鎮花異譚――残花 後編



 夫の死後も、妾は同じ事を繰り返すだけの日々を無為に重ねてゆきました。そうして何年――何十年が経ったことでしょう。或る年の暮れ近く、孫の一人、貞右衛門が妾の暮らす離れを訪ねて参りました。
 年を経ても老いぬ妾を、言葉にこそ出しはしませんでしたが恐れていた家族の中にあって、貞右衛門だけが妾を恐れませんでした。あの日、己の母よりも若い姿の祖母を目にし、恐れを抱いて離れていった孫達の中で唯一、貞右衛門はそれからも折々に季節の花やささやかな菓子など携えて妾を訪ねて呉れていました。
「お祖母様」
 取り留めもなく世間話を――妾が離れて久しい浮世のことどもを話して聞かせて呉れていた貞右衛門は、つと居ずまいを正し、申しました。
「江戸に参りませんか」
「江戸へですか」
 何を考えて貞右衛門がそのような事を申したのか分からず、妾は繰り返しました。
「然うです。此処で人の目を避け、屋敷の外はおろか此の離れから出ることもなく暮らして居られては息が詰まりましょうし、お体にも宜しく御座居ません。ならばいっそ、誰もお祖母様を知らぬ土地へ参られては如何でしょう」
 貞右衛門は随分と長いこと、妾が人目を気にせず暮らせるようにするには何うすればよいのか考えていたのだと申しました。
「明くる年より、私は柿見様の江戸勤めに従って江戸に参ります。幸い、私は一人まで家内の者を連れてゆくことを許されております。女中か下男を指しておるのでしょうが、構いますまい。それに、お祖母様は嫁がれる前、奉行様の御屋敷で奥勤めを為さっておられたと伺っております。閉じ籠もっておいででは何にもなりませぬ。江戸に参りましたなら、いずれかの御屋敷にお勤めになるというのは如何でしょう」
 夫が居なくなった今、家内の者たちに恐れを抱かせ、口に出す者はおりませんが明らかに厄介者となってまで此処で暮らし続けることに何の意味があるのか、妾自身にも判らなくなっておりました。確かに貞右衛門の申します通り、此の地を離れたからとて妾が変わることはできないであろうとしても、何かしらの変化を得る為の一つの手段であるように思われました。
 そこで妾は彼の勧めに従い、江戸へと参ることに致しました。家内のものは誰一人として反対致しませんでした。そうして伴坂家の遠縁と偽り、貞右衛門の口利きを得て柿見様の江戸屋敷に勤めることとなりました。相も変わらず良く晴れた日には外に出ることが出来ませんでしたが、お勤めの上で然程困ることは御座居ませんでした。
 昔取った杵柄とは善く言ったものです。やがて妾は若いながら故事に通じているということで、柿見様のお屋敷では重宝されるようになりました。無理からぬことです。妾は屋敷にいる誰よりも、実際には歳を重ねていたのですから。
 江戸での暮らしは忙しく、如何かすると己が常の人ならざる身であることを忘れてしまう日々で御座居ました。
 そうして五年ほどが経った頃。家内の用事で柿見様の上役の御屋敷に赴き、届け物をした帰りで御座居ます。夕暮れの町に突如として半鐘の音が鳴り響きました。其れは初め、少し離れた所から聞こえておりましたが、やがて直ぐ傍の火の見櫓でも印半纏の男衆が大層慌てた様子で半鐘を叩き始めました。
 その意味するところは一つしか御座居ません。遠からぬ町の何処かで火の手が上がったのです。見上げた空には煙が幾筋も立ち上り、目を凝らせば夕焼けと競うように空を焦がす炎が見えるかのようでした。妾は同道していた朋輩と青ざめた顔を見合わせました。
「早く御屋敷に戻りましょう」
「えゝ」
 当時の江戸では、火事はさして珍しいものでは御座居ませんでした。毎日のようにとまでは申しませんが、月に二度三度と、其方の町で付け火があった、此方の町では竈の不始末で火が出たと、小火騒ぎはたいそう多いもので御座居ました。併し後に知ったことですが、妾が其の日遭遇した火事は、実に十数年ぶりとなる大火でした。
