1へ  3へ


スローターマン事件 2

 アルフレッドの自宅は小さなアパートである。一人暮らしには丁度いい広さで、広域捜査局本部に異動となり、首都のフォリーに移った時からずっとここに住んでいる。本当なら別の場所に住んでいたはずだったが、それは結局果たされなかった。
 部屋に入り、濡れたコートを脱ぎ、スーツの上着も脱ぎ捨ててベッドに転がり込んだ。枕元のチェストには写真立てが一つ置かれている。そこでは十一年前のアルフレッドとセレストが微笑んでいる。壁を飾るものや、余計な家具など何もない部屋の中で、その写真立てだけが唯一の装飾物といえる。ゆっくりと体を起こして、アルフレッドはバスルームに入った。熱いシャワーを浴びて、さっぱりしたところで洗面台の鏡を覗き込んだ。
「ひどい顔だな……」
 三日間、オフィスに泊まり込みで仕事をしていたのでろくにシャワーも浴びていなかった。無精ひげがだいぶ出てきていたし、目の下にはうっすらと隈が浮いている。彼はどちらかといえば色白であったから、それが余計に疲れてくたびれた様子に見えた。ゆっくり風呂に入ってからでさえこの状態だ。夕方にクレアと会った時は髪もぼさぼさの酷い状態だったに違いない。だとしたら、若い彼女が不快な表情を見せなかっただけでも感謝しなければならないだろう。
 アルフレッドは髭を剃り、もう一度顔を洗った。寝間着に着替えてしまってから、三日分の着替えや必需品をバッグに詰め込む作業に入った。
(今日はやけにセレストの事を思い出す日だな……)
 彼女のことを忘れた日など、もちろん一日だってない。だが仕事中にもふと思い出してしまうことは、ここ最近ではなかったのだ。
(そんな感傷に浸るほど、僕はもう若くないのに)
 もちろん、三十五歳ならまだ若いと言える歳だろう。だが、自覚としてはもう若くないといった感の方が強かった。ステンレス製の写真立てを壊れ物のようにそっと持ち上げて、アルフレッドはしばらくの間写真を見つめていた。それから、荷物の隙間に写真立てをそっと差し込んだ。バッグの蓋を閉じ、アルフレッドは今度こそ眠るためにベッドに入った。
 そしてセレストの夢を見た。彼女はあの時のまま若く美しかった。
 美術館を一日かけて見て回っただけの、子供みたいな初めてのデート。風に揺れた褐色の長い髪。二人だけの聖夜、キャンドルを灯して聞いたラジオから流れる聖歌。
 初めてのキスの甘い味。平凡で嫌だと言っていたけれど、誰よりも魅力的だった焦げ茶の瞳。カフェに入ると、子供っぽいとアルフレッドが言っても、これが好きなのよと笑ってチョコレート・パフェをいつも食べていた。
 結婚しようと言った時の彼女の幸せに満ちた笑顔。よく日に焼けたしなやかな体。仕事で疲れて帰ってくれば、何も言わずに額にキスしてくれた。それだけで心が軽くなった、優しいキス。
 セレストは彼にとって、彼のために地上に降りてきた天使のような存在だった。
(ねえアル、どんなドレスがいいかしら)
(君は何を着たって似合うよ。どれでも好きなのにすればいいよ。これなんかはどうかな)
 純白のドレスを胸に当てて、セレストが笑う。
(あなたがそんなことを言うから、ますます迷ってしまうじゃないの)
(いっそ、気に入ったもの全部着てみたらどうかな)
(そんなの、無理に決まってるじゃない)
 次の日には、誰からも祝福される花嫁になるはずだったセレスト。
 天国に、あまりにも残酷に連れ戻されてしまった彼の天使。
 あの時死んでいたのが自分であったら、セレストも同じように忘れずにいてくれただろうか? アルフレッドには、その自信がなかった。
 次の日の朝、アルフレッドは幾分早めに出勤した。
「お早うございます、シンクレアさん」
 受付嬢をはじめとして、何人かの女性職員は必ず彼に声をかけてくる。彼自身に自覚はなかったが、すらりと背が高く顔立ちも整っている上に、遊びに興味がない真面目な性格で有能だというので、アルフレッドは一部の女性職員からはとても人気があった。彼が堅物だというよりも、十一年前に死んだ婚約者をいまだに忘れられずにいるだけなのだということを、彼女たちは知らない。
「おはようございます、シンクレア」
 オフィスの、彼とそのパートナーに割り当てられているブースに入ると、すでにクレアがデスクについていた。今日は水色のスーツで、耳には小さなイヤリングが光っていた。身を包む色が明るかったので、全体的な印象も明るくなっていた。
