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5.窓辺の女 1


 二人は無言のまま、車を降りた。車内暖房で火照りはじめていた頬に、容赦なく吹きつける十二月の風は切るように冷たかった。
「あなたがそんな悲観的なことを言うとは思わなかったわ」
 クレアはごみ捨て場の地面に取り残された、片腕と目の欠けた布の人形に目を当てた。声はともすれば風にかき消されそうになる。焦げ茶の毛糸で作られた人形の髪には、キャベツの切れ端や紙くずが絡みついている。その横に、萎れかけた霞草と白いカラーの花束が感傷的に横たえられていた。
「悲観的になっているつもりはないよ。ただ、今日の時点で五人目の被害者がすでに犯人に拉致されているとしたら、殺害を防ぐことは難しいと思うんだ。君だって判っているはずだろう。……今は午前十時をちょっと過ぎたくらいだ。ガーフィールド刑事がどんなに頑張っても、今日は被疑者リストを作るだけで終わるだろう。五人目の被害者が殺されるまでに逮捕できるかどうか確証が持てない」
 君だってそう思っているのだろう、と言外に言われて、クレアは言葉に詰まった。アルフレッドがこれほど事件に対して消極的になっているのを見るのは初めてだった。彼女が知っているのは、いつでも真っ直ぐに前を見て、わずかな可能性でも逃すまいと目を光らせている彼だったから。
「確かに、この間隔からすれば五人目の被害者はどのみち昨日か今日には確定している。死体になる前に私たちが救いだせるかどうかはわからない」
 いつのまにか日が陰り、風が強くなってきた。髪が吹き散らされてくしゃくしゃになっていたが、クレアは風のままに任せた。吐き出す息は白く、風にまぎれてすぐに消えていく。向かい風で黒いコートの裾がはためいた。寒さにアルフレッドは襟を立ててそこに顔を埋めた。
「僕は目の前で、みすみす殺人を許してしまう」
 その言葉で、クレアはアルフレッドが何に対してそんなに気を立てているのかを理解した。完璧とはいえないだろうが、一週間近く行動を共にし、過去を聞いていればそれぐらいの心情は見抜けた。目の前で人が死ぬ、そうと判っているのに護ることができないというのが、彼にとっては何よりも辛いのだ。
「あなた一人のせいじゃない」
 こんなところで相棒のカウンセリングなどしたくなかった。嫌だからではない。むしろアルフレッドの助けになってやりたいと思う。ただ、彼が自分の傷を自分で抉ろうとするのを見るのは辛かった。
「それに……まだそうと決まったわけじゃないのよ」
「どのみち、次の被害者が出てしまうだろうことは間違いないよ」
 優しくアルフレッドは言った。何をどう言えばアルフレッドの気持ちを和らげることができるのかわからなくて、クレアはじっと人形を見つめ続けていた。そして、この場所にゴミと一緒に捨てられていた被害者のことを思った。異常者に捕らえられて恐怖に怯え、無残に殺されて皮を剥がれた上に最後の人間性すら奪われて、被害者たちがたどり着いたのはここだった。
(ばかねクレア――。悲しんだって死者は戻らないのよ)
 感傷に浸りたくてやってきたのではない。そんな感情は捜査には邪魔だとわかっていた。アルフレッドにもわかっているだろう。優しい彼のことだから、自分がそうしなければならないことにも傷ついてしまうのだろうけれど。
 何を言っても慰めにはならないと判っていたから、クレアは仕事に戻ろうとした。
「話を戻しましょう」
「何を僕に聞くつもりだい?」
 相変わらずアルフレッドの声は柔らかく、こちらを見た時にはすでにいつもの彼に戻っていた。下手な慰めなどしなくてよかった。励ましや慰めるような言葉をかけていたら、却って彼を苛立たせていただろう。
 アルフレッドも、クレアが慰めの言葉を言わなかったことにほっとした。そんな言葉をかけられていたら、今の心理状態では彼女にどんな言葉を投げつけていたか判らなかった。彼女が女だからとか、年下だからというわけではない。
 自分も同じ経験を共にした相手の慰め以外は、ただの同情と哀れみと、他人の不幸を遠くから眺める興味でしかないのを、アルフレッドは嫌というほど思い知っていた。だからクレアが頑張ろうだとかいった、こうした場面ではありきたりの台詞を口にしなかったことに少なからず尊敬の念すら抱いた。
