戻る


スローターマン事件 1


 霧のような雨が朝から降り続き、空は灰色に曇っていた。誰もがため息をつきたくなるような天気だ。空気は冷え込み、湿って重い。窓にびっしりとついた結露を拭い見下ろせば、町を歩く人々の傘が色とりどりに揺れながら、どこか生気のない様子で流れている。
 もうすぐあの日がやってくる。
 アルフレッド・シンクレアはボールペンの先でこつこつと机を叩き、頬杖をついた。難解だった事件の後始末がやっと終わったというのに、この天気。気分はとても、晴れやかとは言い難い。だが、ここ十一年、気分が晴れやかだったことなどあっただろうか。
「あれから十一年か……」
 アルフレッドは小さく呟いた。十一年は長いのだろうか。それとも短いのだろうか。どちらにしろ、年月は死者には関係のないものだ。セレストが死んだ時、一緒にアルフレッドの心も死んでしまった。今のアルフレッドにとって、人生とは死ぬためにやり過ごさなければならない時間でしかなかった。
 セレスト・リースマンのことは早く忘れて、新しい人生のパートナーを見つけるべきだと、誰もが勧めた。アルフレッドの両親はもとより、セレストの両親も、三年ほど経った頃にそう告げた。あれから付き合った女性も何人かいるにはいたが、決して友達以上の関係には至らなかった。彼の心にセレスト以外の女はありえなかった。そして、他の誰かを愛することも、二度と結婚しようと思うこともなく十一年が経とうとしている。
 いつだってアルフレッドは死を待っていた。だが死とは、そんな事を考えもしない人間のもとには突然訪れて、待ちわびる人間のもとにはなかなか訪れてくれないものらしい。セレストを喪って間もないうちは自殺も考えたが、信心深い両親は息子が自殺したなどとなったら気も狂わんばかりになるだろうし、たった一人残される妹の負担になるだろう。死ねば関係ないことだが、考えるだけで気が重くなる。
 彼は重苦しい思考を振り払うように視線を動かし、空いた片手に持った写真を見つめた。
 三歳か四歳くらいだろうか。写真の中で幼女が笑っている。カラー写真であったがそれはすでに黄ばみ、色褪せかけて、縁が反ったり曲がったりしている古いものだった。自宅の庭先で撮影したものだろう。芝の上に置かれたベンチに腰かけた愛らしい金髪の少女の後ろには母親らしい若い女が佇み、微笑んでいる。幸せそうな顔だ。
 だが、その写真には一つだけ奇妙な点があった。不思議なほど小さかったのだ。それは写真の右端が故意に切り取られているためだった。そのせいで縁すれすれになっている母親の左肩には、右側から背中越しに伸ばされて彼女の肩を抱いているらしい男のものと見える手がかかっている。それは多分、この少女の父親のものなのだろう。この写真の持ち主が、彼だけを切り取ったとしか考えられない。
 写真を裏返してみたが、覚書のようなものはなかった。それにしても、なぜこんな写真が廊下に落ちていたのか。アルフレッドは首をひねった。証拠品の写真なら、むき出しのまま落ちていることなどあるはずがない。誰かの家族写真が偶然落ち、それを拾ったとみるのが妥当だろう。
「フレッド」
 背後から声を掛けられて、彼は写真をデスクの上に置いて振り返った。課長のダニエル・ボウマンが見知らぬ女を隣にして立っていた。アルフレッドはなぜボウマン課長が若い女を彼のところに連れてきたのか咄嗟に判らなかった。
 十年前に彼がここに配属されてきた当時、まだ課長ではなかったボウマンはもう少し締まった体つきで、頭だってこんなに禿げていなかったのだが、年月とは残酷なものだ。ボウマンを何となく観察して、アルフレッドはそんな感慨にも耽った。
 それから、やっとその女性が自分と組むことになる相手なのだと合点がいった。今まで彼のパートナーだったターナーが定年退職したので、新しい彼のパートナーが殺人課に入ることになっていたのだ。記憶を辿ればすぐに思い出せる。着任の日が今日だった。だが、苗字だけを聞いており、年齢も性別も、経歴も聞いていなかった。
 てっきり同年代の男が来るのだとばかり思っていたので、とっさにその可能性が思い浮かばなかった。彼は女性を差別するつもりは毛頭なかったが、どうみても彼女は二十代半ばがいいところにしか見えない。
 複数の州をまたいだ犯罪、或いは地方警察の手には負えないと判断された難事件だけを特別に担当するこの広域捜査局に配属されるためには、登用試験だけでなく地方警察での数年間の実務経験が必要なので、新人というわけではないだろうが。
