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九月二十三日 水曜日
 雨が降るのは夜からだと天気予報では言っていたのに、二時ごろから降り出した。おかげで帰宅したら取り込もうと思ってた洗濯物がすっかり濡れてしまった。むろん僕自身もだ。雨に思い切り打たれてみたいとは思うが、こういう不意打ちははっきりいって嫌いだ。
 虫たちはそんな外界にはお構いなしに餌を食べ、排泄して、育っている。
 悟りの境地とはきっとこんなのと変わりがないんだろう。
 どうやら台風が近づいているらしく、さっき見たニュースでは降雨量は百ミリ以上とか言っていた。
 風がすごい勢いで吹いていて、庭のビワの木ががさがさ言っている。
 あの木にはたくさん思い出がある。風で折れたりしなければいいのだが。
九月二十四日 木曜日
 雨はまだ降り続いているが、昨日ほどじゃない。台風の本体は夜のうちに海上に抜けたらしい。コスモスがだいぶなぎ倒されていたが、何も折れていなくて安心した。
 大学に行ったら、優子の新しい彼氏が僕に話しかけてきた。
 日によく焼けていて、いかにもスポーツが好きですって感じで、僕とは全くタイプが違う男だった。顔の系統だって違う。
 優子の好みがよく判らなくなった。
 とはいえさすが面食いだけあって、顔はけっこういい方だったと思う。いや、僕がいい男だなんて言うつもりはないが。
 どっちが告白したのか少し興味を惹かれたが、尋ねはしなかった。あまりにバカらしい質問だし、別れた女のその後を訊ねるなんてストーカーじゃあるまいし。
 その男は、親切にも優子がいまだ帰宅していないこと、両親が捜索願を出したということを教えてくれた。
 だけどそれが僕に何の関係があるというのだろう。
九月二十五日 金曜日
 いやに早起きをしてしまい、目が覚めたらまだ六時だった。
 また、変な夢を見た。
 サーカスの夢だ。
 僕は準備中のサーカスのテントにいて、一人で舞台を観ていた。
 サーカスのテントの中央、あれはリングというらしいが、そこに一つだけ点いたライトが当たっている。シルクハットにタキシード、裏地が赤い黒マントを着たいかにも怪しげなカイゼル髭の団長(なぜか団長だと思った)と、綱渡りとか空中ブランコをやってる感じの派手なレオタードを着た女がそこにいた。
 顔に見覚えがなかったけれど、団長の方は何かのマンガかコメディに出てくる悪役をそのまま人間にしてみたような顔だった。
 二人はイリュージョンマジックのリハーサルをしていた。サーカスでマジック?と思ったがそこは夢だからいいんだろう。
 さくらが箱の中に入って、それを切り離してもさくらはけろりとしてて、最後には五体満足で出てくるっていう、あれだ。
 黒字に毒々しい赤と黄色でトランプの模様が描いてある箱に、少年が前に両腕を突き出した格好で入れられていた。
 彼は典型的な東南アジア人の顔をしていた。多分、寝る前に見ていた「地雷と共に生きる」とかいうテレビ番組のせいだろう。彼は何とも悲しげな、人生を諦観したような顔をしていた。
 団長が、少年の腕があるところにぺらぺらの鋸みたいな刃を差し込んだ。僕には失敗してることが判っていた。それで、少年の腕が切れてしまったんだってことも判っていた。女もそのことに気づいたらしく手、箱から少年を出したが、彼の腕は今にももげそうになっている。
「絆創膏を貼っておけば大丈夫」
 そんな無責任なことを女は言って、絆創膏を一枚だけその腕に貼っていた。
 思ったとおり絆創膏はすぐに血でふやけて落ちてしまった。
 少年の腕も、そのうちぽろりと取れてしまった。
 血がたくさん出ていて、そのままじゃ死んでしまうんじゃないかと思った。カイゼル髭の団長とレオタードの女はいつの間にかいなくなっていて、リングの中央には両腕を切り落とされた少年がスポットライトを浴びてぽつんと立っていた。
 少年は無言のままで、悲しそうな顔でずっと観客席、僕を見ていた。
九月二十六日 土曜日
 幼虫が一回目の脱皮をした。現在の体長は大きいもので七ミリ程度。ほとんどが餌の内部に潜ってむさぼり食っているので、掘り出してみた。ピンセットでつまみ上げた幼虫はあまり機嫌がよくないようだった。
 まあ、誰だって食事中にそこから退かされたら気分が悪いに違いないだろう。申し訳なくなって戻してやったら、すぐに穴に潜っていった。
 幼虫たちの水槽は、一階の、昔は祖母の部屋だった和室に置いてある。
 餌はだいぶ形を失いつつあるようだ。
 行こうが行くまいが気にする友人などほとんどいないが、大学にはちゃんと行っている。学校帰りにスーパーで買い物して、それから帰ろうとしたところで警察の人に呼び止められて、優子のことを色々尋ねられた。初めての経験だ。
