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黄金の綱 9


 エルベティーナは命の残り火を探るように、魔女の頬に当てていた手を動かして喉元に触れた。すると、ともすると願望のなせる錯覚かと思われるほど微かではあったが拍動が指先に感じられた。限りなくそれに近い状態ではあったが、まだ魔女は死んではいないのだということにエルベティーナは全身の力が抜けてしまいそうなほどの安堵を感じた。
 ただ、肉体的な眠りはともかく魔術的な眠りに対して、声をかけたり揺さぶったりする他に目を覚まさせる術をエルベティーナは持っていなかった。呼びかけ、手を握り締めるなどの甲斐のない努力を小一時間ほども続けたが、魔女の瞼はぴくりとも動かなかった。
 ヘムロックのように苦い絶望が彼女の胸を押しつぶそうとしていたその時であった。
「黄金の娘、お前がロメリアの愛し子だね?」
 頭上から響いた声に、はっとエルベティーナは振り仰いだ。声の主を確認した途端、不思議なことにエルベティーナの視界は一変した。磨き抜かれた石床はそのままに、赤銅色の花弁と白熱した炎の芯を持つ花が咲き乱れる平原が現れ、天井の遥かかなたには眩い星をちりばめた紫の空が果てしなく広がっていた。エルベティーナがいるのは確かに地下室であったが、そこにもう一つの世界――訪問者の属する世界が互いを侵食することも混じり合うこともなく重なっていたのである。
 驚きに心を奪われ、エルベティーナは瞬時悲しみを忘れた。地上の世界では感じられない風に吹かれて、周囲に咲き乱れる魔界の花が火の粉を散らして揺れた。花はエルベティーナの体を空気か何かのようにすり抜け、まるで彼女の体から生え出ているかのように伸びていた。だがその炎がエルベティーナの肌を焼くことはなく、こちらから触れることもできないのだった。
 振り仰いだ先には異形の姿があった。緑に輝く鱗に覆われた堂々たる体躯、淡い赤紫の翼と耳を持つ魔物であった。その全身を覆う虹色のきらめきは、魔女の髪が放つそれにとてもよく似ていた。
「あなたは……?」
 最初の驚きが過ぎると、エルベティーナの心は不思議と落ち着き、鏡のように凪いだ。生まれて初めて目にする異界の生物であったが、恐怖や嫌悪はなく、むしろ懐かしさを覚えた。それは魔物が放つ虹色の輝きのせいであったかもしれない。
「私の名はキーラウ」
 魔界において名を名乗ることは、魂の本質をも相手にさらけ出し、委ねることを意味したが、魔物はそのような事情を悟らせることもなく名乗った。エルベティーナもまた、当然の礼儀として名乗り返した。
「私はエルベティーナです」
「エルベティーナ、お前の名は知っているよ。お前がロメリアのもとに来たその時から、ずっと。遥かな地下にあっても、お前の歌声は聞こえていた」
「キーラウ、先ほどから仰っているロメリアとはどなたのことですか?」
 するとキーラウはわずかに首を傾け、愛しむように目を細めた。
「ああ……お前は知らなくて当然だ。ロメリアの名はこちらの世界に置いていったものだから。今は、魔女と呼ばれているのだったか」
「奥様のお知り合いなのですか?」
「古い友人……いや、親子のようなものだと言っておこうか。仔細を語れば長くなるが、お前がロメリアにとって命をかけて守るほどの存在であるのと同様に、私にとってもロメリアは大切な存在なのだよ。そのロメリアが愛する者ならば、お前にも手を貸すだけの価値がある。それに私とて、みすみすあの子を失いたくはないのでね。このままでは、魂が離れた肉体は滅び、よりどころを失った魂は消えてしまう」
