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     あの男は目の中に凶星を持っている
     あの男はいつかペルジアを滅ぼす
     いや、エトルリアも、ラトキアも
     そして中原を、世界をも
              ――リール公女



     第二楽章 幻想即興曲『塔』


「父上も宰相も何の役にも立たぬ」
 よほど頭にきているらしく、アルドゥインの後をついて走りながらリールは広間を出るなり大声で罵った。
「母上などは論外として――わが姉どももだが。それにしても男どもがもうちょっとは気概を見せてくれそうなものだ――わが公都の炎上を目の前にして、きゃつらのなしうることは両手を差し上げて嘆くのみとは」
「あのような炎の前には誰しも動転いたそう。あまりに圧倒的な脅威の前にはなすすべとてもないもの」
 アルドゥインはすたすたと、ほとんど走るように塔に向かって歩きながら答えた。
「しかし風が強くなってきたのが心配だ。万一とは思うが、碧玉宮からの総員退避の手筈を整えておかれたほうがよろしかろう」
「どこなら安全だと言える、アルドゥイン。いったいどこまで首都を捨てて落ち延びれば」
「ヒダーバードかと」
 そっけないいらえであった。
「ヒダーバードはかつての城塞都市、当座の雨風も防げるだろう。本丸はルノーの手により焼け落ちてしまったが、他の郭はいまだ無事。碧玉宮の人々全てを受け入れるだけの余裕はあるかと」
「だが、火難に見舞われたイズラルを捨てて!」
 リールは衝撃を受けた様子で叫んだ。
「我らは誇りあるペルジアの大公家の一族ぞ!――とはいうものの、いざとなれば、我が同胞どもこそまっさきに泡を食ってヒダーバード目指して逃げ出してゆこうな。そのさまが目に浮かぶわ。――卑怯未練の者どもめ」
「この扉の鍵は?」
 アルドゥインは塔の入口の扉にさしかかっていた。
「鍵がかかっているか。誰ぞある、鍵を――」
「時が惜しい」
 アルドゥインはリールを止めた。
「公女殿下、御免」
 リールを引き下がらせるなり、やにわに身を低くしてドアに体当たりをくれる。頑丈なドアだったが、さすがに二三度繰り返すと一たまりもなく吹っ飛んだ。
「炎の及ぶより早く、少々宮殿を破壊してしまったが、お気を悪く召されるな」
 珍しくもアルドゥインにしては多少冗談らしい口調であった。リールはうっとりとしたようすでそのアルドゥインを見つめた。
「このような際ではあるものの」
 思わずぽっと頬を染めながら呟く。
「これぞ男ぞ――これぞまことの勇士ぞ。そうじゃ、アルドゥイン。このような男ぶりこそ我がペルジアから消滅して久しきもの。――そのうえそなたの、そのめったにおらぬほどの美しさ……」
 その場にアインデッドがいたなら、美男と野獣だとはやしもしただろうが――アルドゥインは泡を食って何も聞こえなかったふりをして、ぽっかりと空いた入口から塔のてっぺんに向けて駆け上がっていってしまった。リールも慌てて後を追う。
 塔の中は螺旋階段がぐるぐると上がっている。それを、すらりとした足に疲れも見せず、アルドゥインはどんどん駆け上がってゆく。
「待って――待ってたもれ、アルドゥイン。おなごのわらわには、そのような速さでは……」
「ゆるりとどうぞ、リール殿下。あるいは下でお待ちあれ。情勢は俺が検分し、ご報告申し上げるゆえ」
 リールがさすがに悲鳴を上げても、はるか上からそっけないいらえが返されてくるだけであった。リールは歯を食いしばって駆け上がっていったが、とうとう途中でさしも鍛えたリールも降参して――もっとも筋肉と体重の比率で言うと、全身無駄のないアルドゥインと、相当の脂肪の底上げもあるはずのリールとでは、リールにハンデがあったことは認めなければならないだろうが――はあはあと息を切らし、アルドゥインよりもかなり遅れて塔の最上階にようやくたどり着いたのだった。
 塔のてっぺんはゼーア様式に従った、テラスをめぐらせた望楼となっている。この塔は鐘楼ではなく、本来はやはり物見の塔として使われていたものだろう。
