の紹介で、妾も奥女中として長崎奉行様のお屋敷に御奉公に上がりました。御奉公は結局、結婚致しましたので三年ほどで終わりました。両親は素より嫁入り前の箔付けといった心算で奉公に上がらせたのでしたし、お奉行様の仲立ちで、何時の間にかそういう事になっていたのです。
 夫は八つ年上の、矢張り出島で働く役人でした。兄の同輩でもあり、港湾の管理のような事をしていたと憶えています。博識で、阿蘭陀の言葉も達者な人でした。既う彼がこの世の人ではなくなってから永い時が経ちましたが、彼の事は片時も忘れた事はありません。彼が教えて呉れた話も一つ一つはっきりと憶えています。
 其の中に異国の物の怪の話がありました。彼はそれを、出島で知り合った「かぴたん」の一人から教えて貰ったということでした。
 それは夜な夜な墓から蘇り、人の生き血を啜るという、呪われた死人の話でした。そして生き血を吸われた人間も物の怪の眷族となって仕舞い、夜にしか生きることができなくなるというのです。又た之れは異国らしい話でしたが、其の物の怪は切支丹の信心する『でうす』や『くるす』やらを非常に恐れ、彼らを救う為には、心の臓に白木の杭を刺し、骨も残らぬように焼き尽くさねばならない、ということでした。聞いた時は、随分と残酷な話だと思ったのを憶えています。
 妾の全てを変えて仕舞ったあの出来事は、妾が二十八の時に起きました。
 切っ掛けは、五人目の子を名付けもせぬうちに亡くしたことであったのだと思います。それから暫くして、妾は得体の知れぬ病に伏せるようになりました。初めのうちは心労が祟ったのだと思われ、目眩がする丈けでしたが、次第に伏せったまま起き上がることも殆ど出来なくなって仕舞いました。
 幸いにして伝染する病ではありませんでしたが、夫が彼処の医者、此処の医者と出来る限りの手を尽くして呉れても、一向に良くなる兆しはありませんでした。あの頃の医術では恐らく名を付けることも、理由を知ることも出来ぬ病だったのでしょう。
 妾は既うすっかり、己の命を諦めておりました。けれども、其のようなことを申しますと、夫は決まって優しく私の手を取り窘めるのでした。
「そんなにふうに思っていては()けない。治ると思いなさい、絢。(みさお)たちには未だかかさまが必要なのだし、おまえが辛いのは、私にも辛いのだ」
 すっかり心も弱っていた妾はそうして優しい夫に甘えていたのです。
屹度(きっと)おまえは助かるよ、絢」
 夫はそうも申しました。ほんとうにそう信じて申していたのか、それとも妾を慰めようとして申していたのは、妾には判りません。
 そして、その日が来たのです。あの時の夫の嬉しそうな顔は忘れられません。彼は妾の枕元に座り、今夜出島から阿蘭陀人の医者が来るのだということを告げました。(まる)で既う妾が治ってしまったかのような喜びようで御座居ました。
「奉行様が特別にお許し下さったのだ。これでおまえも良くなるよ」
 長崎は、ご存じの通り阿蘭陀と交易する唯一の場所で御座居ました。当然のこと、阿蘭陀人の医者も其処には居りました。夫は妾の為に其の医者を呼んで呉れたのです。其れは双方にとって(とて)も大変な事であったに違いありません。
「そんな勿体ない事をなさらなくても宜しかったのに」
 妾はそう申しましたが、夫は首を横に振りました。
「金子の事を案ずる必要は無い。絢の病気の事を聞いた其の医者の方から、是非との申し出があったそうなんだ。無論、興味本位で診るようなら直ぐにでも帰らせるから、安心しておくれ」
 阿蘭陀の医術が大層進んでいることは存じておりましたが、そうしたところで本当に治るのか如何か、不安でありました。けれども夫が強く勧めましたし、其の医者が来ることは既に決まっておりました。
 そして、三日ほど過ぎた或る日の夕刻、数人のお役人と共に件の医者が妾のもとに参りました。日が暮れてからであったのは、異国人に町の様子を見せぬ為と、町の者に異国人を見せぬ為の、二つの理由からであったそうです。けれども今にして思えば、もう一つの理由が其処にはあったのでしょう。
 妾が病の身を養っておりましたのは、母屋とは二坪ほどの庭を挟んで渡り廊下で繋がる離れで御座居ました。其処に、医者と通詞の役人、其の他にも妾には何ういったお役目かは存じませんでしたが、三人ほどの役人がやって参りました。
