蝋人形の夢



 太陽も蒼ざめて退屈な昼下がり、僕は徒然に彼女に会いに行く。彼女は古さびた博物館の一番奥――誰もかえりみない一室に展示された一体の蝋人形だ。
 彼女はいつも、王朝風の椅子に、両手を膝にきちんと揃えて座っている。黄ばんだレースに飾られた色褪せた深紅の瀟洒なドレスを着て、蒼く澄んだ美しい瞳を濡れたような輝きで満たし、紅の剥げかかった唇を薄く開いて微笑みかけている。
 夏の昼下がりだというのに彼女の部屋だけはいつも薄暗くてひんやりとしている。埃っぽい空気に満たされた室内には彼女以外のものは存在しない。彼女の背面にあるすりガラスの窓。そこから部屋に満ちる薄明かりに彼女の金髪が黄金の粉を振りまいている時はまるでそこだけ時の流れが止まっているかのようだ。
 僕が彼女に出会ったのはいつのことだったのか、憶えていない。ただ、気が付いたら僕は彼女に魅せられ、その虜になっていた。そして、足しげく彼女のもとに通うようになったというわけだ。
 どういうわけか、この世にも稀な美しい蝋人形の部屋に、僕の他の人間がいたことがない。それはそれでいい。僕は彼女を他の人には見せたくないから。彼女も僕以外の人間に見られることを望んでいないかのような錯覚にとらわれる。
 僕はいつも彼女の部屋に入る時は、初めて父親の書斎に入った時のような気まずさと恥ずかしさで胸がいっぱいになるのを感じる。
 そして、そうやって人目を忍んで入った部屋に、彼女が薄く微笑んで首を傾けているのを見ると、妙に心が安らぐのだ。
 彼女の座っている椅子が置かれた展示台の横に、恐らくは製作者などの名前が書かれていたらしい、錆びついた真鍮のプレートが嵌めこまれているが、それはすでに摩耗して読めなくなっている。
 僕はそのことに安心する。彼女が誰かの被造物だとは考えたくないからだ。特にそれが僕よりも若く美しい蝋細工師だったりしたらもう耐えられない。僕としては、彼女がかくありたいと望んだから、この姿でいま僕の前にこうして座っているのだと、そう考えたい。
 僕と彼女は週に二、三回の密会を楽しむ。それから僕は次の昼下がりまで、彼女のいない、喧騒と苦痛に満ちた数日を送る。
 僕は二週間ほど、彼女に会うことができなかった。仕事の都合で隣町まで出かけていたのだ。その間、僕は彼女を何度も夢に見た。最後の夜に見た夢では、相変わらず古ぼけた衣装を着て、微笑みかけている彼女は椅子から立ち上がって薄明かりの中に毅然と佇んでいた。
 それは美しかった。
 彼女の金髪はこれまでにないほど見事に輝き、その白蝋の肌はなめらかに透き通り、僕は思わず見とれた。それは、形容のしがたい美しさだった。この瞬間、世界のありとあらゆる女性に捧げられていたどんな賛美の言葉も虚しく響いたに違いない。
「君が立てるなんて!」
 僕は声にならないような声で叫んだ。実際、それは心の中で叫ばれていたようだ。彼女は丁寧に薄紅色に彩られた唇を動かし、僕に告げた。
「あなたが私を愛してくれるというなら、私と共に在ることを望んでくれるなら、私もあなたと共に……」
 蒼い瞳が哀しげにきらめいた。僕は彼女の部屋のドアを開ける時の感情にも似た気持ちで胸がいっぱいになるのを感じ、そしてそのまま目が覚めた。
 僕はその日の始発で町に戻った。
 そしてその足で、古ぼけた博物館に行ったのだ。彼女が夢の中で告げた言葉は、最後の部分がかき消えていたが、それでも僕は構わなかった。彼女に逢えば何もかも思い出すだろう。
 僕はひと気のない廊下を進み、そっと左右を確かめてから彼女の部屋に身を滑り込ませた。彼女は相変わらず薄明のさなかに埃をきらめかせながら微笑んでいた。
 僕は飽きもせずに彼女を見つめていた。もっとそうしていたかったが、彼女の瞳がそれを許さなかった。
 僕は深呼吸し、一晩中考えて今やっとたどり着いた言葉を、僕の生涯の中でもっとも心をこめて口にした。
「君を愛している……永遠に、君だけを」
 僕が彫像に恋をしたピグマリオンなら、彼女は蝋のガラテア。僕の声は部屋の中に微かなこだまを残して消えていった。その余韻がすっかり消え、もとの静寂が部屋に満ちたその時。
 彼女は――あでやかに微笑み、立ち上がって僕の手を取った。
「私もあなたを愛しています」
 命を得た彼女は前にも増して美しかった。肌はさらに透き通って輝いていた。金色の髪はいまやそれ自体発光しているようだったし、その蒼い瞳はいつか見た海のように深く澄みとおっていた。
「私たちは永遠に二人よ。私もあなたを愛しているから」
 なのに彼女は何故か悲しげな顔をして言った。そして身を屈め、目を伏せて僕の頬に温かい唇を押し当てた。目の前に揺れる彼女の金色の髪を見つめ、僕はそっとそこに指を滑らせて呟いた。
「君はガラテアだね」
「そうね……だとしたら、あなたはピグマリオンね」
「君は人間になったのかい?」
「いいえ、これはあなたの夢」
 彼女は微笑みながら、快晴の空の色を映した蒼い瞳を潤ませた。そこからこぼれ落ちた涙はまるで真珠のようだった。なぜ泣くの?
 象牙の彫刻に過ぎなかったガラテアに恋した、哀れなピグマリオン。だが彼の虚しい愛は――愚かな夢は叶えられたのではなかったか? 人間のピグマリオンが愛したから、ガラテアは人間になった。
 では、人形のガラテアがピグマリオンを愛したら――? ガラテアの願いを神が聞き入れたのだとしたら、どうなっただろう。ぼんやりとかすんでいく意識のどこかで、世界が崩れていく音を聞いたような気がした。
 僕は腕を上げ、彼女を強く抱きしめた。その瞬間、彼女が夢で告げた言葉の意味を悟ったからだ。
 だが、永遠の愛を彼女も誓ってくれたのだから、僕は彼女を信じた。そして僕の意識は急速に形を失い、夢へと溶け崩れていった――


 そこは古さびた博物館の一番奥――ひと気のない廊下の突き当たり、誰もかえりみない幻の展示室。
 美しい蝋人形の少女の顔は、愛することを知った喜びに輝き、彼女を愛しげに、その永遠に離れることのない腕に抱く蝋人形の青年はどこか寂しげに、しかし愛する者を手に入れた喜びに顔をほころばせたまま――
 永遠の静寂と氷結した刻の中を、今も二人は過ごしている。


「蝋人形の夢」 終(2010/7/15up)

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