「あなたがごみを出す時はいつ?」
「僕は出勤時に出すから、朝だ。忙しくて暇がない時には前日の夜」
「一人暮らしだと、ごみの量ってどれくらいになるかしら?」
「それを何で僕に聞くかな。君は一人暮らしじゃないのか、クレア」
 尤もなことを指摘すると、クレアはかぶりを振った。
「私、一人暮らしの経験がないの。今も祖母と二人暮らしよ」
 そうか、とアルフレッドは口の中で呟いた。個人の独立志向が強いこの国では、就職後は生家を出て一人で暮らすのが当たり前で、両親と同居というのはあまり一般的ではない。祖母と暮らしているというのも珍しい。だがそれに口を出す気はなかった。クレアの初対面となったあの写真からすると、両親が離婚した際にどちらにも引き取られず、祖父母に育てられた可能性がある。それなら年老いた祖母を見守るために同居しているとしても何の不思議もない。
「そうだね。可燃物なら、十五リットルのごみ袋一つがせいぜいだ。一週間に一度出せば事足りるかな」
「私の家もそれくらいだわ」
「で、それが何の参考になるんだ?」
「死体を詰めたビニール袋は一つだけ。でも、独身でも二人暮らしでも、二つ以上の袋を出すというのはまず無いでしょう」
 まして、それがぱんぱんに膨らんでいるということはありえないだろう。仮に犯人が独身だとして、ごみの量がそう多くないはずの人間が、二つも三つもごみを捨てに来ていたら、その家庭環境を知っている人には奇異に映るだろう。
「そういうことか」
 アルフレッドは頷いた。
「だが、君の意見からすると犯人はここまで死体を棄てに来ているだけで、実際に居住しているのは別ブロックだ。そこで自宅のごみを捨てて、ここに死体を捨てることだってあるだろうし、二人がここと別の場所に別れて住んでいるとしたら、自宅の分はそちらで捨てているのかも」
「確かにその通りだけど、後者の可能性は低いと思う」
「何故」
「わざわざ向こうまでごみを持っていくか、パートナーに捨ててもらうくらいなら、自分の住んでいるところの集積場に捨てるでしょう。ヴァージニアの死体をあんなに簡単に見つかるところに捨てるくらい頓着のない犯人だもの。それにそうするなら、交代で捨てたほうが私たちの目を欺きやすいでしょう」
「ああ……そうだな。それなら二人は同居しているのかな」
「確証はないけれど、私はそう思う」
「僕もそう思うよ」
 どちらにせよ、ここ周辺の聞き込みは現地の警察が行っているが、不審な人物を見たという証言は一つも出てきていない。隣近所の様子に注意を払わない土地柄というのもその一因だろう。
「『マリー』は一体誰なんだろう」
 クレアが顔を上げた。アルフレッドは自分自身の考えをまとめるため、思いつくままに放し続けた。
「『マリー』が犯人の妻か恋人か、姉妹か……それだけでも、犯人同士の関係は大きく変わってくるだろう。『マリー』が犯人の妻なら、犯人同士は不倫関係にあったのか、それとも友人か、兄弟か。組み合わせは幾つも考えられる」
「そうね」
「君が調べた失踪者もそうだろう? 夫から捜索願が出ていたのは一人、後は恋人と弟。時期から絞り込んでいくことはできるが、『マリー』の性別が違えば可能性は広がる一方だ。それに、犯人が届け出ていなければ調査のしようもない」
「その可能性も考えているわ」
「ところで――」
 アルフレッドはクレアを振り返った。
「これからどこに行く?」
 遊びに行くような軽い口調で尋ねられたので、クレアは一瞬答えに詰まってしまった。しかし目を伏せて、深呼吸をひとつしてから言った。
「もう、ごみ捨て場を回らなくてもいいわ。セントマーチに行きましょう」
「了解。じゃあ乗って」
 吹きさらしの外から車内に戻ると、暖房の効果はだいぶ薄れていたが二人はどちらからともなくほっと息をついた。アルフレッドはシートに深く凭れて、目が疲れた時によくやる、目頭を揉むしぐさをした。
「どうしたの」
「この分じゃ、こっちも雪になりそうだと思って」
