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「リール殿下」
 ふいに、何でもない世間話をしているかのような何気ない口調で、アルドゥインは聞いた。
「少々立ち入ったことをうかがわなければならぬが――この戦争の始まりであるラトキア国内の内乱の頃、お国で何か変わったことなどなかっただろうか?」
「変わったこと――?」
「ええ。具体的に申せば、ナーディル公子の後ろ盾にとの意見は突如として出てきたものであったとか、反対していた者たちが突然こぞって翻意したとかいったような」
「なんと?」
 リールは先に立って螺旋階段を下りていた足を止め、怪訝そうに――そして多少胡散臭そうに、アルドゥインを振り返った。階段にはほとんど明かりがついておらず、所々に明り取りの窓がある程度だったので、塔の中は暗く、かなり不気味であった。
 リールのような剛の者でなかったなら、普通の女ならとうてい恐ろしくて夜このような塔のただなかに入ってゆくことは、たとえアルドゥインと一緒であったにしろできなかったに違いない。
「なにゆえに、さようなことを聞くのだ。何か、かかわりあってか、アルドゥイン」
「判りません――ただ、あるいは重要なこととなるかもしれぬので、是非まげてお答え願いたいのだが」
 アルドゥインの声は断固としていた。その声にひそむ何らかの響きが、かつてひとたびとて男子に屈したことのないのを――師匠であるトティラ将軍や、アルドゥインに負かされたのは除くとして――誇りとするリール公女をもはっとさせたようだった。
「そなたが今、言ったことだが……そのとおりだ。ナーディル公子がシェハラザード大公に対し反乱を起こしたと知らせを受け、我々は対処を考えるべく会議を開いた。もちろん私はラトキアの内紛には手出し無用の事と言った」
 リールはしぶしぶ言った。
「だが父上はそれをはねつけた。私の言うことならばほとんど何でも聞き入れてくれるはずの父上が、だ。そなたも見たであろう、我が父上を。父上は元来、大それた願いや野望を持つような方ではない。いうなれば無気力なのだがな。それが急に、アクティバル将軍の申し入れを受け、ラトキアの公子の後ろ盾になり、ラトキアを手に入れようなどということを考えたのだから、私としてはただただ意外なばかりであった。あまつでさえ――笑わないでくれ、アルドゥイン。だがきっと、中原ではもう物笑いの種なのだろうが――あの少年と私か姉たちとの縁組などと、常識はずれなことまで言い出す始末。まるで先のメビウス侵攻のときのように」
「……」
 アルドゥインはじっと何かを考えている。リールは不安になってきてアルドゥインを見上げた。
「どうしたのだ、アルドゥイン。念のために申しておくが、もはやペルジアはこなたを騙そうなどとは露ほどにも、髪の毛一筋ほども考えてはおらぬぞ。できうることであればこの心の中を見てほしいほどだ」
「決して、さような」
 アルドゥインは言った。だがその目は暗闇で爛々と光っていた。まるで、闇の中で獣の目にでも射すくめられたかのようにリールはぶるぶると全身を震わせた。
「そ、そのような目で見るでない、アルドゥイン。どうしてそう、美しい顔をしていながら、そのような目ができるのか……。重ねて言うが今のペルジアに何条もってこなたへの悪意がありえようか? それどころか、この災厄を逃れるべく、我らが頼みにするのはこなただけなのだぞ。もうどれほど言葉を飾ったところで詮無いこと、私は率直に申そうが、こなたが引き留めてくださらねば、恐らく今頃あの炎の中で我がイズラルはあのアインデッド率いるラトキア軍の略奪と虐殺とにさらされて全滅していることであろう。それはよう判っているのだ、アルドゥイン」
「……」
「トティラより申し入れがあってより、ただちに慌てふためいて父上がなされた唯一のまともな大公らしいことは、ラトキアとの戦争にすぐに降伏したことぐらいだ。だがそれも、そなたの力添えがあっての事。私はようわかっておる」
「そうではないのです」
 アルドゥインはゆっくりと答えた。明らかに彼は、どこまで口に出したものかひどく迷っているようだった――それから、やにわに考えを決めた。
「リール殿下。俺も率直に申し上げる。すでにこの大火は俺一人の力などではいかんともしがたい、大自然の猛威となってイズラルを襲っている。それに対して我ら紅玉騎士団としてはなすだけの手は打っている。彼らは俺の命令によってどうすればいいかも心得ているし、またそれ以外になすすべはない。そしてまた、俺が先ほど申したとおり、必ずほどなく大雨がイズラルを救うはず。――ただいまこの強風のさなかで空の様子を見ましたが、すでに星は見えず、夜空は雲で覆われ、その雲は非常な速さで風に運ばれている。雨は必ず降ります」
