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九月十三日 日曜日
 失恋をした。
 そうなるような予感はあった。
 今日は朝からデートだった。
 いつも通り、優子の自宅近くの駅で待ち合わせて電車に乗った。前から観たいと彼女が言っていた映画を観て、それで午前が終わった。
 でも優子は映画の間じゅう、落ち着かない様子でスクリーンと僕の顔を交互に見ては俯いたりしていた。
 それで、今日は何かあるなと思ったのだ。
 別れを切り出してきたのは優子の方だ。
 予感がしていなかったら僕はもっと取り乱していたかもしれなかった。
「圭介って、いつもわたしを通り越してもっと遠いところを見てる。わたしにはそれが我慢できない」
 そんなことを優子は言った。
 僕は優子を通り越して何かを見てるなんてことはないと思っていたのだけれど、彼女の主観と僕の主観は食い違っていたようだ。
 でも優子が望んでいたように、優子一人を世界の中心に据えられる程には入れ込んでいなかったのは事実で、そればかりは否定のしようがない。
 結局のところ優子にはすでに新しい恋人ができてしまっていたらしい。それこそ、優子だけを見て優子だけを世界にしているような。
 僕はいつだって比較の対象にされ、そしていつだって選択外になる。
 今度こそ、上手くやっていけると思っていたのに。
 考えると悲しくなってくる。
 ひとには負け惜しみみたいに聞こえるだろうが、僕が惚れて付き合ってくれと頼んだわけじゃないのに。
 まあ何となく気に入ってはいたけど。
 悲しみに鈍感になることはできるけれど、慣れることなどできないのだろう。
 そんなわけで、虫を飼いたくなった。
 僕は辛いことがあると虫を育てる。
 虫なら何でもいいってわけじゃない。裏山に棲息している特定の虫だ。孵化して、成虫になるまでを観察するのがたまらなく楽しい。繁殖期じゃない時だったら、採ってきた餌を虫が食いつくすまで飼う。餌がなくなり、虫たちが羽化すると、僕の中の悲しみはきれいに消えている。
 それも一つのカタルシスなのだろう。父も母もいなくなった今では、僕の家には時おりそうして飼う虫以外誰もいない。虫たち以外同居人……いや、同居虫だろうか……はいない。
 だがそれも、飼っている間だけだ。それはすこし悲しい。
 しかしそのことにこそ、この虫を飼う行為の意味がある。
 僕はそう思っている。
九月十四日 月曜日
 何もする気が起きなくて、一日中ごろごろしていた。それでも腹だけは減る。食べたらまた寝てしまいそうな気がしたので空腹を我慢して目をつぶっていたが、耐えきれなくなった。
 昼を回った頃にしぶしぶ起きて台所に行ったが、素麺しかなかった。仕方がないから素麺を食べて、買い物に行った。
 昼下がりのスーパーというのはあまり好きじゃない。
 一番嫌いなのは、夕方閉店間際のスーパーだ。特に生鮮食品売り場。値下げ品を狙う主婦が悪いとは言わないが、彼女らの熱気にあてられてとても疲れる。
 買い物から帰って、またテレビを観ながらごろ寝をしていた。
 夕飯を作るのが面倒だったので、生まれて初めて宅配ピザを頼んでみた。小さい頃から出前と言えば寿司と決まっていたので結構ドキドキした。でも、ピザっていうのは一人で食べてもつまらないということを知った。
 あれはパーティーとかで大人数で食べるからおいしく感じるんであって、一人暮らしには向いてない。
九月十五日 火曜日
 朝から雨。
 昨日、庭の水やりを忘れたけれど、これで帳消しだろう。
 それにしても激しい雨だった。まるで台風が来たみたいだった。それも夕方には小やみになって、今はもう降っているのかいないのかわからない。
 今回も結局実行しなかったが、一回、台風の最中に傘をささず外に立ってみたい。そうすることにどうという意味もないが、そうしてずぶ濡れになったらきっと気持ちがいいだろうと思う。
 昨日一日落ち込んでいた反動からか、今日はだいぶ気が晴れた。雨が降ったからっていうのもある。激しい雨を見ていると、自分の中のもやもやした気持ちがみんな流れていってしまうような気がする。
 こういうのを「水に流す」というんだろう。
 虫を飼おうと思う。
九月十六日 水曜日
 物置から虫を育てるための専用の水槽を引きずり出してくるのはけっこう疲れた。ひと冬でずいぶん埃が溜まっていたから水洗いして、天日干しした。
 餌を採取するのは明日にして、今日は準備だけ。
 この準備がけっこう大変なのだ。毎回書いてるかもしれないが、何回書いても大変なものは大変なのだから仕方ない。毎回同じようにはいかないし。それはそれで面白いんだが。
 すごく腹の立つできごとがあったり、失恋とかしてよほど気分が落ち込まないと、餌を手に入れる動機ができない。
 それぐらい、面倒なのだ。
 餌さえ手に入れば、あとは放っておいてもいいのだけれど。
 準備だけで一日が終わってしまった。けれどもこの準備の大変さゆえに僕は虫を飼うのが好きだ。
 誰に判ってもらおうとも思わないが。
 明日は餌を手に入れて、裏山に卵を持っていそうなメスの虫を探しに行く。今は繁殖期だから、久々に卵から育てられそうだ。
 今から楽しみ。
九月十七日 木曜日
 今日は変な夢を見た。
 僕は何かに追いかけられていた。
 実際には乗ったこともないのに、馬に乗って逃げていた。
