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 アインデッドに率いられたラトキア軍とルカディウスに率いられてきたさほど多くないエトルリア軍が、ていよくイズラル市中から遠ざけられて、郊外の丘の上に野営の陣を張っていた頃。
 メビウス軍の方はそれどころではない、多忙な時間を過ごしていたのだった。
「第一隊は東門へ! 第三隊は負傷した市民の救出に当たれ!」
「第四隊、重騎兵を引きつれ、延焼を防ぎに回れ! 燃え移りそうなもの、木や紙、布類を倉庫から出して風上に移し、燃えやすい建物は引き倒せ! 第五隊も協力せよ!」
 アルドゥインのきびきびした指示のもとに、メビウス軍はペルジア軍と協力して、イズラルの大火の鎮火に必死になっていたのだ。
 もはやこうなっては敵も味方もない。イズラルが炎上してしまっては、いくら直接の敵ではないとはいえ、これを看過して帰国すればメビウスがペルジアに対して不当に残酷な対応をもって臨んだ、と国際世論から言われてもやむをえない。ラトキア軍がイズラルを炎上させた、メビウスは関係のないことであるとだけ申し開きして済むという問題ではないのだ。イズラルは中原の最も古い文化を伝える都であった。
 幸い、イズラルの建物は基本的にヒダーバードと同じく、石畳を連ね、石の建物がかなり間を置いて立ち並ぶ古代ゼーア形式のものが多い。
 だが最近に建てられたものにはけっこう、木や軽い建材を使っているものも多かった。ことに下町の庶民たちの住んでいる辺りは、巨大な石造の古い建物の間をぎっしりと小さな木造の家々が埋めていて、そのあたりでの大火の被害はことにひどかった。
「アルドゥイン様、南西タリア区の住民たちの避難誘導は完了いたしました」
「タリア地区の一般死傷者は思いのほか多く、およそ二千人以上にのぼりそうです」
「とりあえずタリア地区の住民たちは風上の北キケロ区に避難させておりますが、市民たちの動揺著しく、中には見失った家族を探したり、家財道具を少しでも火の中から助け出したいと我々の目を盗んで抜け出し、炎の海の方に立ち戻るものも後を絶たず、なかなか統御しかねております」
「キケロ区の南端に火の手が及んでまいりました。開放させた北キケロの貴族の屋敷に避難しているタリア区の住民たちが不安に浮き足立っております」
「南タリア区の住民は現在ペルジア兵が誘導して退避させようとしておりますが、大混乱に陥っております」
 引きもきらずに届く報告はみな、大火のすさまじさと、そして旧都イズラルの陥った大混乱のどうにもならなさを伝えてくるものばかりである。
「すまぬの、アルドゥイン殿。降伏した我らがこのように申すのはまことに筋違いなことであるのは承知だが、おぬしらメビウス騎士の力を借りなんだら、ペルジア正規軍だけではこの災厄に全く手の打ちようもなかったに違いない」
 老骨に鞭打って退避と鎮火の陣頭指揮を取るためにアルドゥインに合流したペルジアの老宰相アヴィセンは疲労困憊しはてた土気色の顔に涙を浮かべてアルドゥインの手を取るばかりであった。
 この哀れむべき老人は困ったことにシルベウスの病もちで、美少年、美青年好きときており、前回ペルジアを訪れた時にも副官を務めたヤシャル百騎長に朝っぱらから誘いをかけていたくらいだった。それを知っていたアルドゥインとしては、手を撫でさするように取られてあまりいい気がしなかった。
「わしも長い間生きてきて、このような恐るべき災厄に遭う日がこようとは思わなんだ。長生きはすまじきものでありますの」
「消火の状況は」
 もう、アルドゥインの方は宮廷の老人によくありがちな気風や、前回の遠征でいやと言うほど思い知らされたペルジア人の作法、苛々させられるような回りくどいその反応を適当に無視してどんどん話を進めてしまうしかないのをよくわきまえている。この時もアヴィセンの愚痴に適当に相槌を打ちつつ、どんどん命令を下し続けていた。
「はっ。かんばしくありません。そろそろ竜吐水の備蓄が底をついてきたようです。それに水は火勢がここまで強い時には、あまり役に立ちません」
「まだ、火の勢いは衰えないのか」
「はい。――タリア区以南では、ようやく下火になってまいりましたが、それは鎮火したゆえではなく、その地区ではあらかた燃えるものが燃えつくしたために、火が燃える種を失って少し衰えてきたというに過ぎないようであります。まずいことに風がしだいに強まってきており、このままだといずれは碧玉宮へも火の手が及ぶかもしれません」
「碧玉宮へ!」
 アヴィセンは仰天して叫び声を上げ、おろおろと手をもみしぼった。
「なんということだ! 万一にもそのようなことがあってはならぬ! このイズラルと言えば中原にも名だたる古い伝統あるゼーアの末裔、しかもそこに集められたあまたの文化遺産と言うものは、人類全体の至宝と言うべく……」