「アルドゥイン、そなた……」
 あの強風にあおられながら、気候状態までも全て観察していたのかとリールは舌を巻いて思わず叫んだ。だが、アルドゥインはそんなことに構う気持ちさえなかった。
「雨が降らねばあるいはこの大火は何日にもおよび、最悪の場合やはり碧玉宮へも延焼が及ぶことがないとは言えないが――それはすでに賭けです。したがって俺が言いたいことは、もはや、この俺が陣頭指揮を取っておらずとも、紅玉騎士団は恐らく俺がいるのと変わりなく適切な手を打ってくれる、ということだ」
「アルドゥイン、そなた何を言いたいのだ」
 不安になってリールは言った。アルドゥインはさらに驚かせた。
「しばらく――ほんの一、二テルでよいのだが、俺をここに一人にしておいてはもらえないだろうか。少し思うところがあるので」
「アルドゥイン!」
「あ、いや」
 アルドゥインは首を振った。
「これはリール殿下のお言葉を疑ってのことでもなければ、またペルジアの誠意と窮状を無視してのことでもないと申し上げておこう。それとは全く関わりなきこと――だが、俺にとってはきわめて重要かも知れぬと思うがゆえのお頼みなのです。――どうかお聞き入れ願いたい。その間に大火の情勢が著しく変わるようなことがあれば、ただちに俺もまた現場に戻ることを約束いたすゆえ」
「いったい、何をするというのだ、アルドゥイン」
 リールは悲鳴のような声で言った。
「ここに、こなたは何を探すというのだ?」
「やはり、怪異につきお話せねばわかっていただけぬか」
 アルドゥインは軽く吐息を漏らした。リールは息を詰めた。
「か、怪異――?」
「はい。ただいまリール殿下と望楼よりイズラルの炎を望んでいた折のことだが、俺の耳に、執拗に囁きかける者があったのです。――いや、それはこの塔に入ったその刹那、俺がこの塔の扉を打ち壊した刹那からずっと実は俺の名を呼び続けていたのです」
「アルドゥイン――!」
「アルドゥイン、私の声を聞け、早く伝えたいことがある、と」
「わ、わらわは何一つ聞きはせなんだぞ」
「それゆえにこそ、怪異であろうかと」
 アルドゥインの声は少しも変わった様子を見せなかった。
 そのあまりの平静ぶりに、リールは少したじろいだようだった。
「お、おまけに、おまけに……ここには誰もおらぬぞ。わらわと、そなた以外には。おらぬはずだ。この塔は階段しかない。本当だ」
 リールはほとんどしどろもどろになった。
「ご心配無用。俺は何回も申し上げているはず。――リール殿下を疑うにあらず、ペルジアを疑うにあらず、と」
 アルドゥインはいくぶん面倒そうに繰り返した。
「それに、俺には若干の心当たりがあるのです」
「心当たり――とは?」
「一昨年と昨年にまたがる戦役のみぎり、ヒダーバードにおいて俺はひとかたならぬ怪異――怪異と言えば怪異だろうが、魔道によるものであれば魔道師にとってはごく自然なことに過ぎないのだろうから、言葉の純粋な意味での怪異とは異なるのだろうと俺は思うが、いずれにせよ常人にとっては紛れもない怪異であったことに間違いないだろう。それに俺は出会いました。そしてその怪異を起こした張本人こそが、先ほど殿下が言われたように、アダブル大公閣下を混乱させ、判断力を低下させ、そしてメビウスとの戦争を起こし、今回ラトキアとの戦争に至るように操っていたのではないかと考えている。多分、それと関係のあることだと」
「な、なんと……なんと……」
 リールはただ仰天して目を見開いているばかりであった。アルドゥインが突然発狂した、ともそのあまりの理路整然とした言葉を聞いていれば思われない。だが、その口から発せられる言葉はあまりにも思いがけぬものであった。
「――ペルジアが何ものかに操られていただと……」
「まだ憶測に過ぎませんが。ですから、リール殿下。俺の考えではこの声は何らかの形でその黒幕と関わり合っているものと思われる。それを確かめるためにも、今は一人にしていただきたい」
「わ、わかった。今すぐわらわは一人で降りてゆこう……」
「いえ、姫君をこのような場所で一人にし、先に行かせては騎士の名折れ。お送りいたします」
 二人は慌ただしく螺旋階段を下っていった。