 何しろ婦人の診察で御座居ます。それゆえ妾の蒲団の周りには屏風を巡らせ、其の内側には医者だけが入るということにして、付添いの役人方は屏風の外で待つことになりました。無論其処には夫も居り、心配そうに屏風の陰から妾をそっと窺うのへ、妾は謝意を込めて微笑みました。通詞の役人も外に居りましたので、囲いの中に居るのは妾と医者と、妾の身の回りの世話をして呉れていたお滝という女中だけでした。
 妾が紅毛人――阿蘭陀の人間を見るのは、其れが初めてでした。彼は見たこともない黄色の蓬髪に、不思議な青い目をしていました。其の目が恐ろしい程不気味に見え――同じ人間を見る目には思えなかったのは、恐らく妾の無知の所為だけではなかった筈です。
 其の異人の医者が、屏風からつと顔を出して通詞の方に何事か申しました。通詞が其れを約し、妾に申しました。
「起きられるようなら、起きて下さい、と申しております」
 妾はお滝の手を借りて漸う起き上がりましたが、脇息に凭れて体を支えるのがやっとという有様でした。
「脈を拝見」
 医者の言葉を受けて、又通詞が申します。
 妾が右の腕を差し出すと、彼は違う、というように首を振り、黙って妾の左腕を取りました。手首の裏に指を当て、そして懐中から時計を取り出し、脈と共に時間を計っているふうでありました。脈を計り終えると、次には心の臓の様子を診たいので、胸を開けて見せるように、と申しました。
 夫以外の殿方に肌を見せるなど、医者であろうと到底考えられぬ時代で御座居ます。妾は大層驚きました。()た恥じらいも御座居ましたので、其の点は何うにかならぬかと申しますと、其れならば襦袢の上からでも構わぬだろうということです。
 彼が鞄から取り出しましたのは、ぴかゝゝと光る鏡を取りつけた鉢巻きに似た皮帯に、管のような物を取りつけた道具でした。行灯の赤く朧な明かりを其の鏡に集めて、妾の顔を照らすのです。管のようなものは先端に小さな円盤がついており、肌着の上からそれを妾の胸に押し当てて、心の臓の音を聞くようです。
 其の他にも、当時の妾には見たこともない道具で、彼は妾の体の彼方此方を調べました。やがて、妾の頸の付け根を押して、彼は申しました。
「此処に悪い血が溜まっている。其れを抜けば大分良くなるだろう」
 其の診立てが真であったのか如何か、妾には判りません。確かに其の場所は、こりゝゝとして何やらしこりに触れるようで御座居ましたが、果たして病のもとが其れであったか如何かは定かではありません。
 医者はお滝に対して、之れから血を少しばかり抜くので、清い布と、血を洗う為の水を持ってくるようにと命じました。お滝は慌てた様子で立ち上がり、母屋へと走ってゆきました。屏風の内側に残されたのは、妾は医者許り。周りには何人も居た筈でしたのに、静かなもので御座居ました。
 彼は、異国の言葉で何やら妾に問いかけました。通詞にも聞こえぬ程の、小さな微かな声です。夫から幾らか阿蘭陀の言葉を教わってはいたものの、当時の妾には其のことばを聞き取り、理解することは出来なかった筈でしたのに、其の時は何故か、彼の言うことがはっきりと解りました。
 彼は妾に斯う尋ねました。
「あなたは、生きたいか」と。
 妾は夢中で御座居ました。頷くと、其れ迄殆ど無表情であった彼は初めて歯を見せて笑いました。其の不気味な程白い歯の、糸切り歯が鑢で研いだように鋭いのが見えました。
 之れは人間ではない、人間である筈がないと妾は思いました。逃げようと身じろぎしましたが、既う遅すぎました。彼は妾の肩を恐ろしい力で掴み、首筋にその鋭い歯を突き立てました。かッと焼けるような感覚がありましたが、不思議なことに痛みとしては何も感じませんでした。彼の牙――それは牙でした――は、痛みを覚えさせぬ仕掛けを持っていたのでしょう。
 妾は声も出せずにおりました。一体我が身に何が起きたのか、それすら解っていたのか定かでありません。其の瞬間、妾は彼のあの、作り物のやうな目に魅入られていたように、何も考えられずにいたのです。
 其れは実際には、迚も短い時間であった筈です。間もなく、お滝が手桶に水を張り、白い晒し布を其処に浮かべて戻って参りました。医者は、妾から体を離して元の居住まいに戻っておりました。
「さあ、血を拭いてください」