 息を切らしながらリールがよろよろと扉を抜けて望楼に出てきたとき、アルドゥインはすでに両手をそのテラスの手すりについて、眼下に広がるイズラル市街の様子の偵察に余念のないところであった。
「おうっ……」
 自らも望楼の端に寄ろうとして、リールは思わずうめく。上空には非常に強い風が吹いていた。大火にあおられて起こり、大火をいっそう激しく燃え上がらせている強風であっただろう。あわやさしもの女猪も吹き飛ばされかけて、慌てて手すりにしっかりと掴まった。
 アルドゥインが両手でしっかりと手すりを掴んでいたわけがいやと言うほど飲み込めたのだ。強風が激しくマントをはためかせ、下手をしたらこの地上数十バールの塔の上から吹き飛ばされてしまいそうになる。だが、それよりも圧倒的だったのが、望楼から見晴らしたその目に入った光景であった。
「これは、凄い……」
 覚えず、うめくような声がリールの口から漏れた。
「イズラルが、燃えている……」
 感慨とも、呻きとも、絶望と怒りの声ともつかぬかすれ声。
 アルドゥインはあえてそのリールをかえりみようともしない。両手でがっしりとその古い手すりを握りしめ、黒髪とマントとを強風にはためかせながら、その目は食い入るようにイズラル市へと向けられている。
 イズラルは燃えていた。
 アインデッドが丘の高みからイズラルを見渡していたのもほぼ同じ刻限である。――だが、かなり離れた丘の上から見下ろすのと、まさに火の手が取り囲むようにして迫りつつある碧玉宮の真っ只中から見下ろすのとでは、その臨場感と迫力において相当の違いがある。
 その上に、アインデッドにとっては、それこそこれは一場の高みの見物、おのれが放った火ではあっても、巨大なかがり火でも眺めているような、他人事の災難に過ぎない。だが、アルドゥインにとっても、リールにとっても、これは今まさにおのれが戦っている炎という怪物のせめぎ合いそのものであったのだ。
(燃えている……イズラルが……)
 おそらくは、たった今鎮火しえたとしても、イズラルのこの災難で受ける被害は莫大なものになるだろう。
 ペルジアは敗戦と講和をあがなうための賠償金の負担のほかに、さらに首都の半ば以上が灰になり、多くの痛ましい犠牲者を出したという悲惨きわまりない状況の被害をも、老いて疲弊しつくしたその背中にさらに受けなければならないのだ。
 ペルジア正規軍の出動によって、ラトキア軍がイズラルに火を放った当時、市中に残されていたのは圧倒的に老人や女子供が多かったはずである。男たちが戦いのために出動している間の大火とあっては、なおのこと被害は大きいだろう。
 イズラルは燃えている。ここから見ると、炎はさながら生き物のように、巨大なアメーバ状の怪物のように、それ自体呪わしい禍々しい悪意と殺意を持って、この古都にじわりじわりとのしかかり、襲い掛かり、なめつくそうとしているかのように見える。
 それ自体の黒い意思をさえ感じさせるほどに、それはじわじわと四方からイズラルを取り囲み、なめあげ、ゆっくりと突き進んで最終的には碧玉宮を目指そうとしている、という印象を受ける。
「恐ろしい……」
 さしも気丈のリール公女でさえ身震いした。
「あの炎の中に無辜の民が……たくさん逃げ遅れて燃えているのか。生きながら松明と化しているのか……」
「石造りゆえ、もう少しは被害の広がりが遅いかと、たかをくくっていたのかも知れません」
 アルドゥインは口重く呟いた。
「何年か前……オルテアで火事のあったときは、全て石造りの家ばかりだったので燃え広がらなかったと聞き、同じようにイズラルも燃えにくいものと決め付けていた。……イズラルは多分、ゼーア様式の石造建物の間に新造の木造建築があるのがこたえたようだ」
「この火」
 ぶるっとその逞しい体を震わせて、リールは呟いた。あたかも非常な悪寒にでも襲われたかのようだった――眼下ではあれほど盛んにごうごうと唸りをあげ、ぱちぱちと火の粉をはぜさせて、暗闇をあざむいて炎の海が吠えたけっていたにもかかわらず。