「ご案じあるな、アヴィセン宰相」
 アルドゥインは荒っぽく遮った。
「碧玉宮に火は寄せ付けさせぬ。我らよりよくご存知のはず、碧玉宮の周辺にはかなりの広さにわたって石畳が敷き詰められている。あそこで火を撃退しうれば、決して碧玉宮炎上という最悪の事態には至らぬ。恐れるべきは飛来する火の粉だが、これは失礼してペルジア兵の力を借り、碧玉宮の屋根屋根に上らせ、飛び来た火の粉はいちいち払わせ、水をかけさせるよりほかあるまい。水でむろんいささかの被害は出ようが、それでも碧玉宮炎上に比べれば数段ましと思し召されよ。――その人数の手配もすでに済ませてあれば、ご心配なさるな」
「まことに――まことに大丈夫であろうか。大丈夫だという保証はあろうか」
 老宰相はもごもごとアルドゥインに取りすがった。
「わしの――わしの官邸も南タリアにあったので、もうとくに焼け落ちてしまった。わしはもはや裸一貫じゃ。宰相だとはいえ全ての財産は官邸にあったもので、今のわしはもう――もう……」
「そのお嘆きはもっともながら、いまやイズラル市民の半数以上が焼け出されの憂き目を見ていること」
 アルドゥインは面倒くさいのをこらえた。
「ともかくも皆が懸命に炎と戦っているおりでもあれば、今しばらくお時間を。アヴィセン閣下」
「おう――おう、わしの家が……わしの財産が……わしの美しい絵画と芸術品のコレクションが……」
 老宰相はすっかりおのれの災難に心奪われてしまっていて、全くアルドゥインの言葉を耳に入れたようでもなかった。呆れたようにアルドゥインは軽く肩をすくめて、なおも何かかきくどいている宰相をそこにおいて出て行ってしまった。慌ててセリュンジェが追いかける。
「馬」
「はっ」
 たちまち当番の小姓がアルドゥインとセリュンジェの馬を引き出してくる。
「どちらへ? 閣下」
「碧玉宮へ。情勢の説明と、リュアミル殿下のご様子を伺いに。それからイズラルで最も高い碧玉宮の塔から火の勢いを見極めてくる」
「かしこまりました」
「すぐ戻るゆえ、先ほど指令を出したとおりに」
「心得ております」
「ついてきてくれ、セリュンジェ」
 彼らは、先ほどリール公女とアインデッドが激突した辺りから碧玉宮へ向かう道筋であり、イズラルの最も広い広場である王宮前広場にメビウス軍の本部を置き、そこから四方に伝令を放って火災と戦っていたのだった。この火急の――文字通りに――さいとあって、さしも形式ばった碧玉宮門扉もずっと開け放たれ、ましてアルドゥインとその側近の姿を見咎めるものとてない。
 それ以前に、もはや碧玉宮の中ではこの期に及んで閣僚会議もへちまもなくなり、ただあとはおのれの無事と財産の救出のみに必死になっていた。イズラルの重臣、廷臣たちはあるいは宮廷を抜け出しておのれの私邸から財産の運び出しにやっきになり、あるいは家族を避難させるために大騒ぎし、あるいは多少ましなものは火災の対策にあたって、宮殿の中もまた市街とおっつかっつの大混乱に陥っている。
 泣き叫びながら荷物をまとめようとしている女官たちだの、なにやら興奮して怒鳴りあっている廷臣たち、また宮廷中を駆け回っている使用人たちを尻目に、アルドゥインは主宮殿前で馬を下り、近習に預けるとセリュンジェ一人を従えて大股にその混乱状態の碧玉宮へと入っていった。
「おう、アルドゥイン! 来てくれたのか」
「大公閣下」
 主宮殿の謁見の間にペルジア大公アダブルと大公妃ファレン、そして三公女や主だった重臣たちは全て集まって右往左往していた。
 もっともらしくその真ん中にテーブルを置いてイズラル市の地図を広げ、そこに旗印などを立てて被害状況を検分しているようではあった。だが室内に入っていった瞬間にアルドゥインとセリュンジェに見て取られたのはこの部屋に集まっている大勢の人間が、すでに全く半狂乱の状態で、まともに物事を判断できる状態ではなさそうだ、という望み薄な事実であった。
 アダブル、時に五十六歳――しかし一見したところは、もう五、六歳は若いように見える。彼はどちらかと言うと痩せた男で、背も大きからず小さからず、ごく醜くもなければ眉目秀麗でもなかった。一言で言えば、この大公の特徴はその中庸というか、凡庸さにほかならなかった。
 だが気概というものは、相変わらず中庸というよりはかなり無いほうに近いらしく、現に、アルドゥインを見るなりアダブル大公は挨拶も儀式も忘れてまろびよってすがりつき、繰り返すのはまたしてもアヴィセン宰相と同じ埒もない繰言ばかりであった。
「何という災厄がイズラルを襲ったのだろう! なんという災厄だろう!」
 彼はおのれの頭を打ち叩きながら繰り返した。