 でもその馬は腹が裂けていて、どういう原理なのかわからないが、内臓が落ちずにいて中の様子がよく見えた。
 あぶみを蹴ったら内臓が飛び出しそうなものだから、僕には掛け声をかけることしかできない。
 馬は緩慢な動作で動く。自分で走った方がよっぽど早いんじゃないかと思う程だ。
 そうこうしてるうちに、馬は宙に浮いた。まさに夢のようだった。
 僕の足首を、追い掛けているやつが掴んだ。
 振り返ったら、それは優子だった。優子は仮面みたいな真っ白の顔で、無表情にじっと僕を見ていた。その目がガラスみたいに透明になっていて、いやに怖かった。
 夢のことはさておき。
 午前中は裏山に入って虫を探してくることで終わった。メスを二匹捕まえることか出来た。なんとも好調な滑り出しである。
 大変だったのは夜だ。
 餌を採ってくるのはけっこう疲れた。鉛筆を動かすのもおっくうなくらい疲れている。だけど労働の後の心地よい疲労だと思えば気分はいい。
 ちょっと予定外だったのは怪我をしてしまったこと。両腕に四本ずつ、ひっかき傷。皮膚が剥けて血がたくさん出た。
 まだずきずきする。
 今さらながら腹が立つな。餌の採取につきものの高揚感も台無しだ。
 ……だから邪魔される夢を見たのかもしれない。予知夢ってやつかな。
 餌を入れた水槽に虫を放してやると、米粒くらいの白い卵を餌の上に産みつけていった。卵が孵化する前に親虫が餌を食い荒らすといけないので、すまないことだったが用が済んだら早々に山の方へとお帰りいただいた。
九月十八日 金曜日
 卵は今日明日で孵化するものでもないので、日除けの網を水槽にかぶせておいて、久しぶりにCDショップへ出かけた。僕は別にインテリぶろうと思ってるわけじゃないが、ポップスよりはクラシックの方が好きだ。
 何でもいいってわけじゃなくて、たとえば右に倣えみたいにモーツァルトが好きっていうのもどうかと思う。
 そんなわけで今日は有名な曲が幾つか入ったコンセプトアルバムとかいうのを買ってみた。今聴いてる。
 曲自体は悪くない。「安らぎ」というコンセプトに沿っているのかどうかは判らないが、全体的に僕好みだ。ただ、五曲目と九曲目の、バイオリンの高音部が悲鳴みたいな音を出しているのが気になる。確認したら、どっちも同じ楽団だった。
 今度からこの楽団のは買わない。
九月十九日 土曜日
 朝っぱらから電話の音で叩き起こされてしまった。
 優子の母親からだった。一昨日から優子が帰らないが、僕のところにいないかと尋ねてきた。先週の日曜に僕は振られたのでその後のことは知りませんと答えた。
 そうしたら「あら、そうでしたの。存じ上げなくてすいません」ときた。
 すました嫌な女だ。
 優子も歳を取ったらあんな女になるんだろうか。
 腕の傷が痛む。
 ガーゼを取ってみたら、かさぶたができているところと、透明な汁が出てじゅくじゅくしているところとがあった。消毒したけれど、完全に膿んだら嫌だ。
九月二十日 日曜日
 夏休み最後の日曜日。
 かといって何かあったってわけでもない。
 優子の親も昨日電話をかけてきただけで、あとは何も言ってこなかった。


 今日は庭の手入れをした。
 今はコスモスが満開。黄色いコスモスというのがちょっと珍しいと思ったので種を買って撒いたのだが、本当に黄色い。
 コスモスサイズのひまわりかガーベラみたいな感じで可愛い。いくつか切って玄関に生けてみたら、急に家の中が明るくなったような気がした。
九月二十一日 月曜日
 虫が孵化した。
 今回は孵化の瞬間を見ることに初めて成功した。生まれてきた瞬間、思わず声を上げてしまったくらい感動した。教育番組とかの動物生態ドキュメントで、赤ちゃん動物の誕生を観てる時の気分だった。
 体長は五ミリにも満たないような白い半透明の生き物。
 かれらは生まれたとたんすごい勢いで餌を食べる。
 餌の表面をみしみしと音が聞こえてくるのではないとか思うほどの勢いで食い、穴を開けて潜り込んでいく。そして後には小さな黒い糞を残す。
 いつものことだがその様子は見ていて飽きない。あんまり夢中になって見ていたせいで、つい一限の講義をさぼってしまった。それに気づいたのは九時半で、いっそのこと全部自主休講してやろうかと思ったが、しょうがないから二限から出た。
 今日から後期の授業が始まったわけだが、その日に孵化したというのも何かの符丁のようで面白い。
九月二十二日 火曜日
 今日は二限から。
 前期にはそうとも思わなかったのだが、英語の藤川が気になる。いやに熱血した口調で、Rなんか巻き舌で発音するのがイライラする。LとRの発音が違うのは知ってるけど、英語に巻き舌なんかあったっけか。
 彼は今年の夏休みもイギリスのどこかに行ったと自慢していたが、なんであんな変な発音で現地で通じるのか不思議でならない。あいつよりは中学生の方がまだきれいな発音をしてると思う。
 それは言い過ぎか?
 まあ、何かの本で読んだが日本の英語教育っていうのは実地じゃ役に立たないってことらしいから、あいつは典型的な日本の英語教師なのだろう。


 虫の様子をさっき見てみたが、表面にいるやつはほとんどいない。時おり、餌の表面にうっすらと彼らの通った跡が浮きあがるのが面白い。
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