「まことに――まことに消える時がくるのであろうか。それともこの火はヤナスの定めの火――イズラルの全部を焼き尽くし、碧玉宮をも、その中に込められた者たちの呪いもろとも焼き尽くしてのけるそののちまでは、けっしてやむことはないのであろうか。……これは、これはペルジア最後の日の光景なのだろうか――?」
 アルドゥインは何も答えなかった。ただ、食い入るように、その漆黒の瞳に恐るべき火魔を映しながら、燃えるイズラルを見下ろしているばかりであった。
「アルドゥイン――」
 リールはやがて、さらに強くなりゆく強風にあおられて耐えているのが苦痛になってきて、おずおずとアルドゥインに声をかけた。また、何を言うにもわが大公家のしろしめすこの公都がこうして宿業の炎に焼かれて壊滅してゆくのを、このような高みでこうして手をこまねいて見ていることは、彼女にとっては耐え難いことだったのだ。
「私は、そろそろ下に戻って、指図をしてやらぬと……おそらく私がおらねば、あのふがいない連中は何ひとつ、まともにことを運ぶこともできはすまい。――私もそなたと共に広場の本部に行くゆえ、メビウス軍と協力してペルジア軍をどのように使うたら最も効率が良いか教えてたもれ。……今となっては頼みにできるのはそなた一人、おかしなことだな」
 が――アルドゥインは何を思うのか、答えない。
「アルドゥイン――!」
「あ、いや」
 アルドゥインは重ねて呼ばれて、ようよう我に返ったように目を上げた。強い風に激しくあおられながらリールを見返る。
「ああ。――もはや時が移るようですね。ここよりこうして見下ろして、ようやく大体の火災の全貌がわかった。直ちに戻って指揮を取らねば。――ここから、全体の形勢を見下ろしつつ広場に連絡を取り、そちらの延焼を食い止めるべく建物を引き倒せ、こちらの何地区に助けを求める人影あり、などとこまごまと命じて兵を動かすすべが何かあればよいのだが。――この塔まで駆け上っては駆け下りていては、その間に間に合わなくなってしまうだろうから」
「……」
 リールは、アルドゥインが何を言っているのだろうといぶかしげにその顔を見上げた。が、アルドゥインは首を振った。
「いずれにもせよ、俺も戻らねばならぬし、ペルジア軍の協力をあおぐことはもとより――というよりももともとが、メビウス軍はただペルジア軍に協力して鎮火に当たっているというだけの立場。ただ、正直を言えばメビウス軍の方が使いやすいのは確かなことなので、ついついメビウス軍を主力として使ってしまっていたが、これは失礼であるやもしれぬ。リール殿下のお指揮を仰げれば、これは心強いこと」
「そう言ってもらえるとわらわも多少気が休まる。参ろう、アルドゥイン」
 リールはとっとと望楼から塔の中に入ろうとしかけた。さすがの強者リールも、この状況下とあっては、いかに彼女好みのアルドゥインと二人きりになったところで色がましいまねは仕掛けかねたと見えて、しごく真面目な面持ちである。
 が、またしてもアルドゥインは動かなかった――いや、すでに望楼を離れようとして、ふいにまた足を止めた。
「どうした?――アルドゥイン」
 リールが戸口からいぶかしそうに振り返る。アルドゥインが、歩き出そうとしたまま、何かの呼び声にでも耳を傾けているかのように見えたからだ。
「アルドゥイン――?」
「……ただいま」
 日頃のあの集中力と機敏さと、そして一瞬として現在の事態から気をそらさぬ能力を持つ彼にしては、異様な気のとられようだった。リールはそうとまで知らぬながら、何か妙な感じを受けてまた声をかけた。
「アルドゥイン。――アルドゥイン……?」
「今参ります」
 もう何事もなかったようにアルドゥインは答えた。そして、あかあかと地平を染めて燃え盛っている炎にイズラルに無感動な一瞥をくれて、そのまま戸口をくぐり、望楼から塔の中に入った。今度は先ほどに比べれば急ぐ様子もなく――といって、むろんのろのろとはしていないが、リールの後について塔の螺旋階段をおりてゆく。


(2017.2.10)

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