第五話-1  第五話-3


5.窓辺の女 2


 条件にあった家を見つけるごとに、その家の番地と名前を控え、近所に住む人間にさりげなくここ一、二カ月の様子を聞きだす。単調で退屈だが、疎かにはできない作業が延々と続いた。
 有力な手掛かりと呼べそうなものは今のところ得られていなかったが、何か困っていることや気がついたことを教えてくれと二人に言われて、何と間違えたのか隣家の猫が庭を荒らして困ると文句を並べたてる老人や、誰を疑うつもりだと怒りだす主婦などもいて、それらの対応で思ったよりも時間を食ってしまった。
 聞きこみの最中に相手に怒鳴られたり、どうでもよい話に付き合わされる羽目になるのはアルフレッドも慣れていたが、クレアもやはり冷静で、彼らの聞きたい話に話題を持っていくのは場馴れしたアルフレッドと同じくらい手際が良かった。
(そういえば、キャサリンの検死の時も、いやに落ち付いていたな。犯人は被害者の皮膚を目当てにしていると、彼女は最初からその線を疑っていたし……)
 考えてみれば不思議なことだった。レイ・ノリスに話を聞きに行った時も、クレアは他のことは何も聞かず、真っ先にヴァージニアの肌のことを聞いた。この事件が起こった時――多分、広域捜査局に配属され、この事件のファイルを読んだ時から――クレアはマクレーガー事件との関係性を疑っていたように思える。
 アルフレッドの中で、何か抜けない刺のように引っ掛かるものがあった。それが何なのかを見定める前に、彼の物思いは破られた。
「あ……」
 クレアが急に立ち止まったので、後ろを歩いていたアルフレッドは危うくその背中にぶつかりかけた。
「おい、クレア……?」
 いきなり立ち止まらないでくれと言おうとして、アルフレッドは表情をこわばらせたクレアの横顔を見た。それははっとするほど清冽な横顔で、瞳は驚いたように大きく見開かれていた。思わずその緑の瞳に視線が吸い寄せられた。そして、その視線が向いている方向へとアルフレッドも顔を向けた。
 お世辞にもきれいとは言い難い家だった。白く塗られていたらしい、朽ちかけた木のフェンスとカイヅカイブキの生け垣で囲まれたその家の一階部分は、ここからでは見えない。しかし家の二階部分は道路からでも見えた。壁は薄いクリーム色、屋根と窓枠は焦げ茶で統一されていた。ぴったりと閉じられた窓にはカーテンがかかっていて、中の様子はうかがえない。かなり広い駐車スペースがあったが、出かけているのかそこに車はなかった。
「どうしたんだ?」
 その声にまた驚いたように、クレアが振り向いた。
「……なんでもないわ……ただ……似ていたから」
 いつのまにか元の調子に戻っていたクレアが、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。訳が分からず、アルフレッドは首を傾げた。
「何が似ていたんだ」
「ほんの一瞬だけど、あの窓からこちらを見ている人がいたのよ。女だったわ。それが、私に似ていたから」
「へえ……君に?」
 彼はしげしげとその家を眺めた。郵便受けの上に書かれた名前を見ると、『G・L・ダンカン』とあった。アルフレッドがそれを書きとめているうちに、クレアはダンカン家の向こう隣りの家で、前庭を掘り返している七歳くらいの子供に声をかけていた。
「何してるの?」
 スコップを手にした少年は、クレアにちょっと疑わしげな目を向けた。しばらくすると無言で視線を外し、また地面に穴を掘る作業に戻った。
「お姉さん、誰?」
「クレアよ。君は?」
「ユージン」
 見ると、彼の足元に掘られた穴の隣には、小さな棒が立てられた墓のようなものが三つ並んでいた。何となく話に入れなくて、アルフレッドはクレアと少年のやりとりを少し離れた所から見守った。
「そこのお墓は?」
「インコと、子猫と、金魚のお墓」