 エルベティーナは不穏な単語に震えた。祈るように両手を組み、必死の面持ちでキーラウに問いかけた。
「そんな! 奥様は一体、どうなってしまわれたのですか。お助けする方法はないのですか、キーラウ?」
 キーラウは短い言葉を幾つか的確に並べて、エルベティーナが不在の間に魔女の身に起きたことを語った。キーラウも魔女の魂を見失ってしまったのは、自分を公子から救うために脆くか弱い魂だけの状態でこちら側の世界に戻り、まじないを使った結果なのだと知って、エルベティーナは再び瞳を潤ませた。
「泣くのはまだ早い、エルベティーナ。今ならまだ間に合うかもしれない。お前に出来ることをするのだよ。私はそのために来たのだ」
「私に、何ができるでしょう?」
 ぐっと溢れかけた涙を拭い、エルベティーナは言った。
「ロメリアの魂を見つけ出すことが」
 打てば響くように、キーラウは答えた。
「私にはもはや、ロメリアの魂がどこに行ってしまったのか知ることはできないし、探し出すためには重なりあう全ての世界を巡らなければならないだろう。だが、ロメリアが命をかけて守ろうとしたお前――その薔薇を持つお前ならば、魂を結ぶ絆がある。薔薇にロメリアの意思、力のひとかけらなりとも残ってさえいれば、或いは見つけ出すことができるかもしれない」
「では参ります。奥様を探しに、あなたの世界へ」
 きっぱりと答えたエルベティーナの前に、キーラウは跪いて視線を合わせた。
「勇敢な娘よ、一つだけ言っておかねばならないが、私にできることは、お前のために入口を作ってやることだけだ。一人で異界を往くことになる。ロメリアを見出せなければ、お前は戻れぬかもしれない。それでもできるか?」
「できます」
 エルベティーナは間髪入れずに頷いた。その決然とした目に、キーラウはそれ以上言葉を重ねることは無意味と判断したようだった。
「ならば行くがいい。その薔薇を決して手放してはいけないぞ」
「はい」
 手に持っていた薔薇を再び胸元に挿し、エルベティーナは言われるままにキーラウの目を見つめた。
 キーラウの瞳孔を持たない黒曜石にも似た深い黒紫の目がエルベティーナの視線を捉え、魂をも映し出す黒い鏡のような眼球におのれの顔が映り込んでいるのをエルベティーナは見た。そこでは全てが彼の瞳の色に染まり、黄金の色をしているはずの自分の瞳もまた、黒々と濡れて見えた。
 金縛りに遭ったように魔物の目を見つめるうちに、紫がかった闇が部屋全体に広がり、やがて見つめていたはずのキーラウも、その目に映る自分も見えなくなった。肉体の感覚すらあいまいになる――と思った時、視界の全てが黒に閉ざされた。
 夢は唐突に始まった。
 ふと気付くと、周囲の光景は一変していた。しばし重なり合って存在していた別世界の花畑はもちろん、部屋を囲むように並んでいた棚、まじないの道具や家具といったものも消え失せ、残っているのは力の中心――床に描かれていた五芒星だけだった。部屋それ自体も変化していて、様々なものが置かれているにしろ広かったはずの室内は狭まり、五芒星の頂点を結んだ五角形に沿うように壁が迫っていた。
 見回せば五辺のそれぞれにはガラスのはまっていない細長い窓があり、形も実体もない霞に覆われた異世界の闇を四角く切り取っている。以前読んだ神秘学の古文書に出てきた、この世の最初に満ちていた混沌たる闇のようだとエルベティーナは思った。
 変化に対する戸惑いはなかった。最初はおぼろげに、そのうちに静かな確信をもって、自分のいる場所が現実の世界ではない――或いは、別の現実であるのだということが解りはじめた。