「おはよう、フィッツジェラルド。ファイルは全て読んだよ。これからアルミニアの現場に飛ぶつもりだが、大丈夫か?」
「はい」
「じゃあ今から手続きをしてくる」
「では私は航空券の手配をしましょうか」
「頼むよ。なら……十時に空港で落ち合おう。詳しい場所は後から連絡してくれ」
「はい。十時に空港ですね」
 クレアは頷き、時計を確認した。アルフレッドとクレアは互いの携帯電話の番号とメールアドレスを交換して、二人でオフィスを出た。そこに、課の受付をしている事務職員の女性が駆け寄ってきた。
「シンクレア捜査官!」
「ああ、ベティ。何か?」
「先ほどアルミニア州警察から連絡がありました。今日未明に、郊外で《スローターマン》の四人目の被害者と思われる死体が発見されたそうです」
 アルフレッドは表情を引き締めた。
「今から僕たちはアルミニアに飛ぶんだが、現地の警察にその旨を伝えておいてくれないか。検死に立ち会わせてほしいから、待ってくれるように」
「わかりました」
「頼んだよ」
 ベティが自分のデスクに戻っていくと、アルフレッドは歩調を早めて歩きだした。クレアが小走りについてきているのに気づくと、彼はクレアが歩きやすいように速度を落とした。クレアははっとしたように顔を上げた。それから、困ったような、照れたような顔をしたが、幸いにしてそれはアルフレッドには見えていなかった。
 クレアは航空券の手配のため先に空港に向かい、アルフレッドは出張の手続きをしてからだったので、空港に着いたのは待ち合わせの十五分前だった。
「シンクレア、あなたの分のチケットです。十時四十五分の出発で、到着は昼過ぎになります。搭乗手続きはもう始まっていますから、行きましょう」
 待合室の椅子に座っていたクレアは、彼が近付いてくると立ち上がって歩み寄り、搭乗券を差し出した。後ろにスリットの入った黒いロングコートを羽織った彼女は、どうみても安物のキャリーバッグを一つ、足元に置いていた。
「じゃ、着いたらそっちで昼飯を食べよう」
「はい」
 時刻表示がぱたぱたと音を立てて変わっていく。彼らが乗る予定の便にはすでに搭乗手続き開始を示すランプが点いていた。
「犯人についてどう思いますか、シンクレア捜査官」
 二人掛けの席に隣り合って座り、ベルトを着ける。離陸してしばらく経つと、クレアはいきなり事件の話を持ち出した。余計な世間話をしないところは仕事熱心でいいかもしれないが、可愛げがないと言えばそれまでだ。だがアルフレッドはそんな内心を表に出して相手に軽蔑されるようなことはしなかった。
「誰が聞いているか判らないから、捜査官を付けるのはよそう。僕の疑問点は三つだ。犯人は何故、どうやって、年齢も性別も人種もばらばらの、住んでいるところもかなり離れている人間を狙ったのか。何故、身元の判ってしまう持ち物や衣服を死体と一緒に、しかも二回目以降は見つかりやすい場所に捨てているのか。最後に、見つからない死体の一部はどうなったのか」
「それについてはどう考えていますか」
 飛行機のエンジン音でごまかすように、小さな低い声でアルフレッドは言った。それに合わせて、クレアも声をひそめた。
「一つ目の疑問には、被害者選択についてこだわりがない、行きずりの犯行である可能性を考えている。最後に目撃されたのが市外、別の州という被害者が二人いることから考えると、車を使ってかなり広範囲にターゲットを探し歩いているのかもしれない。身元がすぐに判るようにしているのは、隠すつもりがないから。見つからない一部は……記念品かな」
「私もそうだと思います。ですが、もしかしたら被害者には、何か、犯人にしか判らない共通点があるのかもしれません。四人目の被害者の検死で、また新しく判ることがあるかもしれません」
 熱心に語る口調とは裏腹に、クレアの緑色の瞳には相変わらず温度がなかった。だが指摘する内容は的確で、洞察力もある。アルフレッドの、彼女に対する印象は、仕事の面に関しては非常に良いものだった。
「君の意見を聞きたいんだが、いいかな。君は犯罪心理学を専攻していたと聞いた。犯人をどう見る?」
「そうですね……」
 クレアはちょっと首を傾げた。
「まだ判断する材料が少ないので、どうとも言い難いのですが……あなたが仰っていた疑問の二つ目……死体と共に発見された衣服や持ち物ですが、これは犯人の挑発という線も考えられると思います」
「挑発か」
「はい。被害者の身元が判っても、自分が捕まることはないという自信の現れです。内向的で目立たない人間である反面、自己顕示欲が強い性格なのかもしれません」
