或いはもう一つの物語



 光も蒼ざめて憂鬱な昼下がり、彼は徒然に私に会いに来る。私は古寂びた博物館の一番奥――誰もかえりみない一室に展示された蝋人形。
 彼は若く、美しい若者だ。私を今まで見てきたどんな人間よりも。
 いつも礼儀正しく背筋を伸ばして歩き、私の前に立つ。色や形はその時々だけれど、仕立ても品もよい服を着て、緑色の瞳を優しい光で満たし、はにかむような微笑みを浮かべて私を見つめてくれる。
 切りつけるように寒い冬の日も、幸せそうに頬を赤らめて私の部屋に入ってくる彼は、まるで母親にたった一つの大事な宝物を見せに来た小さな子供のよう。
 私が彼に出会ったのはいつのことだったか、憶えていない。ただ、気がついた時には彼は私に魅せられたのか、足しげく訪れるようになり、私も彼が訪れるのを心待ちにするようになっていた。
 私のいる部屋に彼以外の人間が来たことはない。しかし、それまでにはずいぶん色々な人間の手を渡ってきたものだった。人々が私をかえりみなくなったのは、この博物館に収められてからのことだ。それはそれでいい。私は自分の姿を彼以外の人間に見せたくない。彼が部屋に入ってくる時は、何とも言えない気まずさと恥ずかしさで胸がいっぱいになるのを感じる。
 私は常にこの古ぼけた椅子に腰掛け、微笑みつづけている。このまま時が流れて彼が私を訪れなくなったとしても、私は変わらずこの姿をとどめていなければならない。それは少し悲しい事実だ。
 いったい、誰が私を造ったのだろう――。もうずっと昔のことで、その人が若かったのか、年老いていたのか、男であったのか、女であったのか、それすら憶えていないけれど――何かの強い思いがあったのだということだけ、おぼろげに憶えている。それが私を私たらしめたものだから。
 私は自分の姿を見たことがないけれど、人間の観点からすると私は美しい、稀代の名作ということになっているらしい。私自身は自分の姿がどうであろうと興味はない。けれどそのことが私と彼とを引き合わせたのであれば、それは喜ぶべきことなのだろう。
 ともかく、彼は週に二、三回私を訪れ、そして私は次の昼下がりまでこの部屋で時が過ぎるのを待たねばならない。
 彼に会えない日々がしばらく続いた。人間には仕事がある。忙しかったのだろう……。その時私は不思議な体験をした。人形が夢を見る、眠るなんて、そんなことがあるとは思っていなかった。
 夢の中でも私は相変わらず古ぼけた衣装を着ていたけれど、人間と同じように立ち、歩くことができた。永い間望んでいたこと。夢から醒めた時、私は初めて哀しみと言う感情の何たるかを知った。そして、なぜ私が造られたのか、解った気がした。
 きっと人間は永遠に変わらぬものを求めていたのだろう。時に対し老いることもなく、朽ちることもない不滅を。
 そしてある日、私は彼の夢を見た。彼は驚いていた。
「君が立てるなんて!」
 緑色の美しい――実際、彼が私の不滅を讃えるよりも、私は彼の命の輝きを讃えたい――汚れを知らぬ瞳が大きく見開かれ、栗色の髪が風もないのに揺れていた。彼も私の不滅に憧れているのだろうか。
 私は彼に語りかけていた。
「あなたが私を愛してくれるというなら、私のように在ることを望んでくれるなら、私は……」
 その後自分が何と言ったのか、憶えていない。私は何を言い、どんな表情をしたのだろう。彼は今まで見たこともないような切なげな顔を私に見せ、そして夢は途切れた。
 彼はその日の朝早く、私を訪れた。急いで来てくれたのだろう。彼は飽きもせずに私を見つめていた。もっとそうしていたいようだったけれど、彼はもぎ放すような様子で私から視線を外した。
 私は彼の現実の声を初めて聞いた。思っていたとおり、夢で聞いたのと同じ優しい声だった。
「君を愛している……永遠に、君だけを」
 彼が象牙の彫刻に恋をしたピグマリオンなら、私は蝋のガラテア。彼の声は部屋の中にかすかなこだまを残して消えていった。そして、その余韻がすっかり消え、もとの静寂が帰ってきた時。
 私は微笑み、立ちあがって彼の手を取った。
「私もあなたを愛しています」
 命を得てから見た彼は、前にも増して美しかった。彼の頬は薔薇色に上気していた。栗色の髪はつややかで、その緑の瞳はいつか私に飾られていた高貴な宝石のように澄みとおった色をしていた。
「あなたは、本当に私を望むのね……?」
 私はわけもなく悲しくなった。そして展示台の上から身を屈めて、目を伏せて彼のやわらかな頬に唇を押し当てた。
「君はガラテアだね」
「そうね……。だとしたら、あなたはピグマリオンだわ」
 彼は今にも泣き出しそうな、それでいて幸せそうな微笑みを浮かべていた。
「君は人間になったのかい?」
「そうよ」
 私は微笑みながら、自分が涙を流していることに気がついた。私の涙は暖かく、差し伸べられた彼の手に滴り落ちた。なぜ泣くの?
 象牙の彫刻に過ぎなかったガラテアに恋した哀れなピグマリオン。だが彼の虚しい愛――愚かな夢は叶えられたのではなかったか? 人間が人形を愛し、神はその愛を叶えて人形は人間になった。
 ではもしも、ガラテアの愛を神が聞き届けていたのならば、どうなっていたのだろう。人形が、人間を愛したなら――。ぼんやりと薄れていく意識の奥で、世界が崩れる音を聞いたような気がした。
 彼は私を力強く抱きしめた。その瞬間、あの時彼は私と同じ夢を見ていたのだ――私と彼は夢を共有していたのだという考えが稲妻のように私の脳裏をよぎった。
 何かを告げようと、彼の唇が動いた。でも、彼の唇はそれ以上開くことはなかった。なぜなら彼は――


 そこは古びた博物館の一番奥――ひと気のない廊下の突き当たり、誰もかえりみない幻の展示室。そこに飾られているのは、椅子に腰掛け、微笑みを浮かべた美しい蝋人形の青年。
 そこにあるものは永遠。
 青年を見つめていた、深紅のドレスをまとった少女はやがてゆっくりと踵を返した。
 蝋人形はその背中を、永遠に瞬くことのない瞳で見つめている。どこか寂しげなその緑色。立ち去ろうとする少女は、うっすらと満足げな微笑みを口元に浮かべた。
「あなたは、私になりたかったのでしょう……。私は、あなたになりたかった」
 その囁きに、応える声はなかった。


「或いはもう一つの物語」 終(2010/7/15up)

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