 目を室内に再び転じると、奥様が倒れていたはずの場所には誰もおらず、代わりに小さくて黒い、折り畳んだ紙片のようなものが五芒星の中央でちらちらと瞬いていた。近づいてみると、それは掌に載るほどの大きさの蝶だった。後ろ羽の一部がすらりと伸びた形の、木の葉に似た翅脈だけでできた繊細な漆黒の翅を持ったこの蝶もまた、部屋と同様に現実のものではないということがエルベティーナにはすぐ悟られた。
 見守るうちに、蝶に変化が現れた。はたはたと翅を開閉させたかと思うと、見る間にまるで染め変えたように翅が黒から銀色へと変化したのだ。同時に翅が淡く輝きはじめる。銀の透かし細工のような姿となった蝶は、虹色に輝く光の粒をまき散らしながら、ひらりと舞い上がると吸い寄せられるように窓の一つから外へと出ていった。
 エルベティーナは蝶を追って窓へと歩み寄り、外を覗いてみた。室内と同様、外も驚くべき変化を遂げていた。屋敷の地下であったはずの部屋は、この世界では空の高みとなり、部屋は高い塔の頂となっていたのだった。壁は恐ろしいほど真っ直ぐに切り立っており、底無しに続いているように見えた。塔は下へ行くほど細くなって、最後にはまるで針のように細く頼りなく、渦巻き漂う霧の中に消えていくように見えた。
 その闇の中へ、虹色の光をこぼしながら蝶がまるで銀の木の葉のように舞い降りていく。その一匹だけではなかった。霧の海を見下ろすエルベティーナの頬をかすめるようにして、もう一匹、また一匹と銀の蝶たちがひらひらと舞い落ちていく。
 どこから蝶が現れているのかと疑問に思って室内を振り返ってみると、五芒星の真ん中に満ちる暗黒の虚無から、まるで影がうごめくように、どこからともなく蝶が生み出されているのだった。最初の蝶と同様に漆黒の翅を備えた蝶は、黒大理石の闇から湧き出すように現れると五芒星から飛び立ち、部屋を横切るうちに銀へと染まり、虹色のきらめきをまとって外へ――塔の下の闇へと消えていく。
 蝶を追いかけねばならない、とエルベティーナは根拠もなく本能のように強く思った。
 蝶の行く先を見定めようとして、闇の深淵をさらに覗きこんだ拍子に、胸元に辛うじて引っ掛かっているだけだった魔法の薔薇がはらりと落ちた。あ、と小さな声を上げて、エルベティーナは咄嗟に手を伸ばした。キーラウも口にしたように、彼女に残された自分と奥様をつなぐ最後にして唯一の手掛かりがそれだったからだ。
 だが指先をかすめることもなく、薔薇は闇に吸い込まれてたちまち小さくなっていった。エルベティーナが窓から身を乗り出したその時、背中に流れていた髪がリボンのようにほどけて肩越しにあふれ、黄金の滝にも似てきらめきながらこぼれ落ちていった。下へ、下へと留まることなく、遥か眼下の深淵に向かって。
 エルベティーナは驚異に満たされた。だがそこには戸惑いも疑問もなかった。髪が黄金の川となって流れ出し、重力に従って落ちてゆくままに伸びてゆくさまはいかにも自然で当たり前のことのように思えた。それがいつしか撚り合わさり、黄金の綱と化したことも、ここでは自然の成り行きなのだと思われた。
 黄金の髪の行く先を目で追ううちに、彼女の目だけが――視覚と意識が体から抜け出すような、透明で、空気でできた自分自身が、塔から飛び出すような気がした。
 まるで自分も銀の蝶の一羽となったかのように、エルベティーナは金の滝の流れに身を任せて、渦巻く霧を抜け、下へ下へと降りていった。
 闇を切り裂く稲妻にも似て流れてゆく黄金の滝と、虹色の光をまとう銀色の滝。その二つの流れの終点がようやく見えてきた。塔の底部だった。しかしエルベティーナが後にしてきた世界の常識、物理法則に従えば大地に接しているはずの場所には塔を支えるべき土台は存在しなかった。すっぱりと切断されたかのように塔が途切れた先にも、永遠を思わせて広がり続けている闇そのものが、堅固な礎となって塔を支えているようであった。周囲には地平線すらも見えず、原初の闇が果てもなく広がるばかりだった。
