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黄金の綱 8



 公子に押し切られ、宮殿で一夜を明かすことになったエルベティーナは、メイドが着替えなどを手伝おうとするのを丁重に断って下がらせ、扉を閉めると肺の中の空気を全て絞り出すかのような深いため息をついた。
 パーティーは主役の退場をもってお開きとなり、遠方から来たので今夜は泊っていく者を除いた招待客たちは続々と宮殿を去り、町なかのお祭り騒ぎも夜半過ぎから次第に落ち着いてきつつあったので、建物の中からも外からも喧騒はもうほとんど聞こえず、室内はとても静かだった。
 初めてのこと、慣れないことばかりですっかり疲れ果てていたので、エルベティーナは一休みしようと腰掛けたベッドにそのままぱたりと身を倒した。目を閉じるとそのまま眠ってしまいそうになったが、彼女は気力を振り絞って起き上がり、装飾品を外してチェストの上に置いてある天鵞絨で内側が張られた寄木細工の小物入れにしまい、ドレスを脱いで客人のために用意されていた夜着に着替えた。
 しっかりと結い上げられた髪はピンを一本一本抜いていくうちに緩み、わずかなピンでは支えきれなくなった所でほどけて背中に流れ落ちた。ほどけた髪からピンを探して全て抜き取るのには少し手間がかかったが、エルベティーナは長い髪を梳りながら丁寧にその作業を行った。
 全てのピンを外し終わると、髪に巻きつけられていた真珠とひとまとめにして装飾品を入れたのと同じ箱の中に片付けた。最後に手に取ったのは、魔女が手ずから摘んで挿してくれた薔薇の枝であった。
 魔力を吹き込まれた薔薇は、摘まれてから何時間も経つというのに全く萎れる気配を見せず、咲き立てのような瑞々しさを保っていた。室内には目にもあやな花々がたっぷりと活けられた花瓶が置かれていたが、そこに薔薇を加えるのはなぜかためらわれた。しばらく考えてから、エルベティーナは薔薇を夜着の胸元に挿した。
 疲れていたせいもあって、眠りはすぐに訪れた。
 それからどれほどの時が過ぎたのかは判らない。室内の暗さは眠りに落ちる前とほとんど変わらなかったので、或いはほとんど時間は経っていなかったかもしれない。髪に何かが触れた違和感に、エルベティーナの意識は眠りの淵から一気に引き上げられた。
 ぱちりと目を開けると、眼前には闇そのもののような影が蠢いていた。周囲の薄暗がりに目が慣れ、その影が人の形をしていると目で見て判るよりも早く、覆いかぶさってきた重みと温度、吐息といったものでそれが人間なのだと気づいた。
 驚きに事態を全く飲み込めず、硬直してしまったエルベティーナであったが、何とか事を理解しようと必死に頭を働かせた。すでに、相手が公子であることは判っていた。だが彼女には、公子が何をしようとしているのか、自分が何をされようとしているのか、全く判らなかった。
 エルベティーナが混乱と当惑から動けずにいるのを、公子の方は都合よく解釈した。ベッドの上掛けを剥ぎ取り、エルベティーナのまとっている夜着の裾を捲り上げるべく、スカートの布を掴む。そこでようやくエルベティーナは、理解はまだ及ばないながらも、何かしらの危険が身に迫っているのだと気づいた。
「何をなさるのですか」
 エルベティーナは上顎に貼りついたようになっていた舌を引きはがし、かすれた声で尋ねた。理解できないものへの恐怖や、自由を奪われかけていることへの恐怖とで頭はいっぱいだった。一方、震える彼女の怯えた瞳に征服欲をそそられた公子は、その無垢さを喜んだ。誰にも触れられたことのない黄金の花をこの手で手折るのだという残酷な興奮に浮き立ちながら。
「君を愛しているんだ、エルベティーナ」
 公子は熱っぽい口調で言い、本能的に身を縮こまらせようとするエルベティーナの体を押さえこみ、乱れた裾から手を差し入れた。絹のように滑らかな肌が公子の掌に触れた。すると、ひっと引きつった悲鳴のような音がエルベティーナの喉から漏れた。その接触は、全身を支配する恐怖を塗りつぶすほどの不快感を彼女にもたらした。
「やめて!」
 それはエルベティーナにとって生まれて初めての、そして心からの拒絶だった。しかし彼女の抵抗は男の嗜虐心を煽っただけだった。公子の体を押し戻そうと突っ張った腕は逆に捕らえられ、両手を束ねるように掴まれて頭上に縫いとめられてしまった。手首に指が食い込む痛みに、エルベティーナは眉を寄せた。
 彼女の拒絶や苦悶の表情には一切構わず、公子は己の欲望を満たすことだけに集中した。少女の抵抗など、鍛えた男の腕力の前でははかなく、楽しみに興を添えるちょっとした障害にしかならなかった。