「なるほど」
 アルフレッドは頷いた。彼女の見解を少々検討してみて、さらに自分の考えたことを言おうと再びクレアの方を見た時である。
「そうだとすると……」
 ちょっと意外そうに、アルフレッドは目を瞬かせた。彼が黙っていたのはほんの数分だったが、クレアはその短い間にすとんと眠ってしまっていた。冷たい印象が強い彼女だが、眠っている横顔は幼く見えた。
(初仕事だからな……緊張で眠れていなかったのかもしれない)
 仕事上のパートナーでしかない女の寝顔を見つめてにやけるには、アルフレッドはまだ若かったし良心的だったので、反対側の窓の外を眺めることで時間をつぶした。
 着陸準備に入ったというキャビンアテンダントの声で、クレアは目を覚ました。いつのまに眠っていたのか記憶がなかったが、隣のアルフレッドは窓の外を見ていて、クレアの寝顔を見ていなかったことにほっとした。
 彼女はそっと咳払いをして、姿勢を正した。そして、気を引き締めなければと内心で自分を叱咤した。初仕事の緊張などで昨夜はあまり眠れていなかった自覚はあるが、見知らぬ相手や誰がいるか判らないような場所で寝てしまうなど、彼女の哲学としてはあまり褒められたことではなかった。
 空港に降り立つと、冷たい冬の空気が暖房に慣れた肌を粟立てた。到着したのは予定通り昼過ぎだったので、まず二人は空港内のカフェに入った。ウェイターが注文を取りにやってきたが、アルフレッドはどこで食べてもあまり外れのないものを頼むことにしていた。それはあちこちを飛び回る経験からの結論だった。
「コーヒーとBLTサンドを」
「ホットドッグと、チョコレートパフェを一つ」
 クレアの注文に、アルフレッドがびくりと手を震わせた。一瞬であったがそれを見咎めて、クレアは不思議そうな顔をした。
「どうかしましたか、シンクレア」
「あ、いや」
 はっとしたように彼は顔を上げて、どこか不自然な笑みを作った。それが自分のした注文に起因するとクレアが知るはずもなかった。それで、何か変なものでも見たのだろうかと首を傾げるばかりだった。
 アルフレッドは自分の反応が引き起こした気まずい空気を断ち切るように、全く別の話題を持ち出した。
「そういえば」
「はい」
「まだ僕らは互いの名前しか知らないが、君が嫌でなければ、もう少し個人的な話もしないか。これからパートナーとしてやっていくわけだし、お互いのことをもう少し知ってもいいと思うんだ。それに、堅苦しい話し方も、君さえ嫌でなければ止しにしよう」
「では何から話しましょうか」
 そっけなく断られるかもしれないと思っていたが、クレアは真面目そうに頷いた。
「僕から話すよ。僕はヴィゼー出身で、今年で三十五歳になる。大学では経済学を勉強していたけど、人の役に立つ仕事に就きたいと思って警察に入った。広域捜査局に配属されたのは十年前だ。君は?」
「私はノースアヴェルニア出身です。年齢は二十六。最初からこの仕事に就きたくて、そのつもりで進学しました。でも、犯罪心理学は、抽選で入れたゼミがそれだったというだけで、初めは興味があったわけではないんです」
「へえ……」
「犯罪心理学と言っても、他人の心は結局のところ判らないと思いませんか?」
 クレアは難しい顔をした。
「時々、私のやっていることは、人の心の触れられたくない部分を掘り起こして、晒しものにしているだけでないかと思うことがあります。対象の心理に迫ることは確かに可能かもしれません。でも、やはりその当人にしか、心というものは判らないのではないかと思うんです。犯罪を犯した人間の気持ちは、同じ人生を辿り、同じ経験をしてみなければ判らないのかもしれません」
「そうかもしれないな」
 アルフレッドは反論しなかった。長い間、色々な犯人を見てきた。異常としか言えない者とも向き合ってきた。どんなに話をしてみても、彼らの考えていることは理解が難しかった。だから、クレアの言いたいことは判った。
「暗闇それ自体は目に映っても、その中に何があるかは判らないのと同じように」
 そこまでクレアが言ったところで、それぞれの注文したものが運ばれてきた。アルフレッドはコーヒーに砂糖を一杯加えると、軽くかき混ぜた。クレアはホットドッグを差し置いて、早速アイスクリームの山を崩しにかかっていた。その様子がセレストと微妙に重なって、アルフレッドはそっと目を伏せた。
「どうしたんですか。頭痛でも?」