 言われて、窓から空を見上げると、暗い灰色の雲がかなりの速度で北から流れているのが見えた。雪は嫌いではないが、大人になって車を運転するようにもなってからはあまり歓迎したいものではなくなってしまった。もちろん休みの日に雪が降っている分にはさほどの障害はないし、見ている分には全く問題ない。しかし仕事中に降られると、いやがうえにも重い気分になる。
「今年は寒波が強いらしいから」
 クレアは窓に顔を近づけて言った。たちまちガラスが白く曇る。
「夜には降るかもしれないわね。それに、ここはアルミニアでも北部だもの」
「その前にやれるだけやってしまおう。出すからシートベルトを着けて」
「ええ」
 クレアは座りなおしてシートベルトを締めた。キーを差し込むと、車は軽やかなエンジン音を響かせ始めた。
「ところで、君はお祖母さんと暮らしていると言ったが、ご両親は?」
「……」
 さりげなく聞いたつもりだったが、クレアが気まずそうな顔をして答えを返さなかったので、アルフレッドは慌てて言い足した。
「すまない。プライベートを探るつもりはなかったんだ」
「……子供の頃に、両親が離婚したのよ。父方の祖父母はそれよりもずっと前に死んでいたし、父が原因での離婚だったから親権は母にあったけれど、母は私を引き取って育てられるような状態じゃなかったから、母方の祖父母が私を育ててくれたの」
 クレアは怒ったような低い声で説明したが、ちらりと横目で確認したその表情はいつもどおりの平静を保っていて、アルフレッドはほっとした。
「大変だったんだな」
「私自身はそういうふうに感じたことはないわ。両親の離婚は父に問題があってのことだったせいかしら。たった一人の孫だったし……祖父母は自分たちから私を引き取りたいと言ってくれて、ずいぶん可愛がってもらったわ」
「へえ……」
 アルフレッドは感慨深げな声を漏らした。
「で、今もお祖母さんと?」
「ええ。大学を出て、州警察に入った頃祖父が亡くなったの。フォリーには祖母と一緒に引っ越したわ。彼女、足が悪くて一人暮らしは無理なのに、ホームに入所するのは嫌だって聞かないから」
「お母さんは?」
「せっかく父と別れたのに、すぐに死んだわ」
「……」
 聞いただけではずいぶん不幸な生い立ちのようにも聞こえる。何と言っていいのかわからないアルフレッドに、クレアは無言のままコートの間からスーツの内側に手を入れて、小さな紙切れのようなものを取り出してそっと膝の上に置いた。それは端を切り取ったあの写真だった。
「これ、見たでしょう」
 アルフレッドは小さな声でああ、と答えた。彼女との実質的な初対面となったこの写真のことは、忘れようと思っても忘れられるものではない。それは憎しみとか怒りとか、何かの強い感情をこちらにも伝えてくるものだった。
「この写真を撮ったすぐ後くらいよ。両親の仲がうまくいかなくなったのは。……私の子供時代の写真は、祖父母に引き取られるまでの間は全くといっていいほどないの。カメラなんて置いていない家だったし。母と私が写っている写真は、祖父の家で撮ったこれだけだった。仕方ないから父を切り取ったの。別にあなたが心理分析官じゃなくてもわかるでしょう。私が父を憎んでいるって」
「多分、そうじゃないかとは思っていたよ」
 その返答を聞いて、不思議なことにクレアは満足そうな表情を浮かべた。一生懸命考えた謎々を、友達が当てられないのを喜ぶ子供のような顔だった。
「この体の中に、あの男の血が半分流れているのかと思うと、夜中でも叫び出したくなる。馬鹿みたいなことだけど、自傷行為を繰り返した時期もあったわ」
「クレア……」
「ああ、今はそんなことしていないわ。安心して」
 心配そうにアルフレッドが呼ぶと、クレアはにっこりと微笑んだ。彼女がそう言うのなら嘘ではないのだろう。
「話してくれてありがとう。……でも辛いことを思い出させたかな」
「そんなことはないわ。聞かれれば誰にでも話せることだもの。それに、フレッドに話したからといって、昔の両親が戻ってくるわけじゃない」
 淡々とした答えに、アルフレッドは戸惑った。本当に割り切って考えているのか、それとも傷ついているのにそれを巧妙に隠してしまっているのか、それとも自分が傷ついていることにすら気づいていないのか。そこまでは、この会話からではアルフレッドにはわからなかった。