 見知らぬ大人から話しかけられて不安になっていたのか、ユージンはしきりと同じ場所にスコップを突き刺していたが、土を掘り出してはいなかった。クレアは彼の正面にかがみこんで、できるだけ視線を合わせた。玄関先に大きな陶器の鉢が置いてあり、水が張られて浮草が浮かべられていた。その下の地面を見て、クレアはちょっと眉をしかめた。
「みんな殺されちゃったんだ」
「殺された? 誰に」
「ママは、インコと金魚は野良猫が捕まえたんだろう、子猫も野良犬が噛み殺したんだって言うんだけど、僕は違うと思うよ」
「なぜ」
 ユージンは土をいじり回す手を止めて、ようやくクレアの顔を真っ直ぐに見た。この寒空の下にずいぶん長いこといるのだろう。そばかすの浮いた鼻の先が、染めたように赤くなっている。
「この辺りに、そんな悪いことする野良猫も、犬もいないもん。きっと、あいつが僕にいじわるしたんだよ」
 そう言って彼は小さな指で向こう隣の家――たった今までクレアとアルフレッドが見ていた家の方向を指した。ユージンの目は真剣そのものだった。そこにはまだアルフレッドが立っていたのでクレアは一瞬彼のことを言っているのかとどきりとしたが、すぐに違うと気づいた。
「あいつって、あの家に住んでいる人?」
「うん。あそこのおじさん」
「おじさんはいつもそんな酷いことをするの?」
「わかんないけど、僕たちがここらで遊んでて、あの家にちょっとでも近づくと、すごく恐い顔して怒鳴るんだ。庭に入っちゃったボールも返してくれないんだよ。それに、ここに埋めたげた猫は、あの家の軒先にいた子たちだったんだ。みんな、首をちょん切られちゃったんだよ」
「酷い人ね。ママはそのこと、知ってるの?」
「知らないよ。おじさんがいじわるするんだって言っても、僕の言うことを信じないんだ。ちょっと変な人だからって、差別しちゃいけないとか言ってさ」
 むっつりとして言うユージンに、クレアは腕を伸ばし、そっと頭を撫でて言った。
「大人はね、何でも見えているつもりで何も見ていないのよ。そしてそのことに気づきもしないの」
 ユージンは首を傾げたが、やがてクレアの言わんとしたところを理解したようで、もっともらしく頷いて肯定の意を示した。
「クレアは僕の言うこと信じてくれる?」
「君は嘘をつくために小さな動物をいじめたり、殺すような子供じゃないと思うわ」
 その答えがいたく気に入ったようで、ユージンは笑顔になった。
「うん。僕、そんなことしないよ」
「でしょう?」
 その会話を遠巻きに眺めながら、アルフレッドは感心していた。
(案外話が続くな……)
 どうやらクレアは意外に子供の扱いがうまいようだ。最初の頃の無愛想なままでいったら子供が泣き出してしまうだろうが、やろうと思えばあんな風に優しく笑ったり、何かご機嫌をとれることも言えるようだ。そんな感想を抱きながらアルフレッドが見ていると、クレアが何か言いながら、コートのボタンを外して中を見せた。少年の顔が驚きと喜びの色で満たされる。何を見せたのだろうか。興奮したように少年が喋っている。
「私はね、警察官なの。そのおじさんがまた何か悪いことをしたら、捕まえてやるわ」
「ほんとう? おまわりさんなら、銃を持っているの?」
「ええ。見たい?」
「うん!」
 ユージンは目を輝かせてクレアを見た。苦笑しながら、クレアはコートとスーツのボタンを外し、ホルスターで脇の下に隠している愛用の三十二口径を見せた。安全装置を外しているので、取り出すとユージンが手を出して、下手をすると怪我をしてしまう危険があったから、あくまで携帯していることを見せるだけにとどめた。
「かっこいいなあ――」
「これが身分証明書よ」
「本当だ。クレアの写真だね」