 先に舞い降りていた蝶の群れがちらちらと戯れながら消えていくそこにエルベティーナがたどり着いた途端、くるりと世界が反転した。蝶と共に飛び立った、今やはるか彼方となった窓を振り返れば、先ほどまでは見上げていたものを見下ろすことになった。塔は霧を貫いて奈落から天を仰ぐ一本の五角柱のように見えた。もしも塔全体を見渡すことができたなら、さながらそれは闇に浮かぶ棒のように見えたことだろう。
 黄金の滝は白金の噴水となり、震える一本の糸となって上空へと噴き上げていた。その先では、もはや霧の彼方となって目には見えないが、エルベティーナの肉体が窓から身を乗り出しているはずだった。さやさやと揺れる髪の先端に落としてしまった薔薇が絶妙なバランスでもって載っているのを見つけて、エルベティーナは腕を伸ばしてそれを取り、再び胸元に挿した。
 やがてエルベティーナは蝶たちと共に塔の先端部に辿り着いた。塔の底部、或いは頂上部は、後にしてきた場所を鏡に映したように、全く同じ形をしていた。ここにもやはり五角形の面のそれぞれに細長い窓があり、蝶たちは時を巻き戻したように次々に中に入り込んでいく。エルベティーナも蝶たちに続いて部屋に飛び込んだ。
 もといた部屋の床が黒大理石で作られていたのと対照的に、磨き上げられたように滑らかな白大理石の一枚岩で作られた底面が光もないのに鮮やかに浮かび上がっていた。ただしほぼ中央にあるものは、魔法陣ではなく室内と同じ白大理石でできた石櫃だった。その他には何もない。
 傍らを舞っていた蝶たちがひらひらと中央の石櫃へと群れ集っていく。エルベティーナはそれを追っていき、蓋のない櫃の中を覗き込んだ。するとそこには、新雪を思わせる白の中、闇と紛う黒に身を包んだ一人の女が横たわっていた。
「奥様!」
 エルベティーナは思わず声を上げた。神に捧げられた生贄めいた姿勢も、青ざめた白い肌も、闇をまとうような黒いドレスも、屋敷の中で見たままの姿だった。ただ一つ違うのは、その髪から色が全て抜け落ちていたことであった。
 それは純粋無垢な白というよりも、透明感を帯びた白銀の色であった。絹の褥のように広がるしろがねの髪と肌の抜けるような白さが相まって、目を閉じて横たわる魔女の姿はまるで雪花石膏でできた精巧な彫像のように見えた。
「奥様、どうか目を開けてください」
 祈るような気持ちでエルベティーナは囁き、魔女の頬に手を触れた。その体は、冷たくはなかったが温かくもなかった。死んでいるのか生きているのかも判らない。何度か呼びかけたが反応はなく、この世界に入り込む前と事態は何も変わらなかった。
「奥様は確かにここにいらっしゃるのに、どうして……」
 途方に暮れていたエルベティーナは、薔薇に力あるいは意思のかけらが残っていれば、二人を繋ぐ魂の絆によって魔女を見つけられるだろうというキーラウの言葉を思い出した。そしてふと思い立って、魔女の髪と同様に真っ白に色褪せて枯れたそれを、胸元に捧げるように置いた。
 はじめ、薔薇あるいは魔女自体に変化は見られなかった。だがやがて周囲にさざめいていた蝶の動きが変わった。エルベティーナに戯れかかるように頭や肩の周りを群れていた蝶は、ちらちらと羽を煌めかせながら次第に飛ぶ高さを落としてゆき、その中の一羽が、飛び疲れたように魔女の唇に舞い降りた。