 彼女は背が高かった。ハイヒールを履いているせいもあるだろうが、百八十センチ以上ある彼が挨拶のため立ち上がっても、それほど小さいと感じさせなかった。チョコレート色のツーピースのスーツを一分の隙もなく着こなしており、緊張しているのかどこか張り詰めたような雰囲気を持っている。
 緩くウェーブがかかり、濃いめのウィート・ブロンドとでもいうのか、光輪を戴くように淡く金色に光る茶色の髪は肩で切りそろえられ、彼女の首筋を覆っていた。化粧っけのない顔はきついが整っている。何よりも印象的だったのは、まるで翡翠のような冷たい色の瞳だった。その瞳はいたって無感動にアルフレッドの上に置かれていた。
「今日からコンビを組んでもらう、フィッツジェラルドだ」
 ボウマンの紹介を受けて、アルフレッドは微笑んだ。
「初めまして。僕はアルフレッド・シンクレア。警部だ。よろしく」
「こちらこそよろしく、ミスター・シンクレア。私はクレア・フィッツジェラルド。階級は警部補です」
 握手を求めると、クレアはわずかに微笑みを返し、ごく普通に手を握り返した。愛想はあまり良くないが、べつだん常識はずれな人間というわけではなさそうである。この若さで警部補ということはよほど優秀なのか、キャリア組ということだろう。
「それで、早速だが彼女と担当してもらいたいのがこれだ」
 ボウマンがクレアをちらりと見てから、アルフレッドにファイルの束を手渡した。アルフレッドは一番上にあるファイルに貼られたラベルにさっと目を走らせた。
「アルミニア州フォークリバー近郊で起きた連続殺人は知っているな」
「《スローターマン》事件ですね。ダーティルで同様の被害者が出たと聞いた時から、こっちに回ってくるのは時間の問題だと思ってましたよ」
「ああ。それだよ。フィッツジェラルド捜査官は犯罪心理学が専門だそうだ。心理学の見地からのアプローチで、色々と判ることもあるだろう。では」
 ボウマンはゆったりとした足取りでオフィスを出ていった。それを見やってから、アルフレッドはもう一度クレアに視線を戻した。彼女は彼を真っ直ぐに見返していた。虹彩まで塗りつぶしたような緑の瞳だ。底のない緑の闇にも似ていて、恐ろしさすら感じさせる。
「どうする、フィッツジェラルド捜査官」
「私はまだ広域局での経験がありませんし、捜査のやり方はあなたの方がよく判っていると思いますから、お任せします。シンクレア警部」
「……まずは、そうだな。このファイル、君は読んだのか?」
「はい。こちらに伺う前に、ボウマン課長から説明を受け、一通り目を通しました。……その写真は」
「さっき廊下で拾ったんだ。ああ……もしかして、君のものか」
「ええ」
 聞きたいことは色々とあったが、アルフレッドは詮索するのは無作法だと判っていたので、その写真をすぐにクレアに渡した。彼女は受け取ると、大切そうにパスケースの間に挟んでしまい込んだ。
 父親だけを切り取った家族写真。それが意味するところは一つ。彼女が、切り取ってしまいたいほど父親を憎んでいるか、さもなくば母親が父親を憎んでいたか。どちらにせよ、家族から父親が疎まれているということだ。この背の高い、痩せた若い女捜査官の過去に何があったのかは知らないが。
「拾ってくれて、ありがとうございます。きっと、名刺を出した時に落としたんですね。失くしたとばかり思ってました」
 クレアは礼のついでに独り言のように言った。
「偶然だよ。とりあえず、僕はこのファイルを読まなきゃならないし、君にしてもらいたいことはない。本格的な捜査に入るのは明日からということにしよう。現場に飛ぶことになると思うから、その準備をしておいてくれ。君はこれからデスクの整理か? 手がいるなら言ってくれ、手伝うから」
「わかりました。ありがとうございます」
 クレアは頷き、アルフレッドを一人残してブースを出ていった。ハイヒールの音が遠ざかっていくのを聞きながら、彼はため息をついた。
 何だって僕が、あんな陰気そうな女の子と組まなきゃならないんだ。確かに僕には新しいパートナーが必要だが、ボウマンも何を考えているんだか。確かに彼女は若い女性で、しかもなかなかの美形かもしれない。だがああいうタイプは好みじゃない。見つめられると、何故か後ろめたい気分にさせられるような目をしていて。その点、セレストは……。