 公子から逃れようともがいたのと、公子が肌に触れようとしたせいで夜着の裾が乱れて膝の上まで捲れ上がり、すらりとした華奢な脚が露わになっていた。薄闇に沈むシーツの上で、淡く発光するかと思われるほど白い肌だった。公子はごくりと唾を飲み、夜着の胸元に手をかけた。
 その動きを反射的に目で追ったエルベティーナは、公子の手に払い落されそうになっている青薔薇の存在を思い出した。それを与えた時、魔女が約束してくれたことも。
「助けて、奥様!」
 薔薇に向かってエルベティーナは叫んだ。薔薇の意味を知らず、また魔女は異国の魔法使いに殺されたものと信じて疑わない公子はせせら笑った。
「無駄なことだ。君の『奥様』は来やしない。諦めて、僕のものになるんだ」
「そんなことはありません」
 恐怖に怯え、不快感に震えながら、エルベティーナは思いのほか強い口調で反駁した。
「奥様はきっと、必ず助けてくださいます。そう約束して下さったのですから」
「では、そう信じているがいいさ」
 公子は呆れたように言い、掴んだままだった夜着の襟を力任せに開こうとした。だがその瞬間、彼の手は何かによって激しく打ち据えられ、体ごと後方へと弾き飛ばされた。目を瞠るエルベティーナの前で、その何か――青い薔薇が虹色の光を放ち、彼女を守るように一瞬のうちに枝を網のように伸ばして張り巡らせ、棘の繭を作り上げた。
 驚いたのはエルベティーナだけではない。もはや完全にエルベティーナを魔女から引き離し、手に入れたと思い込んでいた公子もである。寝台から転げ落ちた彼が目にしたのは、寝台の足元に佇む、闇夜を切り抜いたような漆黒に身を包み、同じ色の髪には虹色のきらめきを宿した若い女の姿だった。
「初めまして、公子殿。私の娘をずいぶんと歓迎してくれたね」
 瞳に紫の炎を宿しながら、黒い魔女はぞっとするほど冷たい声で公子に話しかけ、唇を三日月の形に吊り上げた。
「おや、まるで幽霊を見たような顔をしておいでだね。わたくしが現れたのが、そんなに意外だったかい? この子は言ったはずだよ。わたくしが必ず助けに来ると」
「そんな……そんな、馬鹿な……」
 うわ言のように呟く公子に、魔女はこの上なく冷たい一瞥を投げた。
「まじないで人を害するのはわたくしの好むところではないが、お前をこのまま見逃しては、いつまた同じことが起こるとも限らない。傲慢な公子、お前にはその愚かさにふさわしい罰を与えてやろう」
 そう言って、魔女は踊りの所作を思わせる優雅な動きで腕を公子に向かって真っ直ぐに上げ、虚空を指で弾いた。と、彼女の指先から青白い光がほとばしり、何の構えも取っていなかった公子の目を射た。公子は短い呻き声を上げて咄嗟に目を抑えたが、光の速さに敵うはずもなく、動きは完全に出遅れた。
「な、何をした!」
 眩しさに目がくらみ、視界を一時的に奪われた公子は魔女がいるだろう場所に顔を向けて喚いた。対する魔女は冷ややかな声で応じた。
「安心おし、一時的なものだ。すぐに癒える。その時には、お前の目には妻となる娘しか映らなくなっているだろうよ」
 冷厳に告げてから、魔女はエルベティーナを振り返り、薔薇の棘の隙間越しに微笑みかけた。
「では、わたくしたちは帰ろうか」
 魔女の微笑はエルベティーナがそれまで感じていた恐怖や混乱を拭ったように消し去った。驚きは既になく――魔女自身が、いつ、どこにいても助けると約束したのだ。エルベティーナが助けを求めたのだから、彼女がここに現れたのは不思議でも何でもなかった――エルベティーナは一転して心からの喜びを込めて応えた。
「はい、奥様」
「待て! 誰か、誰かおらんのか! 曲者だ!」
 手痛いしっぺ返しを食らったというのに、このままでは目的を遂げるどころかエルベティーナに逃げられてしまうと知った公子は慌てて人を呼んだ。だが彼自身が周囲に人払いを掛けていたため、その声を聞いて駆けつけてくる者はいなかった。
 公子は向こう見ずにも、直前に見ていた光景と声のする方向からおおよその見当をつけて、魔女に掴みかかろうと両手を前に突き出して立ちあがった。しかし彼の手は何も触れず虚しく空を切っただけだった。もはや、耳を澄ませてみても公子自身の荒い息遣いしか聞こえず、ほのかに甘い薔薇の香りだけを残して二人の女の気配は消え失せていた。
 エルベティーナには、それは瞬きする間ほどのほんの短い時間にしか思えなかった。ふわりと体全体が風に持ち上げられたような感じがして、気づけば彼女はたった数時間ぶりなのにひどく懐かしい思いがする屋敷の自室にいた。カーテンを開け放った室内には月と星の銀色の光が流れ込み、周りをほのかに青みがかった光彩で満たしていた。