 何処が火元となったのか分からぬ侭、妾達は御屋敷への帰路を急ぎました。火難を逃れて風下へと移動する人々は次第に増え、やがてそれは妾達の行く手を阻むような動きとなりました。と申しますのも、柿見様の御屋敷が在るのは此の時の風下だったからです。
 ろくろく前も見ずに駆けてゆく男女、周囲を押し退けんばかりにして家財道具を積んだ大八車を引く男、親とはぐれたのか道端に立ち尽くして泣き叫んでいる幼子――上を下にの喧騒と混乱の中、妾も亦た、隣に居た筈の朋輩を見失って仕舞いました。人の波に押し流され、其方は危険だと引き留められ、気が付けば火が収まった時、妾は御屋敷から遠く離れた町に居りました。
 柿見様には何事も無かったであろうか、貞右衛門は、朋輩は無事であろうか――御屋敷の方々は勿論、貞右衛門も案じているに違いない。一刻も早く戻らねばならぬと焦っていた妾の心に不図、一つの考えが浮かびました。
 之れは、自分を葬るに良い機会ではあるまいか、と。
 此の侭戻らねば、御屋敷では妾が火に巻かれて死んだものと思うことでしょう。然うすれば子供達はこの先ずっと、物の怪と化した妾を隠すことに汲々とせずに済む。伴坂家の墓に眠る夫の傍に、妾自身は今尚行くことはできずとも、名だけは寄り添うことは出来る筈。其れは素晴らしい考えであるように思えました。
 斯うして、絢であった妾は死にました。大火の後始末で世間が騒がしい内に、妾は縁者も知る者も居ない別の町へと移り住みました。区切りを付ける為に絢の名を捨て、夫を偲んで範と変えました。武家に生まれ育ち、江戸の町人の生活など何一つ知らぬ身には不慣れなこともありましたが、江戸の周りから喰い詰め者や駆け落ち者が流れ込み、過去を捨てて暮らしていることも多かったので、妾が其れに倣うのは難しいことではありませんでした。
 今さら町人や農民の出であると偽るのは無理でしたが、浪人の後家であるとか、御家が御取り潰しに遭って離散したのだと申せば疑う者はおりませんでした。長屋暮らしもお店(たな)への奉公も初めてのことでしたが、数年も経てば慣れました。とはいえ、老いぬ身を抱えて一つ所に留まることは出来ませんでした。ですが、奉公の途中で出奔するのは望ましくありません。妾は最初に身を隠した時と同じように、近くで火事が起きたり大水が出たりするのを待っては其れに巻き込まれて死んだと偽り、遠くへと移り住むことを続けました。
 幸いにして江戸市中は大層広う御座居ましたし、三十年も経てば世代が入れ替わり、変わらず其処に暮らす者の記憶も薄れます。昔住んでいた場所に再び住み着いても、妾を怪しむ者は居りませんでした。
 やがて幾十年が過ぎ、太平の夢破れる時が参りました。其の頃、妾はとある人の妻となっておりました。奥女中として勤めていた御屋敷で、お仕えしていた御隠居に見初められたのです。いずれ此方から離れるものと、人と深く関わらぬように生きて参りましたが、御隠居は若い頃の話を嫌な顔一つせず聞き、当時の話題にも難なくついてゆける妾を大層お気に召して下さり、話相手にと毎日のようにお呼びがかかるうち、いっそ後添いにと望んで下さったのでした。
 奉公の形が少し変わっただけのようなものとはいえ、外に出る機会はめっきりと減り、天災の騒ぎに紛れて姿を隠すことは難しくなりました。このまま五年、十年と居続ければ、妾が物の怪だということは誰の目にも明らかになるでしょう。けれど其れで命を奪われることになっても構わぬという気になっておりました。少々、投げ遣りな思いになっていたことは否めません。夫の遺言に従い、ただ生きることに疲れていたのです。
 そうこうする内に、世間は目まぐるしく変わってゆきました。彼方此方で血腥い事件が起き、戦火が起こり、混乱の裡に将軍様の御世が終わりました。
 難しい事は女の身である妾には判りませんでしたが、妾が嫁いだ家がお仕えしていた藩は早くから新政府に恭順の意を示していたので、臣下も悉く御取り潰しを免れ、江戸開城を前に国元へと戻ることに為りました。