「フレッドのご両親はどうなの?」
 いきなり、クレアが尋ね返してきた。
「え? ああ、二人とも健在だよ。今でも、報道の対象になるくらい大きな事件を僕が担当すると、心配して電話をかけてくる。今回も、携帯電話に毎晩伝言が入ってるよ」
「子供扱いね」
 クレアは微笑んだ。実際に一度、マスコミのせいで殺されかけているのだ。それくらい過敏になっていても仕方ないだろう。報道陣によって彼の神経が痛めつけられはしないか、誤報で傷つけられはしないか、強引な取材を受けはしないか――どんなに些細なものでも、彼のトラウマを呼び起こすようなことが無いか、気が気でないのだろう。
「親にとっては、どんなに年をとっても子供は子供さ」
 アルフレッドは小さく笑ってクレアの言葉を受けた。
 何も知らないクレアはきっと、両親の心配は大々的な報道によって、アルフレッド自身が犯人の標的にされるのではないかとか、取材攻勢で眠れなくなるのではないかといったものだと考えているだろう。まさか、息子が自殺しているのではないかと心配して、毎晩安否を確かめずにはいられないのだとは予想もしていないに違いない。
「さあ、着いた」
 路上駐車をするには時間が長くなりそうだったので、アルフレッドはコインパーキングを見つけてそこに車を入れた。
「このブロックの中で探しましょう。とりあえず、共同住宅は除外するわ」
 車から降りようとしたアルフレッドは、その声でノブにかけた手を外して彼女を振り返った。いつのまにか、クレアは対象にする家をプロファイリングしていたようだ。
「一軒家の住人が対象。それで、家のその他の特徴は?」
「納屋や物置、もしくは母屋と離れた別棟がある家。外装は汚くて古い。少なくとも手入れされているという印象は与えない。塀か生け垣で道路越しに家の中や庭が見えないようになっている。中型以上の車が少なくとも一台はあるはず。家の大きさの基準はノリス家くらいだと考えて。ああ、でも二階建ても含めて」
 先を促すと、クレアは目を伏せて、瞼の裏に文章があるかのようにすらすらと続けた。どういう根拠でそういった種類の家だと分析するのかは知らないが、ともかくその口調に迷いや不安を感じせるものはなかった。
「庭はあってもなくても構わないか」
「ええ」
「……一つ聞きたいんだが、クレア」
 納得して出ていきかけて、またアルフレッドはドアを半開きにしたまま踏み出した足を止めた。呼びかけられたので、クレアも両足を揃えて地面に下ろしたところで動作を止めてこちらを振り向いた。
「なぜ二階建ての家だと?」
「マクレーガーは被害者の首に縄をかけて、階段から突き落として首を吊ったことがある。今回の被害者はアメリア以外みな首を切られているから、死因は判らないけれど」
 答えてから、クレアは車外に出た。アルフレッドもそれに続く。
「事件が起きてから二十年も経っているし、マクレーガーの処刑からは十一年が経っているわ。犯人が今まで犯行を始める機会を待ち続けていたなら、それくらいのセッティングはできる。家庭菜園や仕事場を作るのは無理でもね」
「じゃあ塀や生け垣っていうのも?」
「普通に考えても、道路から丸見えの庭に死体を埋めたりはしないでしょう。それもあるけれど。庭の無い家なら塀のことは気にしなくていいわ」
「要するに、いかにも『何か隠しています』と言いたげな家を探せということか」
「そうじゃないわ。マクレーガーの家の写真はファイルにもあったでしょう? どこにでもありそうな家だったじゃない」
 自分も同じ資料を見たはずだが、クレアの方がずっと内容を詳しく把握していたことに、アルフレッドは驚いた。写真の細部から一言一句まで暗記していると彼女が告げても、アルフレッドはそれを信じただろう。
(まるで実際に捜査に加わっていたみたいだ……)
 事件が発覚した二十年前には、クレアは六歳だったからありえないだろうが、そんな突拍子もない考えが思い浮かんでしまうほど、マクレーガー事件に関する彼女の知識は豊富だった。


(2013.6.20up)

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