 あの親切な彼氏が優子の捜索願のことを教えてくれていなかったら、もしかしたら怪しい人みたいにうろたえていたかもしれない。
 僕は優子に執着なんかしてないし、それは数少ない友人たちも認めているところなので(仮にも恋人だった相手にちょっと冷たすぎやしないかという意見はさておく)、疑われるってことはまずないと思う。
 何だってこの期に及んで優子のことなんか尋ねられなければならないんだろう。そう思う僕は、たいがい悪人だ。
九月二十七日 日曜日
 今日で虫を飼いはじめて十日になる。あの時の傷はだいぶ良くなってきた。ほとんどのかさぶたは取れてきたし、膿んでもいない。でもまだ、長袖の服を着ていないとガーゼとか絆創膏が見えてしまってみっともない。
 けっこう深い傷だったから、治っても痕が残るかもしれない。
 怪我したときに病院で診てもらえばよかったのかもしれないが、病院のあの臭いが嫌いだからどうしても行く気にならなかった。子供の頃、点滴を受けた時に血管が見つからないとかで何度も針を刺されたのが原因だと思う。
 久々に洗濯して、部屋の掃除をしたら一日が終わってしまった。
九月二十八日 月曜日
 餌の腐敗が顕著になってきた。
 最初に虫を飼って、餌が腐ってしまった時はかなり驚いて、消毒用アルコールを吹きつけてしまったのが懐かしい。それで虫が全滅したので苦い思い出でもある。あれ以来そんな馬鹿なことはしていない。
 腐った餌でも幼虫は食べるし、影響はないので心配していない。だが腐臭が嫌だったから、部屋中に消臭スプレーをまいて、餌の周りには消臭剤と脱臭剤をこれでもかというほど置いておいた。
 それでも何かしら臭っている。近所とは離れているので苦情を言われることはないのがせめてもの救いだ。
 母もそうだったが、あの年代のある種の女は、どうして他人の生活に口出ししたり、中傷めいた噂話をするのが好きなのだろう。僕と結婚することになる女性には、ああいった歳の取り方だけはしてもらいたくない。
 消臭剤を置くだけでは興ざめだし、殺風景だから明日は百合の花を買ってきて部屋に飾ろうと思う。
 僕は百合が好きだ。白い大輪の百合が一番いい。あのむせかえるような匂いがたまらなく好きだ。
 百合は純潔と貞節のシンボルだと言うが、白い肉厚の花弁が開きかけたところなんかはエロチックだと思う。
九月二十九日 火曜日
 帰りに花屋に寄って、百合を買ってきた。幾ら若いって言ったって、いい歳した男が白百合を一抱えだ。かなり奇妙な光景だったに違いない。
 行きつけの花屋だから、店のおじさんは僕が時折花を大量に買い込むことを知っていて、買う時には気にならない。
 でも、家まで花束を抱えて帰るのはやっぱり少し気恥ずかしい。
 今、大量の百合は虫を飼っている和室に生けてある。一輪だけ、僕の部屋に飾った。
九月三十日 水曜日
 幼虫が二回目の脱皮。
 白い半透明の体が、脱皮とともに少しずつ黒ずんでくる。最終齢になると真っ黒に近くなる。幼虫が大きくなってきたので、何匹かを配置替えした。親虫は卵をばらばらに産まず、一か所にかためて産むので、その周辺が最初になくなってしまうのだ。
 現時点で全く食べられていないところもある。そういうところに幼虫を移動させてやるのだ。腐った餌に触ってしまって、あまり気分がよくなかった。腐敗しているところと乾燥しているところとがあって、臭いしべとべとする。
 僕はそういう時のために手術用のゴム手袋を愛用している。魚をさばく時なんかにも臭いが手につかなくて重宝する。
十月一日 木曜日
 優子の新しい――いや、新しかった彼氏が話しかけてきたのが先週。虫を飼いはじめたのが二週間前。
 木曜日に何か起こるのが二回続いたので、今日は少し期待していた。でも何もなくてつまらなかった。
 あったらあったで、僕にとってはあまり嬉しい展開にならなかったかもしれないが。
 たまたま、学食でAランチの列に並んでいたら、優子の彼氏を見かけた。この前は僕に対する意味の判らない敵愾心に溢れていたが、元気がないようだった。だが励ましてやる義理も道理もなかったので、遠目に眺めただけ。
十月二日 金曜日
 金曜には三限の文明論しか入れていないのだが、行ったら休講になっていて気が抜けてしまった。
 来週レポート提出になっているのがあったから、図書館で資料を借りて帰った。
 虫たちのいる部屋で百合に囲まれながら本を読んだ。なかなか奇妙な気分で面白い。
 もちろんレポートも書いたが、しーんとしている中で鉛筆の音と虫たちが餌を食う音だけが響いていて、この世に僕一人しかいないんじゃないかと一瞬本気で思った。
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