 身を隠すならば、世間のみならず家中も慌ただしく騒がしい今が最後の機会でした。二度目に嫁ぐことと相成った時、いつか人ではないと知られて殺されたとて構わぬと思ったことは事実でしたが、主君が居られ、親類縁者も居る国元で、御隠居が物の怪を娶ったなどという騒ぎを起こしては申し訳ないと思い、妾は身を隠すことに致しました。
 将軍様ご自身が帝に天下をお返しすることをお決めになり、江戸を戦火から守る為に城を明け渡すと定められたとはいえ、其れに未だ反発する者も、将軍様が退くだけでは足りぬと考える輩もおり、江戸が物騒なことに変わりは御座居ませんでした。江戸に近い宿場は危険だと、明るいうちに屋敷を出て、夜っぴて旅路をゆく予定で御座居ました。
 折しも昼間から曇りがちの、月の無い夜でした。とっぷりと日が暮れ、先触れの提灯だけが頼りとなった刻限、後添えに迎えられた際に仕立てて頂いた留め袖と幾ばくかの銀子の包み一つを抱えて妾はそっと家中の者たちから離れました。女中上がりの身ゆえ、駕籠を許されていなかったのは寧ろ妾にとっては有難いことでした。
 夜陰に紛れ、妾は後にした筈の江戸へと戻りました。戻ったからとて行く宛ても、すべきこともありませんでしたが、江戸ならば人に紛れて之れからもひっそりと生きていくことが出来ると思いました。
 そして御維新から数年が経ち、鎖国が解かれたことで居留地の外でも異国の人々がちらほらと見受けられるようになりました。其の時の妾は、居留地に程近い小間物屋で働いておりました。或る夜、一日の仕事を終え長屋へと帰る道すがら、妾は妾の人生をまるきり変えて仕舞ったあの物の怪に再び出会ったのです。
 時は亥の刻を過ぎておりましたでしょうか。通りに人影はなく、月だけを供に家路を急いでいた妾の足元に、不意に影が差しました。何事かと思い顔を上げれば、そこに丈高い異国の男が立っておりました。
 肩まで伸びていた黄色い髪は短くなって鬢付け油か何かで額の後ろへと梳き整えられており、身に纏うのは当世風のフロックコォトと、風体はあの頃と随分と変わっておりました。
 ですがあの硝子玉のような眼を忘れる筈も御座居ません。
「貴男は」
 思わず口から零れた声は、酷く掠れておりました。
「何故あの時と変わらぬ姿で此処に居るのですか。何故妾は老いることも死ぬことも出来ないのですか。貴男は何者なのですか。貴男は、妾を何に変えたのですか」
 驚いたように瞬きし、此方を見詰めた彼の方も妾を憶えていたようでした。異国の言葉で矢継ぎ早に発せられた問いを全て解することが出来たのかどうかは定かでありませんが、彼は何やら考えるような顔をしながら口を開きました。
「私にも、私が何者であるかは分からない」
 たどたどしい発音の日本語で、けれどはっきりと、彼は申しました。
「其れを知るために、私は今も生きている」
 そう前置きして、彼は語り始めました。
 彼の言葉が日本語であったのは、初めの数語だけであったように思います。けれども妾には、彼の言うことが全て理解できました。其れが彼の持つ、彼と同じものとなった妾にも与えられた、未知の力によるものなのか、或いは通じ合おうと望む互いの心がそのような錯覚を引き起こしただけなのかは判りませんでしたが。
 語られたのは、大層不思議な物語でありました。遠い昔、家康公が江戸に幕府を開かれるよりもずっと前に、其の頃は未だ人間であった彼が愛し、彼を愛した女性が居たこと。其の女性と共に生きようと決意し、永遠の愛を誓った其の日に、妻となった彼女の牙によって人間ではなくなったこと。
 彼女も亦た過去に望まずして不老の身に変えられ、生き続けることに絶望し乍らも、永劫の時を共に歩んでくれる殿方を探していたのでした。妾達の身に起きた現象は、病のようなものだと彼は言いました。牙を使い己の血を相手の血と混ぜることで伝染する、死を遠ざける病なのだと。