 妾の背に手を当てて支えながら、医者がお滝に申しました。お滝は初めこそ驚いたようでしたが、直ぐに布を絞り、妾の首筋を拭いました。恐らく其処には、彼が付けた傷と、血が残っていたのでしょう。其の時には、妾は殆ど気を失っておりました。ですから、その後何のようなやりとりが其処にあったのか、窺い知ることは出来ません。
 気がついた時には、医者やお役人達は帰った後、屏風も片付けられておりました。妾の枕元では夫が一人きりで、消えかけて揺らめく行灯の傍に座って項垂れておりました。微かにいびきが聞こえておりましたので、夜っぴて妾を見守る心算であったのだろうと判りました。
 首を巡らせて部屋の様子を見ようと致しますと、首が強張ったようで上手く動きません。何うしたことかと手を触れてみると、厚く晒布が巻かれておりました。
 あれは一体何だったのか――。首に傷があることは確かなようでしたが、妾は未だ、夢か幻を見ていたような心地で御座居ました。
 ですが其の日から少しずつ、妾の体調は快方へと向かっていきました。三日ほどで、あれほど妾をしつこく悩ませていた目眩はぴたりと止み、ひと月も経つと、お滝の手を借りなくとも起き上がることが出来るようになりました。二年近くも臥せっていたので足腰が衰えてしまって、杖を使わず歩き回れるようになるにはもう少しかかりましたが、半年もするとすっかり元通りと申しても良いくらいになりました。
 妾の回復を、幼い子供たちはもとより夫も喜んでくれました。けれども、何もかもが元通りとはゆきませんでした。
 病はすっかり癒えたと、誰もが――妾自身も信じて疑わなくなった初夏の日のことです。妾は縁側に腰かけ、一番下の娘の節が毬をついて遊ぶのを見ておりました。覚束ない仕草で毬をつく姿は大変微笑ましいもので御座居ました。
「母さま、母さま。節にお手本を見せてくださいませ」
 思うように毬を操れぬ娘が、つと妾のもとに走ってきてせがみました。
「上手く出来るかしら。ずいぶん長いこと、毬などついておりませんからねえ」
 娘から毬を受け取り、立ち上がって庭先へと足を踏み出した途端、目の前が真っ暗に染まり、くるりと世界が回りました。娘が何かを申しているようですが、それも聞き取ることができません。そうして、妾の意識は途切れて仕舞いました。
 目を開けた時、妾は床に横たわっており、枕元には泣きじゃくる末の娘を真ん中に、心配そうな顔をした子供たちがおりました。頭を巡らせますと反対側にはお滝が控えており、こちらもほっと安堵したような表情を浮かべておりました。
「嗚呼善かった、奥方様。お目覚めになられましたか」
「お滝や、妾はどうしてしまったのです」
「わたくしは存じませんが、節さまが仰いますには、お庭に降りられた途端、急にお倒れになったそうで御座居ます。ご気分は如何ですか」
 お滝は労わるような手つきで妾の額に載せていた手拭いを取り、尋ねました。妾はもう一度ゆっくりと瞬きして、目眩が襲ってこないことを確かめてから答えました。
「有難う、お滝。もう何ともないわ」
 とはいえ未だ少し、ふわふわと水に漂うように体の芯が定まらぬ感覚があったので、妾はお滝の手を借りて起き上がり、子供たちを安心させる為に微笑みかけました。
「皆、心配させてしまって済まないわね。急に明るい所に出たもので、目を回してしまったようだわ」
 病に臥せっている間、薄暗い離れで昼もなく夜もなく微睡んでいたせいで、強い光に目が眩んでしまったのだと妾は思いました。この一件で明らかとなった不調は夏の間も続きました。夕方や夜に目が冴えるというわけではなかったのですが、真昼に外へ出ようものなら忽ち、目の前が真っ暗になって立っていられなくなってしまうのでした。
 病み上がりの所為で感じやすくなってしまっているのだろう、日が短くなれば良くなるだろうし、夏を乗り切るまでの辛抱だと夫は言いました。けれども秋を迎え、冬が過ぎ、春が来て再び季節が一巡りしても、新たに妾を悩ませるようになったおかしな目眩は一向に治まりませんでした。
 とはいえ昼日中に気が遠くなってしまうのは決まってお天道様が強く照りつける日で、曇りや雨の日には何の問題もなく過ごせました。余り光が強くない日なら日傘を差せば晴れていても外に出ることはできましたし、それ以外に体の不調はありませんでしたので、三年ほど経つと目眩にも折り合いをつけられるようになりました。