 ついでに、クレアは広域捜査局の身分証明書も見せてやった。ユージンはますます喜んで、自分が土遊びをしていたことも忘れてしまった。しばらく彼の質問につきあってやり、クレアはそろそろ戻ろうと立ち上がった。すっかり彼女と友達気分になったユージンも立ち上がって、クレアを見送ろうとついてきた。
「今度あいつがいじわるしたら、やっつけてよ」
「うーん、やっつけるのは無理かも。でも、二度と意地悪できないようにするわ。……ねえユージン、あの家に、私くらいの歳の女の人はいるかしら?」
「いるよ。おじさんと同じくらい嫌なやつ。ママ達はあいつをきれいだなんて言うけど、クレアの方がうんと美人だよ」
「あら、ありがとう。それじゃあ、さようなら」
 ユージンはこっくりと頷いた。
「うん。バイバイ」
 手を振って別れて、クレアがアルフレッドのもとに戻ってきた。アルフレッドは彼女がユージンと話している間、ずっとそこに立ち続けて待っていたのだった。待っていたのは彼の勝手だろうが、クレアは一応謝っておいた。
「待たせてごめんなさい」
「ずいぶん話が弾んでたみたいだな」
「色々と聞かせてもらえたわ」
「どんなことを?」
 クレアは歩きだし、遠ざかりつつある最後の家を振り返った。あとはフォークリバー署に戻り、リドルとガーフィールドたちが調べたことと、ここで集めた情報と突き合わせて有力なものを選び出していくだけだ。
「あそこに住んでいる男性――多分、表札にあったG・L・ダンカンはある種の性格異常者みたい」
「本当に?」
「近所の子供が飼っている金魚を全部水から出してしまったり、インコを絞め殺したり、子猫の首を切り落とすような人が正常だというなら、話は別だけれど」
「そいつは異常だな」
 あまり気持ちのよくない話に、アルフレッドは顔をしかめた。クレアが話をしていた子供が嘘をついたという可能性を考えないでもなかったが、ちょっと目立ちたいとか悪いことをしてやろうといった動機でそこまでのことをしたり、そんな悪質な嘘をつくような歳には見えなかった。
「もう一時近くだわ」
 左の手首を裏返して、腕時計を確認したクレアはやっとその事実に気づいた。空港で朝食を食べてから今まで、何も口にしていないことを思い出すと、急に空腹が襲ってきた。体が冷えているせいもあるだろうが、アルフレッドは無性に熱いスープが食べたかった。それも、玉ねぎがとろけるまで煮込んだトマトスープだ。スパイスが適度に効いていて、ベーコンの脂身が甘く溶け込んでいるような――。
 考えるとますます胃が痛くなった。
「とにかくどこかで休みたいな」
「異議なしよ」
 ため息と共にクレアは答えた。さすがにこの寒さでパフェやサンデーを食べようなどとは思わないだろう。実際、冷たいアイスクリームのことなどクレアの念頭には無かった。代わりに思っていたのは、フォリーのあのカフェで飲んだ最低のチョコレートシロップの思い出を払拭してくれるような素敵なチョコレートシロップを出してくれる店がこのあたりにあれば、ということだった。
 あれから忙しすぎて、そんなものを食事で注文している余裕もなかった。自分でホットチョコレートを作っても良かったが、あいにく彼女は孫娘も含めて家族が甘ったるいものや脂っこいものを口にするのを嫌っていた――ジャンクフードなどもってのほか、シリアル食品もファストフード、インスタント食品ですら罪悪とみなすような考えの持ち主だったから、自宅にチョコレートや菓子類はほとんど置いていない。とうていできない相談だった。
「このあたりに美味い店はないのかな」
「ラルフの働いていたあのハンバーガー店でも構わないわ」
 そう答えると、アルフレッドがおかしそうに肩を揺らして笑いを噛み殺したのが見えたので、クレアは怪訝そうにその顔を覗き込んだ。
「なに?」
「よほどジャンクフードが好きなんだな。甘いものも好きみたいだし……。言っちゃ悪いが、よくそれでその体形を維持できてるな。君ぐらいの歳の女なら、食べるもののカロリーを気にしてるのが大半だと思ってたけど」