 止まるために立てた翅をもう一度開いたと見るや、まるで砂の彫刻がさらさらと風に吹き散らされるように、たちまち蝶は光の粒を放ちながら消え失せた。蝶が光と消えた後には何も残らなかったが、全ての色を失ったため硝子の糸にも似た魔女の髪にほんの少しだけ虹色の輝きが戻ったような気がした。
 それをきっかけにしたように、蝶は次から次へと降り立ち、翅を開いては消えていった。そのたびに七色の光が弾け、魔女に降り注いだ。そして蝶が一羽消えるごとに、蝶が宿していた色と光は魔女の髪に吸い込まれていくのだった。驚きに包まれながらエルベティーナが見守るうちに白銀の髪は元通りの輝きを取り戻し、最後の蝶から生み出された光が静かに、染み透るように消えていった。
 すると絹のような睫毛を震わせ、魔女は目を開いた。エルベティーナが愛してやまない淡い紫みを帯びた青、儚いほどに薄い青の瞳であった。その瞳にエルベティーナを映し、魔女は不思議そうに尋ねた。
「……どうして、お前がここに?」
 エルベティーナは微笑んだ。
「奥様を探しに来たのです。キーラウが私に、道を開いてくれました」
「キーラウが、お前に名乗って?」
 感じ入ったように魔女は呟いた。それから彼女はゆったりとした動作で起き上がった。体の下に広がっていた髪が光を弾きながら流れてケープのように彼女の肩と背中を覆い、白と黒の絶妙な対比を作りだしていた。
「どうして奥様がこのような暗くて寂しい所に飛ばされてしまったのか、その理由も聞きました。全ては私のためだったのですね」
 地下室の床に倒れた魔女を見つけた時の絶望を思い出して表情を曇らせたエルベティーナに、魔女は愛しさにたえないといった風情で微笑みかけた。
「お前が気に病むことではないよ、エルベティーナ。わたくしの使うまじないは、言葉を力とし、誓約によってその力を引き出すもの。それゆえに一度口に出したならば自らの言葉を裏切ることはできない。ましてお前はわたくしの愛しい娘。ならば命をかけても守るのは当然のこと。それだけのことなのだから」
「それでも、私があの宴に行きさえしなければ、奥様が屋敷でお一人になることも、私のために無理をなさることもありませんでした。こんなことにはならなかったはずです」
「過ぎたことを、あの時ああすれば、こうすればと考えるのはおよし。何を言ったところで詮無いことさ」
 衣擦れの音をさせながら、魔女は立ち上がった。踊るような足取りで、エルベティーナの髪が揺らいでいる切り立った五角形の縁へと歩いていく。エルベティーナはそれに従った。自然の法則に逆らって、細く柔らかな髪が下から上へと噴き上がっているのは、何度見ても奇妙な光景だった。
「おやまあ。意識だけが抜け出してくるなんて、難しいことをやってのけたのだね、エルベティーナ」
 魔女は笑って、はるか上空から垂れ下がる――或いは奈落の底から噴き上がる黄金の髪綱に触れた。すると髪は生き物のように捩じれ、絹の梯子になった。
「さあ、お前はこれを辿って戻るといい」
 魔女はエルベティーナに場所を譲って言った。エルベティーナは窓辺に歩み寄り、梯子と化した髪に腕を伸ばしたが、触れる直前にはたと何かに気づいたように手を止めた。
「奥様はどうなさるのですか? 私と一緒に戻って下さらないのですか」
「もちろん、わたくしも戻るよ。けれど今すぐに元の世界に戻るのは無理だ。わたくしの魂を肉体に繋ぐ糸はお前が再び結び合わせてくれたけれども、お前は魂のほとんどをこの塔の反対側に置いてきてしまっているからね。まずはそちらに戻ってからだよ」
 自分の魂が体を抜け出してこの世界に来ていたのだとは夢にも思っていなかったエルベティーナは驚きで目を見開き、思わず体のあちこちを確認するように見てしまった。