 その頃には夫や子供、家中の者も妾の体調をよく承知するようになっておりましたので、昼間は家の奥にできるだけ居るようにし、外でしなければならないことは誰かに任せ、夏の間や晴れた時には一日中、お天道様を見ないことが当たり前になってゆきました。
 自分の身に起きた決定的な異変に漸く妾が気づいた時には、あの不可思議な一夜から既に十年以上が過ぎておりました。
 その年、一番上の娘である律が嫁入りを迎えました。結納のため、先方の御両親も揃って我が家にみえた時のこと。
 結納の儀を執り行う奥の一間で妾は夫の右に座し、律は妾の隣に座して先方を迎えました。妾と律が嫁ぎ先の方々にお会いするのはその日が初めてで御座居ました。一通りの挨拶を済ませ、結納自体は滞りなく行われました。結納まで交わせば、後はもう内外へのお披露目を済ませるだけ、半ば以上終わったようなものです。先方もほっと安堵なさって寛いだ気分に為られたのでしょう。
 両家揃っての夕餉の席で、先方の父君が夫に向かって仰いました。
「失礼を承知でお尋ね申し上げるが、伴坂殿。奥方は後添いでいらっしゃるのかな」
 夫は驚いたように首を振り、答えました。
「いいえ、それがしの妻はこの絢だけに御座居ます。何ゆえに、さような」
「いや、奥方は妻とほとんど変わらぬ歳だと聞いておりましたが、あまりお若く見えたので、ついそのように」
 若く見えるとは、よくある世辞の一つです。この二年前に長男の規一郎が妻を迎えた時にも、祝いの席で似たような褒め言葉を頂戴しておりましたし、相手もかなりお酒を聞し召しておいででしたから、妾は言葉半分に聞き流し、その場はそれで終わったのでした。
 けれどもこの一件を切っ掛けに、昔と変わらぬ、そのように言われることが増えたと妾は漸う気付いたのでした。それは些か遅きに失した自覚でありました。この時、妾はまもなく四十を過ぎようとしておりました。先に四十の坂を越え、五十に手が届こうという夫は鬢に白いものが目立ち、以前は笑った時にだけ現れていた皺が肌に刻み込まれたように、目尻や口元に見えるようになっておりました。十年以上もずっと傍近くに仕えて呉れていたお滝もまた、共に重ねた年月に相応しく老いておりました。
 でも、妾は何一つ変わっておりませんでした。鏡をどれほど覗き込もうと、髷を解いて入念に梳ろうと、皺の一つも白髪の一本も見当たりませんでした。鏡の中から見つめ返す妾自身の顔は、三十に為る為らず程に見えました。奇妙な病に侵され、更に不可思議な一夜を境に恢復した、あの頃から全く変わっておりませんでした。一つだけ変わったことがあるとすれば其れは、糸切り歯が少しだけ尖り、鋭くなったことでした。宛で、あの夜に妾を貫いた牙のように。
 お滝をはじめとする使用人ばかりでなく、血を分けた子供達でさえ、妾を見る眼が何時しか病人を気遣う眼ではなく、奇異なもの、怪異を見る眼と為っていたことに妾は気付いておりました。唯、気付いて居らぬ振りをしていたのです。気付けば其れは、己をあやかしと認めることに他なりませんでした。
 女子の身にとり、実際の年齢よりも若く見えることは本来ならば喜ばしい筈のことです。それが五つか六つ程ならば、妾も喜んだことでしょう。ですが、夫と釣り合わぬほど若く――娘と同じ年頃に見えるなど、明らかに異常です。
 自らの身に何が起きているのかも解らぬ侭、更に十年が経ちました。何時まで経っても、妾は変わりませんでした。夫と並んでも娘にしか見えず、息子と並べば夫婦のように見えるようになっておりました。
 家内の者は、姿の変わらぬ妾に何も申しませんでした。申しませんでしたが、妾を気味悪がり、恐れている空気は感じておりました。妾自身も、己が恐ろしくてなりませんでした。生きている限り、老いは避け得ぬものです。ならば老いなくなった身を、本当の意味で生きていると申せましょうか。妾はもはや、自然の生き物ではなくなっておりました。
 妾は、自分が人ではなくなったことを知りました。姿形は変わりませんでしたが、変わらぬが故に、何かが変わって仕舞ったのだと解りました。いつの間にそうなっていたのか、妾には判りません。けれど原因はあの紅毛人の医者、彼の牙にかかったことだと、確信しておりました。
 人の生き血を啜らねば生きられぬなどということは御座居ませんでしたし、昼の光に目が眩むことはあっても忽ちに灰と化すこともありませんでしたが、物の怪に生き血を吸われ、同じ物の怪に成り果てるとは、夫が語ってくれた話とまるきり同じでした。