「こういう時くらいしか、食べる機会がないのよ。それに、体質だと思うけれど、甘いものを食べても太らないの」
 ダイエットにいそしむ女性が聞いたら羨ましがるだろう台詞だったが、クレアが言うとただの事実を述べているだけ、というのが如実に表れた事務的な口調のせいか、何の厭味もなく聞こえた。
「それに言わせてもらうけれど、フレッドだって炭水化物の取りすぎじゃないかしら」
 それは事実だったので、アルフレッドはあえて何も言わなかった。
「――で、実際のところ、食べたいものはあるか?」
「オードブルからデザートまでついてる、フルコース」
「冗談だろう?」
「冗談よ」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「今いちばん欲しいのは、温かいホットチョコレートかミルクココアね。もちろんミルクだけで伸ばしたやつ。それからジンジャーとシナモンたっぷりのスパイシーケーキに生クリームが添えてあったら最高なんだけど。ラムレーズンとドライフルーツたっぷりのパウンドケーキも捨てがたいし……ああ、ツィマーマンのシフォンケーキもいいわね。メープルシロップ味のが大好きなんだけど」
「まさかそれを食事代わりにしたいとか言いださないよな」
 次々と出てくる甘い物のオンパレードに胸やけを感じながら、アルフレッドは問うた。いくら彼女が甘党で、常識からすると少々奇妙な言動があったとしても、優秀な捜査官には変人が多いというジンクスがあったとしても、そこまでではないだろうとアルフレッドは期待した。というよりも心の底で、そうであってくれるように願っていた。しかし、クレアはあっさりと彼のかすかな望みを粉砕した。
「あら、だめなの?」
「……」
「何でそんな顔をするの?」
 アルフレッドの、信じられないといった風情の顔を見て、クレアは柳眉を吊り上げた。しばらく黙りこくっていたが、やがてアルフレッドは呟いた。
「悪いが、君の味覚は僕には一生理解できないみたいだ」
「……理解してもらわなくても結構よ」
「とりあえず、デザートが選べる店っていうので妥協できないか」
「チョコレートケーキのある店なら」
 車に戻ってから、アルフレッドは今の彼らにとって最も重大な事実に気づいた。フォークリバー市の、この近辺の地理は大体頭に入っていたが、どこにどんな店があるのかは全くと言っていいほど知らなかったのだ。この前に泊まったモーテルの周辺くらいしかアルフレッドの頭の中の地図にはない。そのことをアルフレッドはクレアに素直に告げて、一つの提案を出した。
「署に戻って、リドルかガーフィールドに聞こうか」
「それが一番いいわね。でも、訊くならリドル警部がいいわ。ガーフィールド巡査部長に訊いたら、一緒にランチにしようって話になりそうだから」
 クレアはどちらかというと打ち解けるまで時間がかかるタイプだったから、すぐに距離を詰めてくるタイプは苦手だった。悪い人ではないとわかっているが、どうにも彼の調子にはついていけない。ガーフィールドといい、ディズレリーといい、最近仕事で知り合う男性は苦手なタイプが多い気がした。
「リドルが戻っているかどうかはわからないよ、クレア?」
「お願いだから言わないで。気が滅入るわ」
「そこまで彼を嫌わなくたっていいと思うけどな」
「嫌っているわけじゃないわ。ただ、私がまだ取っておきたい距離を、一方的に詰められるのは苦手なの」
 それは充分『嫌い』に近い感情なのではないかとアルフレッドは思ったが、口には出さなかった。共感できる部分はあったからだ。


(2013.7.20up)

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