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 もはやそれは、敵味方の見分けもつかぬ大混戦であった。
 ひっきりなしに起こる悲鳴、怒号、それともつかぬ絶叫――。
 それだけが、かがり火も踏み消されて何が何だか判らぬ大混戦の戦いのありさまを伝えている。
 いまや騎士たちは入り乱れ、さしも堅牢な紅玉騎士団の陣形も乱れかけていた。だが彼らはひるまない。なおも叫び声を掛け合っては陣容を立て直し、組み直してさらに砦の大門突入を狙う。後衛の隊がそこに突っ込んできて新たな援軍となる。
 一方ゼア砦はその眼下に繰り広げられている地獄絵図をも見ぬかのように、いよいよかたくなに固く全ての門を閉ざし、じっと守りの一手である。城壁の前に構えた弓兵も、この距離では敵よりも味方に当たる確率のほうが高いのだ。うかつに矢を放つこともできない。
 すでに先にアルドゥイン軍が射掛けた火矢の火はあらかた消されたようだ。かわって固く門を閉じたゼア軍が掲げるかがり火、松明の光がこの真夜中の地獄絵図をこうこうと照らし出している。
 アルドゥインはまだ、おのれの旗本隊を率いて討って出る気配を見せない。
 いまだ、戦いは前哨戦である。本当の死闘は、砦の大門が破られ、もはや逃げ道を失った守護兵たちが決死の戦いを挑んできたのちに始まるだろう。アルドゥインは麾下直属の兵を動かすことなく、逸る彼らを抑えつつ、じっと戦いの帰趨を見守っている。
「援軍は」
「いまだその先鋒、戦場に到着いたさぬ様子でございます」
「まだか……やはり一テルでは無理があるようだな」
 アルドゥインは呟いた。彼が待っているのは、大勢の決するや否や、という頃合いに戦場に駆け入ってくるアインデッド率いるラトキア‐エトルリア連合軍が、ついに全てのペルジア軍の希望を打ち砕き、ゼア砦に白旗の上がるときである。
 だが――。
 時、いまだし。
 まだ夜は深い。恐ろしく時間が経ったように感じられるが、実際にはまだメビウス軍が総攻撃開始の号令をかけてからわずかに一テルも経っていないのだ。血で血を洗う攻防が始まってからはまだものの半テルも経ってはいないだろう。
「アルドゥイン――閣下」
 セリュンジェが、いくぶんじりじりとしたまなざしを向けた。
「旗本隊の突入は――?」
「まだだ」
 おもてだって逆らいこそしないが、無念そうにセリュンジェは唇を噛んだ。
「まだだ――まだ時期ではない」
 アルドゥインは静かに言った。そのあまりの静かさに、セリュンジェは冷水を背中に流し込まれたかのように身を震わせた。アルドゥインのその目はまっすぐに、黒く松明の光に浮かび上がるゼア砦に向けられ、その眼下で激しく繰り広げられている防衛戦には目もくれぬ。
 そこに、伝令の騎士が転がるように駆け込んできた。
「閣下――ご報告! ゼア防衛軍の一角が破れました!」
「破れたか……!」
 アルドゥインはやはり、動かない。
 城壁に縄梯子がかけられ、メビウス兵たちはペルジア兵の射掛ける矢の雨をものともせず、小さな丸い盾を頭上にかざして矢を避けつつ、次々と登ってゆく。砦の守護兵たちはすでに泣き顔でそれでも必死に矢をつがえつづけていた。
 とうとう城壁を登りきったメビウス兵が、逃げ出したいのを必死に踏みとどまって矢を構えた弓兵の一人を切り捨てる。それを皮切りに、続々と壁を登ったメビウス兵が弓兵たちを退けて、門の巻き上げ機を目指す。しかし、さすがにこの土壇場に追い詰められては、ゼア砦もそう簡単に落ちはしなかった。
 が、後ろで防衛線はすでに総崩れになっていた。残された幾つかの部隊が何とか立て直そうとつとめてはいるが、もはやペルジア軍の体裁はなしていない。もろくも散り散りの烏合の衆と化して、馬も捨て、仲間も見捨てて何とか砦の裏、森のうちに逃げ込もうとする。もとより砦だけを目指すメビウス軍はそのような敗残兵には目もくれず、ただ前進を続けていた。
「三番隊に伝令。再び火矢を、今度は天守に浴びせよ」
「了解いたしました!」