 夫は優しい人でした。妾の心の臓に白木の杭を刺そうとも、拝み屋や加持僧、或いは出島から伴天連を呼んで調伏しようとも致しませんでした。人ではなくなった妾を、其れでも愛してくれました。斯くなる上はお暇を戴き、何処か妾の素性を知らぬ人しか居らぬ土地に移るか、いっそ武家の娘らしく潔く身の始末をつけるより他にないと思い定めていた妾を、病の床に臥せっていたあの時と変わらぬ優しさで窘め、引き留めて呉れました。
 けれども夫や息子たちが妾を在るが侭に受け入れてくれたとしても、人として生きることは許されぬ身となったことは、妾自身もよく承知しておりました。斯うとなっては二度と人前に出ることは出来ませんでした。表向きには病と告げ知らせ、妾は頭巾で顔を隠し、日も射さぬ奥の一室に引き篭もりました。病ゆえ顔が崩れたので、家人と気心の知れた使用人以外の誰にも会いたくない、会えないのだということにして、世間との一切の関わりを断ちました。
 そうして幾年が過ぎたでしょうか。夫は跡取りとなる男児の誕生を機に長男に家督を譲り、隠居致しました。渡り廊下で本宅と繋がる離れが夫の新たな生活の場となりました。其処に夫は妾を呼び寄せ、起居を共にするように計らって呉れました。頭巾を被っていない時、傍目には御隠居と其の世話を任された女中に見えたかもしれません。けれど夫と二人、水入らずで過ごした日々は、妾にはこの上なく幸せな時間で御座居ました。
 けれども幸せな時が何時までも続く筈など御座居ません。夫は更に老い、風邪を切っ掛けに床を離れられぬようになりました。日毎に起き上がれる時間が短くなり、はっきり目覚めているよりも、うとうとと目を閉じている方が長くなってゆき――宛で蝋燭の火が燃え尽きるように、緩やかに、(しか)し確実に、夫の命は尽きようとしておりました。其の事は妾だけでなく、夫自身も気付いておりました。
 脇息に凭れながらではありましたが、身を起こすことが出来た最後の日のことです。夫は優しい目で妾を見つめ、膝に置いた妾の手に自らの皺深い手を重ねてしみじみと申しました。
「月日の流れるのは早いものだ。お前と夫婦になって、既う四十年以上も経つのだね、絢。お前が何も変わらぬからつい忘れてしまうが、私も随分老いたものだ」
 その言葉に、妾は何も返すことが出来ませんでした。
「ねえ、絢や。私が先に逝っても、私の後を追おうなどと考えては可けないよ。おまえは私の分まで生きておくれ」
「範助様、どうか然様なことを仰らないで下さいませ。逝く時は一緒に参りましょう」
 妾は夫の言葉に首を振り、縋るように申しました。夫が此の世を去ったのは、其れから間もなくのことです。其の日は朝から長男とその嫁、三人の孫達も枕頭に詰めておりました。夫は至極穏やかな顔で目を閉じておりましたが、不図目を開けると己を囲む家族の顔を順々に眺め渡し、最後に妾へと視線を向けました。
 夫は頭巾の奥を覗き込むようにして、申しました。
「どうか顔を見せておくれ、絢。お前の顔を憶えておきたい」
「はい」
 夫の最期の望みを、何うして断れましょう。妾が頭巾に手を掛けた時、周囲ではっと息を呑む音が聞こえました。人前に決して顔を出さぬ妾の素顔を、此の時孫達は初めて目にしたのですから、無理からぬことだったでしょう。
「嗚呼、お前はいつまでも美しいね、絢」
 息子や嫁、孫達の恐れを含んだ視線が妾を取り囲む中で、夫は満足げに妾を見つめました。柔らかなその眼差しには、心からの愛しさが溢れているように妾には思えました。そしてそれが夫の最期で御座居ました。
 逝く時は共にとあれほど望んだのにも拘らず、夫は妾を連れて逝っては呉れませんでした。共に逝くことが出来ぬのならば、せめて共に老いたいと幾十年願い続け、結局それすらも妾には許されなかったのです。
 妾が紅毛人の牙にかかったことで老いぬ身と為ったように、此の牙で夫を傷つければ、或いは共に生きることが出来たのかもしれません。真夜中、傍らに眠る夫の老いた横顔を見詰め、そのような思いに囚われることは幾度もありました。けれども、夫を同じ物の怪に変えてしまうことは、何うしても出来ませんでした。


(2014.7.20up)

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