「いいや。僕の妻もパフェが好きでね。付き合っていた頃、デートで入った店にパフェがあると、時間帯がいつでも必ず頼んでいたんだよ」
「……私がこんなものを注文したのを面白がっているのかと思いました」
「何でそんなことを」
「友人たちに言わせると、似合わないんだそうです」
 クレアはくすりと笑った。プライベートな話をしないかと言った時から、彼女はその言葉通りに打ち解けた態度を取っている。
「それより、早く食べよう」
 アルフレッドは言い、紙ナプキンで指が汚れないようにしながらサンドイッチを取り上げた。クレアがどんどん溶けていくアイスクリームをせっせと食べている間に、彼はその簡単な昼食を終えて立ち上がった。もともと食べるのは早い。
「先に勘定を済ませておくよ。後で君の分を払ってくれればいい。そこのディーラーで車を借りてくるから、食べ終わったら空港出入口の前で待っててくれ」
 最後のバナナを口に入れたばかりだったクレアは、何も言わずに視線で応え、頷いた。今度はアルフレッドにも微笑み返す余裕があった。確かに今までの印象からは似合わないが、彼女が甘いもの好きでも何もおかしくない。ただ、もう何年も見ていない光景だったから、ぎょっとしただけだ。
 なぜか彼女はアルフレッドにセレストのことを思い出させる。昨日出会った時から、ずっとそうだ。似ているところなど何もないと思っていたのに、パフェをいきなり頼むなんて。二十六だというなら、あの事件当時の自分達に近い歳。きっと、年が近いから、自分もその時に戻ったような気がしてしまっただけだ。
(今は仕事のことだけ考えなければ)
 アルフレッドは思いを振り切るように軽く頭を振った。生誕祭が近いから、思い出してしまうのだ。後一週間と少しでセレストの死んだ日、アンゼリオ祭の前夜になる。それまでは思い出さないようにしよう。
 言われたとおりにクレアが空港出口で待っていると、すぐにアルフレッドが戻ってきた。走りながら手招きをしているので、クレアも小走りに駆け寄っていく。クレアが引いていたキャリーバッグを、アルフレッドは何も言わずにひょいと片手で取り上げて、また走り出した。
「今、向こうの警察署に連絡を入れたんだが、今朝見つかった被害者が四人目と断定された。僕らが到着してから検死を始めるそうだ。君、検死に立ち会ったことは?」
「州警察時代に何度か」
「なら大丈夫だね」
「ええ、多分」
 駐車場に停めてあった車は、ダークグレイのセダンタイプだった。トランクにクレアの荷物も入れると、アルフレッドは後部座席のドアを開けた。だがクレアは開けてもらったドアを閉めて、助手席のドアを開けた。
「隣の方が話をしやすいです」
「そうだな」
 頷いて、アルフレッドはシートベルトを締めた。車は緩やかに発進した。
「現地に着くまで二時間以上かかるから、それまで眠っておいたほうがいいんじゃないか。移動で疲れただろう」
「いいえ、かまいません」
 クレアは真っ直ぐに続く道路を見つめて言った。
 そういった配慮は自分が女性だからだろうか。それとも、ただ単に彼の優しさからくるものだろうか。別部署にいる友人が、彼と組むことになると知らせた時、ひどく羨んだものだ。最初に会った時は冴えない男にしか見えなかったのに、今のこの顔はどうだろう。
 運転に集中しているアルフレッドの横顔は、精悍と言ってもいいくらい引き締まっていた。何故そんなに羨ましがられるのか判らなかったが、今なら少しわかるような気がする。彼は相手が同性であれ異性であれ、無意識で他人に優しくできる人間なのだ、きっと。
「今度の被害者はどんな人物だったんですか?」
「まだ詳しいことは聞いていないが、隣の市に住む十七歳の少女だそうだ。また国道45号線沿いで見つかっている」
「人種や特徴は?」
「わからない。被害者が出たというだけの連絡だったからね」
「行ってみなければわからないということですか」
 ため息まじりにクレアは呟いた。それきり会話らしい会話もなく、現地に着くまでの二時間は長かった。
 フォークリバーは全市で人口一万弱を抱える、アルミニア州としては中規模の町だった。フォークリバー市警察の殺人課に向かうと、この事件を担当している刑事が出迎えた。オルファル連邦の警察は、どの課でも案件は二人一組で担当することになっている。それが今回のような連続殺人や大規模な事件であっても、捜査の基本方針を決定し、捜査の中心となるのは最初に担当することになった捜査員であり、事件の規模に応じて担当が四人から六人ほどのチームになることはあっても、指揮権が他の捜査員に変更されることはない。もし他に指揮権が移るなら、それは広域捜査局の捜査官ということになる。二人を出迎えた刑事の年齢は五十前後、霜が降りたような灰色がかった栗色の髪はすでに半ば以上白髪交じりで、顔には疲労の色が見て取れた。