 ……やめよう。死者と生者を比べるなんてばかげている。
 ぶつぶつ言いながら、アルフレッドはファイルを開いた。いちばん最初に目に飛び込んできたのは、水中から引き上げられたばかりの死体の写真だった。とはいえ、広域捜査局殺人課の捜査官――しかも猟奇事件ばかりを十年間も担当してきた彼には、この程度の現場写真なら驚くほどのものでもなかった。
 問題の《スローターマン》はアルミニア州北部のフォークリバー市を中心として被害者が発見されている連続誘拐殺人事件の犯人に付けられたニックネームだった。同一犯と断定された被害者はまだ三人だが、同一犯と断定できれば他市での殺人事件も加わってもっと増えるのではないかと考えられていること、その異常性から人々に与えている恐怖は大きい。『解体屋(スローターマン)』というぞっとしないニックネームは、被害者をばらばらに切り刻んで捨てると言う犯行の手口から、マスコミがつけたものだ。褒められたことではないが、確かに的を射た命名ではある。
 事件の発端となった被害者はフォークリバー在住のヴァージニア・ノリス、黒人。三十四歳の主婦だった。十月二十四日の買い物帰りに行方不明になり、一週間後の三十一日に死体が見つかった。死体と遺留品はビニール袋に詰められて、隣接するダーティル州とをつなぐ国道45号線沿いの池に沈められていた。だが見つかったものは彼女の衣服と持ち物、そして内臓一揃いと手足だけである。頭と胴体はいまだに見つかっていない。
 二番目の被害者はフォークリバーの北隣、サルディカ在住の六十三歳のアメリア・ジョンソン。無職の白人女性だ。十一月八日に犬の散歩中に突然姿を消し、九日後に死体で発見された。彼女の場合も、身につけていたものと持ち物は全て発見された。しかし死体の方は、頭皮をくるりと剥かれた頭部と下半身だけであった。これは最初の被害者と同様にビニール袋に詰められ、やはり同じ国道沿いにある無人スタンドのごみ捨て場に放り込まれていた。そしてアメリアが見つかる数日前に、愛犬も首をひねられて殺されているのが最後に彼女が目撃された道路の近くで発見された。
 今のところ最後の被害者となっているのは二十歳の白人男性、ラルフ・チェンバーズ。彼はアルミニア州の西隣になるダーティル州在住で、アルミニア州との州境にある町のハンバーガーチェーン店で働いていた。行方不明になった八日後に手足と内臓だけになって、またも国道沿いの草むらに捨てられていた。今までの被害者と違うところは、付け根から切断されていた手足が肘から下、膝から下だけだったという点である。
 女ばかりを狙う連続殺人犯であれば、最後の被害者が男であるはずがない。そして被害者の年齢もまちまち。髪の色や目の色も、三人に共通点はない。しかもラルフ・チェンバーズは体格のいい青年だった。
 判らないのは次の三点だ。
 犯人は何故、年齢も性別も、人種もばらばらの人間を狙ったのか。
 なぜ、すぐに身元が判ってしまう持ち物や衣服を死体と一緒に、しかも二回目以降は見つかりやすい場所に捨てているのか。
 そして、見つからない死体の一部は、どうなったのか。
 容疑者らしい人物像はいまだに浮かんでこない。最初の事件からもう二カ月が経とうとしている。マスコミも警察への批判を強めている。だから焦って、広域捜査局に協力要請をしてきたのだろう。三人目の被害者が別の州の住民であったこともあるのだろうが。
 要請された以上は、全力を尽くすまでさ。
 アルフレッドはファイルを閉じ、背もたれに体重を預けて背を伸ばした。とりあえず今日は家に帰ろう。それから、アルミニアに飛ぶための荷造りをしなければ。現場に行かなければ捜査はできないし、どうせ泊まりがけの捜査になるのは目に見えている。
 毎年、「あの日」だけは仕事を休んでいたが、どうやら今年はそれもできなさそうだ。その上、組んだばかりの新人捜査官と二人で過ごすということになるのだろうか。彼は急に疲れが出るのを感じていた。
 クレアはアルフレッドに挨拶した後、同じ課のメンバーたちに挨拶回りをし、自分のデスクにデスクトップパソコンや資料などを運ぶ作業に黙々と従事していた。資料の詰まった段ボール箱を運んでいた時に手伝おうかと申し出たが、それは丁重に断られた。そんな感じで、ほとんど会話らしい会話も交わさないまま定時となった。


(2012.9.30up)

戻る2へ
web拍手
inserted by FC2 system