 その中に、エルベティーナは独りだった。彼女を守った棘の繭はいつのまにか消えて、薔薇はもとの一枝に戻って胸元にあった。無事に帰ってこられたのだという安堵で全身の力が抜けそうになりながらも、エルベティーナは薔薇を手にとり、魔女への感謝を込めてその花びらに口付けしようとした。
 だが薔薇を唇に近づけた瞬間、異変が起きた。
 魔女の瞳の色――至上の青を写し取っていたはずの薔薇は、彼女の手の中でみるみるうちに色を失い、紙で作った造花のようになってしまった。水気をたっぷりと含んでビロードにも似ていた手触りすらも失われ、まるで何日もかけて干したかのようにかさついた感触へと変わっていった。
「一体、奥様に何が……」
 そういえば、魔女の力を使って共に屋敷に戻ったはずだったのに、魔女の姿はどこにもなかった。「奥様の助けは来ない」と自信たっぷりに言っていた公子のことと、急に枯れ萎んでしまった薔薇のこととを考えて、エルベティーナは言い知れぬ不安に駆られた。
 この不安を解消するにはとにかく奥様に会い、その無事を確認するより他にないとエルベティーナは結論付け、枯れた薔薇を再び胸元に挿して立ち上がった。二人しか住んでいないのでいつも静かな邸内だったが、今夜はことのほか静寂の密度が濃い気がした。夜啼鳥や梟の鳴き声すらも聞こえてこない。手燭の明かりと月や星の光を頼りに廊下を進むエルベティーナの耳には、自分の足音より他に物音は何一つ聞こえなかった。
「奥様、どこにいらっしゃるのですか?」
 魔女が普段過ごしている書斎を手始めに、居間や演奏室、寝室などの心当たりを順番に巡っていったが、どの部屋も扉に鍵こそかかっていなかったが窓はきちんと閉められ、灯りもついておらず、主の不在を示していた。扉が開く全ての部屋を、倉庫に至るまでくまなく見て回ったが、やはり魔女の姿はなく、呼び掛けに応える声もなかった。
 足にまとわりつく疲労を囚人の鎖のように引きずりながら、エルベティーナはもう一度魔女の書斎に行ってみた。手燭の光を掲げながらゆっくりと室内を見回した時、先ほどは気づかなかった小さな変化を見つけた。隠し扉になっている可動式の壁が、わずかに開いたままになっていたのだ。
 それはとても奇妙なことだとエルベティーナには思えた。魔女がもしも半地下の部屋に向かったのなら壁は開かれたままになっているはずであるし、そこにいないなら壁はぴったりと閉ざされているはずだった。
 エルベティーナは最後の希望を胸に、壁の扉を開いてその中の闇へと足を踏み入れた。さほど段数のない階段の果てから、淡くぼんやりとした光が漏れていた。確かに、この下で明かりを点けた人物がいた――恐らくは今もいるのだと思うと、エルベティーナの歩みは自然と速まった。
「奥様!」
 駆け降りかねない勢いで階段を下り、エルベティーナは地下室を目指した。そしてたどり着いた先で目に飛び込んできた光景に、再び同じ言葉を発した。
「奥様!」
 ただしそれは、期待と喜びに満ちた一度目の呼びかけとは対照的に、驚愕と絶望に彩られた声だった。
 果たして、魔女はそこにいた。エルベティーナの全く予期していなかった姿で。
 様々な神秘学の象徴が描きこまれた五芒星の真ん中に、両腕をそれぞれ星の先端に合わせるように広げて、魔女は仰向けに倒れていた。長い髪はその褥のように床に広がっていたが、あの不可思議な虹色の輝きは褪せたように失われていた。
 きちんと立てられていたはずの四本の剣はばらばらの方向を指して倒れ、香炉の一つは誰かに蹴り飛ばされたのか、白い灰を雪のように撒き散らして部屋の片隅まで転がっていってしまっている。エルベティーナには想像もつかなかったが、何か恐ろしいことがここで起きたのだということを彼女は理解した。
「奥様、奥様! どうなさったのですか、目を開けてください!」
 エルベティーナは魔女のもとへと駆けより、傍らに膝をついた。目を閉じた魔女の顔はいつにも増して白く、硬く強張って、まるで石膏でできた仮面のようだった。触れた肌の冷たさに、エルベティーナは震えた。人の死を彼女はまだ目にしたことがなかったが、庭に舞い降りる小鳥たちや森の動物たちを通じて、それがどのようなものであるかは知っていた。そして今の魔女の状態はまさしく、彼女に死を連想させた。
「奥様……どうしてこのような……。まさか、私を助けて下さるために……?」
 体ばかりでなく声まで震わせながら、エルベティーナは答えの返らぬ問いを発した。


(2012.6.10up)

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