「どうやら、キーラウはお前にそこまでは説明しなかったようだね。自分の意思と力で来るにしても、他人が送り込むにしても、異界の境を超えるのは体ごとよりも魂だけの方がずっと容易いのだよ。それに、肉体の枷を解き放たれた魂だけの方がこの世界では自由に動き回れるしね。ちょうど、今のお前のように」
「そういうものなのですか」
 エルベティーナは感に堪えないようにため息をつき、呟いた。
「お喋りはこの程度にしようか。お前には初めてのことばかりだし、ここは原初の力が濃く満ちる場所。慣れぬ者にとって長居に向かない場所だから」
「はい」
 その言葉に素直に従ってエルベティーナは窓から身を乗り出し、黄金の綱を掴んだ。蝶たちと共に降りた時と同様、体が窓をすり抜けて空中に出ていっても急激に落下することはなく、エルベティーナ自身が一頭の蝶になったかのように、ごく軽い羽毛が風に舞うようにふわふわと漂った。
 と、世界が再び反転し、エルベティーナはいつのまにか遥か上方から垂れ下がる梯子を握り締めて虚空にぶら下がっていた。しかしそれは一瞬のことで、乾いた紙を炎の舌が一気に舐めつくすのに似て、髪は金色に眩く輝きながらみるみるうちに縮みはじめ、伸び出した時と全く逆の経過を辿った。そこに掴まったエルベティーナも、まるで飛ぶように上へ上へと引き上げられていく。
 やがてぼんやりとした白い点のように見えていた自分の姿がはっきりと捉えられる距離まで来た。置き去りにしてしまった精神の抜けがらは微動だにせずそこにあった。髪が元の長さに戻っていくことによって引き上げてゆく力に、吸い寄せるような別の引力が加わったように感じた次の瞬間、霊的視界は途切れ、エルベティーナは窓から身を乗り出して、虚無の暗黒にきらめきながら流れ落ち揺らいでいる自分の髪を見下ろしていた。
 分かれていた魂が一つに戻ったのだと、エルベティーナは直感した。
 もはや身を乗り出してみても髪がどこまでも伸びてゆくことはなく、そして髪は恐らくあの時ほど金色でもなかった。後方を振り返れば、蝶たちが生まれ出てきた闇を抱く五芒星が変わらぬ形でそこにあった。
 だが、一つだけ変化の起きた部分があった。銀の蝶が放っていたのと同じ淡々とした七色の光がいつのまにかエルベティーナの髪にも宿り、光背のように彼女を包んでいたのだ。エルベティーナは髪の一房をそっとすくい取り、しげしげと見つめた。内側から溢れ出るようなその輝きは、魔女の髪のそれと同じであった。
「それは、この世界に生きることのできる者の証。お前がわたくしと同じ力を得たことのしるしだよ」
 心中の問いに答えた声は、湧き出すように現れた無彩色の人影から発されたものだった。全く突然であったがエルベティーナは驚きもせず、またいつ、どのようにしてここに来たのか疑問に思わなかった。不意に、閉ざされていた視界が開けるように、エルベティーナは己の中に在る力がいかなるものであるのかを理解した。
 そしてこの世界がこれまでいかに在ったか、いかにこれからも在るのか、永久不変であると同時に、常に変わり続けるその理が解った。その世界に於いて、自らがいかように在り得るのかも。
「行こう、エルベティーナ」
「参りましょう、ロメリア」
 魔女はふっと微笑み、手を差し伸べた。エルベティーナも微笑みを返して、温かく優しいその手を取った。




 かくて、町はずれの森の中に幻のように佇む白い屋敷から、黒い魔女と金の少女は姿を消した。けれどそこには今も魔女が住んでいる。
 それは白銀の魔女と黄金の魔女なのだと、人々は噂した。


【黄金の綱・終】
(2012.7.20up)

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