 妾が江戸で過ごした数十年と同様に、彼と妻は彼方此方を放浪しなければなりませんでした。それでも愛する人と生きる日々は幸福であったそうです。しかし幸福は長く続きませんでした。詳しく語ることはありませんでしたが、彼の妻は、彼らを化け物と知り、自分達を害するのではないかと疑った人々の手にかかり無残な死を遂げたということでした。
「私たちは老いず、病に罹ることも無い。だが、死なぬわけではないのだ」
 其処に一つの希望或いは慰めを見出しているかのような口振りで、彼は申しました。
 昔、絢であった頃に夫から聞いた物語を、妾は思い出しました。呪われた死人を救う為には、心の臓に白木の杭を刺し、骨も残らぬよう焼き尽くさねばならないという、残酷な話です。
 伝説は一片の真実を孕んでいるのだと、彼は申しました。私たちの体はただ老いと病を逃れているだけであり、死を完全に免れているわけではない。老いず、病に罹らぬという点を除けばこの身は只の人間と何一つ変わらず、刃物や水や火で傷つけられれば命を落とすというのです。
「其処まで解っているのに、貴男は死にたいとは願わなかったのですか。自ら死のうとしたことは無いのですか」
 彼は静かに頷きました。月の光が差し込む彼の薄青い瞳に在るものが、果ての無い諦念であると気付いたのは其の時です。絶望に絶望を重ね、もはや何を感じることも無いほどに心を擦り減らした者の瞳は、いっそ穏やかなまでに凪ぎ、静かなものであるのだと、妾は知りました。そして恐らく彼は、妾が過ごしてきた年月など及びもつかぬほどの永い時を生きてきたのであろう――妾の絶望など、彼の絶望の前では些細なものに過ぎぬのだろう、と妾は悟りました。
「我々の神は、自らを殺すことを赦さない。それに、妻は私に生きることを望んだ。あなたも既に知っているように、終わりの無い生は苦痛に満ちている。其れでも尚、生きるようにと望んだからだ。私に出来ることは唯、何者かが永遠の安息を与えて呉れるのを待つことだけなのだ」
 彼は全く平静でありましたが、心の裡に燻ぶっていた様々な思いが、それらをもたらした相手を目の前にして俄かに勢いを増し、妾は詰るように申しました。
「待ち受けるものが苦しみ許りだとご存じならば、何故妾をご自分と同じものにしたのです。何故此の苦しみを背負わせたのです」
「生きたいかと訊ねた私の問いに、あなたが頷いたからだ。だから私はあなたを生かした。私があなたを生かすには、私と同じものにするより他になかった」
「ええ、ええ。妾は生きたいと願った。死にたくないと願った。けれど、このような生など、望んでおりませんでした」
 これが理を枉げても生を願った妾の背負わねばならぬ業なのですか。このままずっと老いることなく愛しい者を見送り続け、それでも生きねばならぬのですか。殺されるより他に、死ぬことはできないのですか。
 妾は必死の思いで問いました。彼は静かに首を横に振りました。
「確かに私はあなたを人ではなくしてしまった。だが、あなたの病を心から憂い、治してやりたいと願い、私に助けを求めたあなたの夫の想いを無下にすることは出来なかった。貴女の夫ならば屹度、あなたが何者になろうとも変わらず受け入れて呉れるだろうと私は信じた。だからあなたに、呪われた生と知りながらも同じ生を与えたのだ。あなたの口から答えては呉れないか、私の選択は正しかったのかどうか。あなたに一時であれ幸せと思う瞬間があったのかどうか」
「夫は」
 範助様と過ごした切なくも愛おしい日々の思い出が蘇り、震える声で妾は申しました。
「夫は、人でなくなった妾を、最期まで愛して呉れました。共に逝くことは出来ませんでしたが、最期まで添い遂げることは出来ました。見送ってより後の年月(としつき)は今日まで苦しみしかなかったとしても、妾は幸せでした。認めましょう、其れは貴男のお蔭です」
 あの時、生を望み、彼が其れに応えて呉れたからこそ、妾は息子が元服し無事に跡取りの務めを果たすのを見守ることが出来、娘たちが年頃となり嫁いでゆくのを送り出すことが出来ました。人ではなくなり、家族からも敬遠され、顔を隠し離れの一室に身を潜めるように暮らさざるを得なくなっても、一つ所に留まれず、親しい友の一人も作れぬ孤独な年月を過ごさざるを得なくなっても生きてゆけたのは、幸福な記憶が妾に残された人の心を支えて呉れていたからです。