「広域捜査局のシンクレアです。こちらはフィッツジェラルド。よろしく」
「この事件を担当しているリドルです。相棒は今別件で出張中なので、ご紹介は後日になるでしょう。さっそくですが解剖室に行きましょうか」
「ええ。お願いします」
 死体安置室も兼ねている解剖室には外気と同じくらいひんやりとした、薬臭い空気がこもっていた。検死を行うリチャードソン医師は、リドルとそう変わらない五十がらみの痩せた男だった。
 解剖台に載せられた、死体を保管するためのビニールケースは驚くほど薄っぺらかった。ケースのジッパーを開け、中に入っていたものを見て、クレアが眉をひそめて前に立っていたリチャードソンを見た。
「これだけだったんですか」
「そうです。あとは彼女が身につけていたものと、所持品だけです。被害者の名前はキャサリン・マクドナルド。十七歳の白人です」
 リチャードソンの答えを聞き、クレアはそれきり黙って、彼が取り出していく死体の一部を見つめた。最初に、血液が抜け切ったために蝋細工のような色をしている、手首から上がない掌。それから、くるぶしから上がない両足。猟奇殺人の現場を数多く見てきたアルフレッドにはさして気味悪がるものではなかったが、隣のリドルは吐き気を抑えるように口を手で覆った。
「ご気分が悪いなら、外で待っていた方が」
「すまない……娘が同い年なんだ……」
 リドルは被害者と娘を重ねて、よけいに気分が悪くなってしまったらしい。真っ青な顔で出ていった。彼に付き添って一旦外に出たアルフレッドが戻ってくると、クレアと目があった。
「手足だけですか?」
 アルフレッドの質問に、リチャードソンは首を振った。
「まだあります」
 彼は細長い、赤い棒のようなものを取り出した。近づいてよく見ると、それは肉片や血管がまだ生々しくこびりついている骨だった。リチャードソンは黙って、同じような骨を幾つも出して、解剖台に並べていった。
 大腿骨、脊椎、骨盤と、ほとんど全身の大きな骨が揃っていた。それらを台に並べると、不完全な骨格模型のようなありさまとなった。その隣に、幾つかの臓器がトレイに載せられて並べられた。
 クレアは呟いた。
「ここにないのは頭部と胸部。内臓で無くなっているのは小腸と肝臓ですね」
「そのとおりです」
 台の上の死体は、人体というよりはパーツがばらばらになった玩具のようだった。クレアは少女の左手を持ち上げて、切り口を調べた。掌側の肉は押しつぶされたようにひしゃげており、露出した手首の骨には刃物で付けたらしい切り込みが入っていた。切断面は鋭く尖ってぎざぎざになっていた。犯人は骨を切断する手間を惜しんで、切り込みを入れてある程度の目安をつけてから折ったらしい。その証拠に、手の甲側の筋肉もまた不自然な断裂の仕方をし、皮膚がちぎれていた。
「今までのケースでも、鋸と思われる道具で体を切断しています。今回もそうですね」
 リチャードソンが言った。
「そのようですね」
「ただ、骨だけが捨てられたのはこれが初めてです。今まではばらばらにした遺体の一部が見つかっていました」
「肉も皮もついた状態で?」
 アルフレッドが尋ねると、リチャードソンは頷いた。
「ええ」
「内臓は?」
 クレアはトレイの上に並んだ幾つかの臓器に触れながら尋ねた。
「今までは全て捨てられていました」
 内臓に、特に処理を施されたような様子はない。素手で掴んで引きずりだしたようで、人間の掌の幅と同じくらいの幅で潰された部分がある。その大きさを記録したが、ここから指紋を採ることができないのが残念だった。
 解剖台の死体を見ながら、アルフレッドは不思議な既視感にとらわれていた。どこかで、似たような光景を見たことがあるような、そんな気がしたのだ。
(どこだ……?)
 記憶を手繰ってみたが、どうしても思い出せない。関わってきた事件が事件だけに、死体は見慣れている。ばらばらになった死体も初めてではない。そのせいだろうかと結論付けて、アルフレッドはひとまず意識からその疑問を振り払った。


(2012.9.30up)

1へ  3へ
web拍手
inserted by FC2 system