「このような大事件出来のさいに大公としての在位にめぐり合わせるとは、わしはなんという不幸者だろう! 父上は何事もなく、それこそ大戦争の一つもなされず、さしたる非難も浴びぬままに首尾よくペルジア大公としての生涯を全うされたというのに! いや、わしは、断固として亡き父上よりも わしの方が暗愚だなどとは言わせぬぞ! 父上にはこのような試練はなかった。試練に遭って初めて人はおのが力量の限界を知ることができるのだ。アヴィセンが何と言おうと、わしは――」
「アルドゥイン」
 呆れてこの様子を見ているアルドゥインにすっと近寄ってきたのはリール公女であった。残りの麗しい二公女、セリージャとメーミアとは、それぞれの性質に従い、全く違う行動をとっていた。
 ――すなわち『人間クジラ』の異名をとる長女のメーミアは震えている女官たちに囲まれて部屋の隅で何事にも全く無関心に相変わらずチョコレートや砂糖たっぷりの菓子をひたすらむさぼり食っていた。
 そして地獄の亡者のような守銭奴のセリージャはここには姿が見えないと思ったところが、女官たちを叱咤しながら巨大な荷物を運び込んできて、それからまたいかにも忙しげに姿を消したかと思うと、またしても荷物を抱えてよたよたと入ってくるのだった。どうやらおのれのこれまでに蓄えたがらくたを、万が一にも炎に焼かれてなるものかと、全て荷造りをしてどこかに運び出す算段らしい。
「誰一人としてまともなものはおらぬ。誰一人頼りになるものもおらぬ」
 リールは強く舌打ちした。そしてアルドゥインの腕を掴んだ。
「この国はもう駄目だ、アルドゥイン。この国のやからは全て腐り果てておる。私としては、このような老いぼれて腐り果てた国の首都などいっそきれいさっぱりとすべて燃えて灰となり、その中からよみがえる不死鳥となれ、と思わぬでもないが――しかし公女の身としてそのようにばかり言ってもおられぬでな。アルドゥイン、火勢はいかに」
「下火になっておらぬようです」
 アルドゥインは手短に告げた。そういう時ばかり耳をそばだてて固唾を呑んでいた廷臣たちが一斉に悲鳴や泣き声やヤナスを呼ぶ声を張り上げる。
「えい、やかましい、埒もない」
 リールはいっそうかっとなったようだったが、ぐっと自制した。
「消火用水は足りているのか」
「いや。もう底をついてきました。また水はあまり、この規模の火災となると役に立たぬようです。少なくとももっと一度に浴びせかけられぬかぎり」
「では、火はいずれ碧玉宮にも及ぶということか」
 セリージャはちょうど巨大ながらくたを詰め込んだ袋を引きずりながらえっちらおっちらとまた広間を横切ろうとしていた所であったが、妹のこの言葉を聞くと一瞬立ち止まった。が、それからまた、そうであってみればいよいよこんなにのんびりしてはおられぬとばかり、決死の形相ものすごく、袋を引きずって哀れな女官たちを罵りながら駆け出していった。リールはそれにちらりと目をくれることさえしなかった。
「いや」
 アルドゥインは辛抱強く――彼にしてみれば、その程度の情報はペルジアの首都なのだからペルジア側で集めてくれ、と言いたかったに違いないが――答えた。
「碧玉宮の周りには王宮前広場がある。あそこに今我らが本部を置き、同時に周辺の家々を失礼ながら破壊させていただき、いっそうさらに空き地を広げるように計らっている。かつ、ペルジア兵に王宮の屋根に上らせ、飛び来る火の粉を払わせるよう備えさせていれば、碧玉宮に火が及ぶのは生半可なことではないだろう。それまでに、俺としては多少当てにできることがある」
「なんだ、それは、アルドゥイン!」
「雨です」
 アルドゥインは答えた。
「古来アルカンドの書にもあるごとく、大火は風を呼び、風は雲を呼ぶ。それゆえ、大火が起こると必ず大雨が降ってくるはず――それを待ち、自然の恵みを以って鎮火するよりこの場合、やむをえないかと」
「だが降らなかったらどうするのだ、アルドゥイン。そのようなものだけをあてにしているわけにはいかぬのだぞ」
 リールはかっとなって言いかけた。が、首を振った。
「いや、これはわれがそなたに言うべき言葉ではない。これはペルジアの問題なのだ――こなたはラトキア軍をひかせ、ペルジアに対処すべき敵を炎だけにしてくれたのだから。礼こそ言えどそなたを責める事など言えぬ。最悪の場合は我らはこの炎にあぶられつつ、凶悪なラトキア軍の略奪に踏みにじられる、生き地獄の憂き目を見なければならぬところであったのだ。そのことを忘れていた」
「いいえ」
 アルドゥインは首を振った。
「どこへゆく、アルドゥイン」
「全市の状況はこのセリュンジェよりご報告申し上げる。俺はこちらにてご休息いただいているリュアミル殿下をお見舞いした後、塔を拝借し、物見を兼ねてと思って参上いたした」
「私も行こう、アルドゥイン」
 リールはすでに部屋を出かけているアルドゥインの後を大急ぎで追った。


(2016.10.30)

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