 妾と夫と子供たちが何の蟠りも無く家族で在れた間、妾は幸せでありました。命と引き換えとはよく申しますが、死と引き換えに、妾は其の幸せを味わうことが出来たのでした。目の前に立つ、悲しくも穏やかな硝子玉の目をした、異国の妖が懸けた情けによって。
 一体どのような思いで、彼は今までの歳月を過ごしてきたのでしょうか。彼のお蔭で妾が儚い幸せを手に入れた事実は、彼にとって救いとなったのでしょうか。其れを思うと心の臓を掴まれるような苦しさが喉元までせり上がり、妾は袂を抑えました。
「貴男もそうなのですか。これまでも、これからも、幸せであった時を慰めにして独りで生きてゆくのですか。もう一度、誰かと共に生きてゆく心算はないのですか。貴男の奥方が、貴男にそう為さったように」
「いま再び愛する人に愛され、其の人が生きながら死ぬことを受け入れてくれるのなら、或いはそのようなことも在るかもしれない。あなた自身も苦しみだと言った生を、愛する人にも与える覚悟があるのならば。だが、屹度そのような日は来ないだろう」
「そうでしょうか」
 問い返すように、妾は呟きました。妾には、今日まで確信はありませんでしたが、望めば相手を己と同じものに変えられる牙が御座居ました。夫に、子供たちに、牙を突き刺す機会は幾度となく在った筈でした。そうして仕舞おうと思ったことは何度もありました。けれども結局誰にも出来なかったのは、彼らを愛していたからに他なりません。
 妾が夫を在るがままに委ね、天命に従い見送ったのは愛するがゆえでしたが、彼の奥方が彼を己と同じ呪われた身に変えたのもまた愛ゆえなのであったとすれば、その何れを選ぶかは結局、愛の在りようの違いに過ぎないのでしょう。
「奥方のような方に巡り会うことも、いつかは在るかもしれません。ですが貴男の仰る通り、永遠に来ないかもしれません。望まなければ、目の前に在ったとしても気付かぬものでしょうから」
「あなたの行く末に幸せがあればいいと、願っている。あなたが生きたいと望んだあの夜から、ずっと其れは変わらない」
 彼の声は、その目と同じように穏やかで、染みいるように低く静かでありました。
「全ては神の思召すままに」
 額から胸へ、左肩から右肩へと夜目にも白い手がひらりと舞い、彼は切支丹が挨拶代わりに行う仕草を取りました。思いがけぬ邂逅でありましたが、彼と語り合うのは最う終わりなのだと妾は悟りました。
「貴男にも、幸いが御座居ますよう。どうぞ幾久しくお健やかに」
 老いることもなければ、病に悩むことも無い身には意味も無い言葉で御座居ました。ですが彼は小さく頷き、緩く口元を綻ばせました。ずっと昔に目にした、歪んだ表情に似ているようでいて宛で違う、親しい友に向けるような笑みでありました。
 フロックコォトの裾を翻し去ってゆく彼の背中は、ひどく儚げなもののように妾の目には映りました。鳩鼠色のフロックコォトに包まれた姿は、間もなく月影の途切れた闇に紛れて消えて仕舞いました。妾は其の闇に目を凝らしました。すると闇の中にほの白く浮かび上がるような、彼の孤独が見える気が致しました。
 仮令同じものとなったからとて、妾には彼の孤独を束の間慰めることは出来ても癒すことは出来ないでしょう。彼が妾の孤独を癒せないのと同じ様に。
 此の命が何時まで続くのか、本当に終わりなど訪れるのか、妾には分かりません。彼にも分からぬことでしょう。けれども何時かはあの悲しい眼が絶望ではなく喜びを映す日が来ることを。傍らに寄り添い、永遠の夜を共に歩んで呉れる者が現れるようにと、願わずには居られませんでした。


【終】



(2014.7.30up)

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