「火攻めですか――閣下」
「ああ」
 アルドゥインの応えは短かった。
「それで、俺たち旗本隊はいつ突入できるんです?」
「もう少し待っていてくれ。このままでは戦況もよくわからない。意外に長くかかるかも知れない。何を言うにも相手は城なのだから」
「いや――でも、だいぶ浮き足立ってきたみたいです」
 セリュンジェは彼方を指差した。
「火矢がだいぶ、燃え付いてきたようですよ」
 セリュンジェの言うとおりだった。三番隊は一気に射撃を再開していた。火矢の補充は充分すぎるほどある。今度はたがを緩めた小さな油の樽も同時に撃ち込んでいたので、先刻の攻撃よりも上がる火の手は大きかった。
 油がかからなかった所でも、たまたま何か燃えるものに当たれば、それはたちまち炎の舌になめとられていく。今では砦じゅうが、あちこちから上がった火のおかげでくっきりと浮かびだしていた。
 昼間のように――とはこのことだ。すでに星も月も、その地上の炎のかげに姿を隠し、炎と火の粉、そして煙が空を染めた。
「閣下!」
 突然叫んだセリュンジェの声は、それまでの焦燥に満ちたものとは明らかに違った響きを持っていた。
「何だ、セリュンジェ」
 アルドゥインの声は辺りの喧騒の中でもよく通り、冷静だった。
「防衛線の向こうに火の手が上がりました!」
「援軍か?」
 セリュンジェは背伸びをし、手を眉の辺りにかざして目を凝らした。
「そのよう――いや、確かにそうです」
「アインデッドのやつ……」
 アルドゥインの口もとがほころんだ。
「手柄を取られまいと、かなり急いだものだ」
「すごい早さだな。さすがラトキア軍と言うべきかな」
 ひとり言めいたセリュンジェの言葉に、アルドゥインは緩く首を振った。
「いや、おそらくアインデッドの旗本隊とごくわずかな、追いつけるだけの技量を持った精鋭だけだろう。それで充分だ」
「よーし、手柄をとられてなるものか。旗本隊も一気に突っ込むぞ!」
 勢い込んだセリュンジェの横で、アルドゥインは低く言った。
「残念だが」
「え?」
 またもセリュンジェはびっくり顔になった。
「紅玉騎士団はこれより戦線を離脱。ただちにラトキア赤騎士団と合流、一路ヒダーバードを目指す!」
「ヒダーバード!」
 たちまち、セリュンジェはアルドゥインの意図するところを悟っておもてを引き締めた。アルドゥインは続けて命令を出していた。
「旗本隊は直ちに出発準備。一番から五番隊は、ラトキア軍が到着ししだい順次戦線を離脱、ヒダーバードに向かうよう」
「伝令、伝令! ヒダーバードだ!」
 セリュンジェは馬を用意するために駆け出していった。
 いまや、ゼア砦はあらたな恐怖がおのれに襲い掛かってくることを悟らねばならなかった。黒く静まっていた草原の彼方から、どどど――という荒々しい足音もろともに、すさまじい喚声を上げつつ迫ってくる一団が、しだいにその姿を大きくしつつあった。
「間に合ったか? くそっ、砦が火に包まれてやがる!」
 死に物狂いで馬を飛ばしてきたアインデッドは、鞍に伸び上がるようにして、ゼア砦を睨みつけながら絶叫した。
「だが――あの様子ではまだ落ちてはいないな。者ども! まだラトキア軍が手柄を上げる余地は残っているようだぞ! 急げ、急げ!」
 叫びたてつつ、精鋭たちには先に行くように身振りで示し、アインデッドはまずアルドゥインがいるであろう本陣に駆けいった。アルドゥインはすでに馬上の人となり、出発しようというところであった。
「ここだ、アイン!」
 こちらを探している姿に気づいて、アルドゥインが叫ぶとアインデッドはすぐに馬を向かわせた。面頬を上げ、怒鳴るように言う。
「アル、いいからこのままヒダーバードに向かえ。赤騎士団を向かわせてるから、途中で拾っていってくれ。赤騎士団にも黒騎士団と同じ編成の伝令隊があるから、お前の思うように使え。連中にはメビウス軍の伝令も行うように命じておいた」
「わかった、ありがとう。紅玉騎士団はこれから順次戦線を離脱してヒダーバードに向かうよう命じたが、全ては向かえないだろう。残留部隊はお前に従うようにと命じおいてある」