 そうこうする間にも、ごうごうと募りゆく強風がこの塔の壁を外から叩きつけ、唸りたて、すさまじい悲鳴のような音で吹きつけていた。そして遠く、それに混じってゴーッ、ゴーッ、という不吉な音――それは紛れもなく、イズラルを焦がす炎の立てる音であった。それに耳をそばだてれば炎に焼き殺されていく人々の悲鳴や絶叫、断末魔の叫びさえも入り混じっているような気がする。どこからか焦げ臭いにおいがかすかに漂ってくるかに思われる。
「この世の地獄だ――」
 リールは呻くように呟いた。
「アルドゥイン。――おお、アルドゥイン、われらペルジア宮廷はもはや、ラトキアに対しこの非道を招来したことについて抗議を申し入れたり、無辜の市民たちの被害について怒りを持つ気力さえも失っている。……この災厄でペルジア大公家はまったく息の根を止められたも同然だ。……アルドゥイン、お願いだ。すべてのなりふりを構わず、恥も外聞もかなぐり捨てて頼むのだ。あの男、あの恐ろしい目をした男にイズラルを踏みにじらせないように、こなたがペルジアを守ってくれぬか。……アルドゥイン、そのためなら、ここをこなたにしばらく貸すことなどたやすいこと。全ペルジアはどのような犠牲でも払うつもりだ」
「あの男――アインデッドのことですか」
 アルドゥインは呟くように言った。その間にもどちらも下りていく足は緩めない。風の唸りが、沈黙が落ちるたびに壁を叩きつけ、さしも堅牢な塔をさえ打ちこわしはせぬかと恐れさせる。
「そうだ。――私はあの男と戦った。あなや一騎討ちの刹那にこなたに止めてもらった。……今だから申すが、私はあの男が恐ろしい。――トティラと戦う時は全くそのような恐れはなかった。ただ戦士として戦い、敗れても私の力不足と素直に感嘆することができた。……あの男は違う。あの男は私よりずっと華奢だ。運があれば、私でもあるいは――いま一度異なる状況で立ち合ったら、あの男には力で打ち勝てないとは思われぬ。私とてペルジアの公女将軍と呼ばれたリールだ。……だが、あの男……」
 リールはぶるっと身を震わせた。
「あの緑の、緑の闇のような目を覗きこんだとき、私はいまだかつて男に感じたことのない恐怖を感じた。――いま目の前に立っているのは、これは人間の男ではない……死神だ、それとも悪霊だ……少なくとも、悪霊に憑かれた男だ、そのような恐怖を感じたのだ。あのように美しい顔を――女のように美しい顔をした男であるのに、常ならば強くて美しい男にはそれなりに興味を覚えぬこともない私が、ただひたすら、あの男には恐怖を――そうだ、恐怖と、この男はいけない、危ない、この男は地上に災厄をもたらす、という確信だけを覚えた。
 ……それから半日と経たぬうちに、あの男がつけた火がこうしてイズラルを燃やし尽くしかけている。……あの男を押さえてほしいのだ、アルドゥイン。こなたにしかできぬ……あの男は――あの若い男は目の中に凶星を持っている……あの男はいつかペルジアを滅ぼす……いや、エトルリアも、ラトキアも……そして中原を、世界をも」
「……そのようなことにはならぬと思いますが」
 アルドゥインにそのリールの意外な――あるいは少しも意外ではない述懐がどのように響いたものか。
 アルドゥインはただ淡々とそう答えただけだった。
「俺は何も滅ぼすつもりはありません。ペルジアも、エトルリアも、ラトキアも。――むろん、我がメビウスも。世の全てが平和に仲良く、そして栄えてほしい。それが俺の願いですから」
「おお、アルドゥイン」
 リールはうめくようにいった。
 その声の調子が急に変わる――かれらはもう、ようやく果てしないかに思われていた螺旋階段を下りきって、さっき入ってきた、アルドゥインが壊した扉の所まで戻ってきていたのだ。
「よろしければ公女殿下は宮廷に戻られ、俺の連れ来たった副官のヴェルザーのセリュンジェにただちに本部に戻り、これより二テル、俺の命令に沿い、消火と市民救助とそして混乱の鎮静の全指揮を取るようにとの俺の命令をお伝え願いたい。俺は怪異の原因を解決したのち皇太子殿下をお見舞いし、ご様子をうかがい次第、ただちに本部に戻るゆえ」
「わかった」
 リールはさすがに実際的な反応を見せ、何も余分なことを――ペルジア流に――言おうとはしなかった。
「くれぐれも、気をつけてな。それと――私が見舞ってもどうにもならぬだろうが、リュアミル殿下によろしく伝えてくれ、アルドゥイン」
「しかと承った」
 アルドゥインはかすかに微笑んでみせた。


(2017.8.10)

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