 アルドゥインは頷いた。
「この夜が明けるまでには勝負をつけてやる。そうしたら、残りの部下もヒダーバードに向かわせよう」
「ああ。では、後は頼んだぞ」
「おう、任せときな! このティフィリスのアインデッド様が来たからにゃあ……」
 アインデッドは不敵な笑みを浮かべた。
「ゼア砦の連中に明日はねえ」
 言いざまに、馬首を返してアインデッドは戦場に殺到する。
 その頃、城壁の内側に突入を果たしたメビウス兵が、とうとう砦の門を開けた。この機を逃さず、新たに加わったラトキア軍が開かれた門へとなだれ込む。ここへたどり着くまでに士気は最高潮にまで高まり、手柄をあげようと血に逸っている。その勢いを受け止めるだけの力は、ゼアの守護兵たちにはなかった。
「うわあああ――っ!」
「ラトキア兵だあ……」
「新手の軍勢だぁーッ!」
 何とか士気を取りとめ、二の丸に兵を集めて討って出ようと目論んでいたゼア兵たちの目に映ったものは――。
 あかあかと天守の燃える炎に照らし出されて緑の瞳を輝かせ、闇から飛び出したかのような黒尽くめのなりをまだ血に染めもせぬまま乱戦のさなかに駆けいってきた、若き軍神の姿であった。
 その手には彼らの運命を決める采配が打ち振られて、次の瞬間彼の剣が一閃すると、たちまち彼の漆黒のマントは返り血を浴びた。
「ラトキア――ラトキア!」
「アインデッドだ――アインデッドだあ!」
 ペルジア兵の、恐怖に満ちた絶叫。
 それはいまや、中原にあって伝説の中でのみ、その恐るべき戦いぶりが噂されていた英雄、新しい神話の主人公の名であった。
 不運にも、ゼアの守護兵たちはその噂と伝説がどの程度現実のもので、どの程度が誇張されたほら話であり、どの程度がむしろ実際よりも、そんな狂戦士など今の時代にはありえるものでないと貶められ、信じられていなかったのかをその身と命をもって確かめる、最初の証人となる羽目になったのだ。
 だが、生き残ってそれを語り、伝説を修正してまわれる者がそれほど多くいたとは思えなかった。
「かまわねえから殺せ――殺せ! 歯向かう奴は皆殺しにしろ!」
 アインデッドは今や、久々に野に放たれ、思う存分に牙に血を吸わせよと許された狂獣であった。
 あれほどいくさのために生まれ、いくさの恍惚を愛する狂戦士が、ここしばらくというものは、エトルリア相手のいくさも中途半端に切り上げ、ずっと長らく髀肉の嘆をかこっていたのだ。長い間の彼のどうしても取り去ることのできなかった憂悶、何とはないもやもやと楽しまぬ気分の中には、この憂さが大きな原因をなしていたのだった。
 常にいくさをあてがっておかねば、狂っておのれ自身をも周りの人間をも噛み裂いてしまう戦馬――ルカディウスのそのような形容は、おそらく誰よりもアインデッドを愛する人間なればこその洞察であったに違いない。そして今、その戦馬は解き放たれ、いくさの荒野の中にどれほどでも存分に戦うようにと叱咤されていたのだ。
「ルアー! ルアー!」
 アインデッドの戦い方は、アルドゥインのそれとは大きく違う。アルドゥインはおのれ自身強い戦士ではあったが、必ずしも常に陣頭に立ってだんびらをふりまわしつつ突入していくだけではなかった。
 傭兵時代の戦闘はいざ知らず、最近のように位が高くなればなってゆくほど、たくみに部下の軍を指図し、動かしつつ、おのれはじっと腕組みをして戦況を見守る、大将軍――指揮官の戦いぶりに移りつつある。
 だが、アインデッドは違う。――彼はいつまで経っても野生の魂であった。彼の愛するのはおのれの剣が相手の肉を切り裂き、叩きつぶし、血を噴き出させる、まさにその野蛮で残酷な手応えなのだ。
 そして生と死の際、そのぎりぎりの所で踏みとどまる、恐怖にも似た興奮――それこそがアインデッドの生き甲斐なのである。それだけを彼は求めていたと言っても過言ではないだろう。



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