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     見よ、至る所に響くは
     荒野に呼ばわる者の声
     我らは荒野、我らは破滅者
     我らの死は定まれり
           ――「死神の挽歌」より




     第四楽章 紅の二重奏




 かくて、陣内はいっぺんに慌ただしい雰囲気に包まれた。
 隠密行動の指令は厳重に行き渡っていたので出陣といえども勇ましい進軍ラッパも鳴らされず、ケムリソウが火にくべられることもなく、馬もいっぺんに引き出されるのではなくそろそろと少しずつ移動させられた。
 が、隊長たちはあらかじめこの後どのように行動したらよいか、こうした戦況の展開になった時にはどうするかという綿密な指示をアルドゥインから受けていたので、自信を持ってそれぞれの部隊へ戻っていった。
 アルドゥインの行き届いた指令のもとに、次々と各隊が動き出す瞬間を待って準備を終えていた。もとよりこのゼア攻めの軍はアルドゥインの紅玉騎士団が主部隊であるから、この戦いの最初の総司令官をアルドゥインにしたアインデッドの判断はあながち無茶苦茶なものでもなかった。
 一テル経つと次々に軍装完了、出陣準備よろし、の報告が伝令たちから届いてくる。
「一番隊、出陣準備完了」
「二番隊、出陣準備完了いたしました」
「三番隊、出陣準備完了。ご命令をお待ち申し上げております」
「四番隊、全ての準備が完了いたしました」
「五番隊、出陣準備完了いたしました」
 伝令たちの報告はひきもきらなかった。
 アルドゥインは本陣天幕の前に床机を運ばせ、それに静かに腰を下ろしてそれらの報告を受けていた。
 彼自身の支度はとっくの昔に整っていた。第一級軍装の白く輝く紅玉騎士団の鎧を身につけ、その胸にはメビウスの黄金の獅子が誇らしげに輝いていた。真紅のマントは重いサージで、それ自体が護身の役割を果たすものだったが、長すぎないように太腿のちょうど真ん中辺りで切られてあった。
 兜はまだ被らず、愛用の長剣を杖のようにつき、篭手、脛当ても同じく白く輝く鉄に真鍮の留め金を付け、引き締まった胴と腰を守る腰当てにも金色の鋲を打ったその白銀と紅の見事な姿は、まるで神話の英雄さながら、本陣前にあかあかと焚かれているかがり火に照り映えていた。
 ティフィリスのアインデッドはそのアルドゥインの斜め後ろに立って、メビウス軍出陣の様子をじっと眺めていた。この戦いは彼がラトキア軍を連れてくるまではアルドゥインが総司令官であるので、何も言わなかった。
 どっちみち、アインデッドの出発は本隊出発よりも後になる予定だったし、彼はおのれの軍の大部分を置いて身軽に行動するつもりだったので、何も準備と言うほどのものもなかったのだ。いつでも出発できるよう、彼の方も準備を整え終わっていたが、彼は隠密行動であることを考えて、二級の軍装に整えていた。
 それも基本的に、ラトキアの蛇の紋章を胸の少し上に小さく銀で打ったほかは黒一色のものだったが、黒金色の胴丸の上に小手当て、脛当てと腰当て、それに胸の前で留めた黒い革の、これは腰までくらいの乗馬用のマントをつけていた。
 かがり火に輝く真紅のつややかな髪を後ろで束ね、背には両手剣、腰には長剣を吊るした、ほっそりとした彼が白と紅の彫像のようなアルドゥインの後ろに静かに寄り添っているところは、まるで吟遊詩人の語る戦士たちの組み合わせのように不思議な、神話めいた調和をかもし出していて、このような慌ただしい際であっても人々の目を強くひきつけずにはおかなかった。
 今も、火矢の準備を抱えて走る紅玉騎士団の騎士が、ちらりと二人の将軍に目をやりながら通り過ぎていった。
 今宵はどうやら曇り空のようだ。砦のほうも異変を察知したか、かがり火も焚かず静まり返っている。空は黒灰色に暗く山の端に覆いかぶさり、黒々と静まる国境地帯の山々、森の姿もどこか不吉な予感に息を殺しているかに見える。
「月は?」
 アルドゥインはそれまでに何回目かの問いをかたわらのセリュンジェに発した。セリュンジェは空を見上げた。
「三更にございます」
「その後のラトキア軍からの報告は」
「十テルジン前のものが最後にございます」
「と、いうことは、予想は」
「ただいまラトキア軍はゼア防衛線三バル地帯まであと四バルほどかと」
「よかろう」
 アルドゥインはゆっくりと呟いた。
 はっと、周りのものは身構えた。アルドゥインが穏やかに立ち上がる――さながらその姿は、大理石の英雄の彫像が命を得たかに見えた。
「伝令!」
「はあっ!」
「全軍に伝達せよ! たった今より紅玉騎士団は全力をもってゼアの砦に突入する! およそ一テルの後にはアインデッド将軍率いるラトキア軍一万がゼア戦線に参与すべく戦場に到着するだろう。それまでにゼア砦に突入を果たすべく、紅玉騎士団の名誉にかけて砦の防衛線を突破せよ!」
「はーッ!」
 隊長たちは一斉に剣を挙げた。その声は抑えてはいたけれども、隠し切れない誇りと名誉に満ちて激しかった。
「さらに」
 アルドゥインは隊長たちを制した。
「ゼア砦よりは当然当方の軍の動き出したは発見されるだろうが、その規模および最終的な目的については、よもやこの夜更けに総攻撃とはなかなか断定できまい。その敵の迷いに乗じるべく、ゼア防衛線にかかるまでは鬨の声、鯨波は厳に慎み、そののち一気に喚声を上げて敵を撹乱しつつ突入せよ」
「かしこまりました!」
「以上。伝令、行け!」
「参ります!」
 一斉に伝令たちが四方へ駆け出してゆく。同時に隊長たちもそれぞれの隊への号令を出すべく、伝令と一緒になって馬を走らせて散っていった。それを見送って、アルドゥインはセリュンジェを振り返った。
「馬を」
「はっ!」
「俺も出発するぞ、アルドゥイン」
 アインデッドはアルドゥインに頷きかけた。
「一テルも待たせねえ。半テルで駆け戻ってくる――お前さえそれでいいなら」
「むろんだ、アインデッド」
「よし、じゃあ俺は行く。――いいか、頼むから俺たちにも手柄を残しておいてくれよ。俺の戦争でもあるんだし」
「わかっている。気をつけて」
「ナカーリアの武運を」
「ああ」
 アインデッドは一足先にひらりと、小姓騎士の引く黒馬にまたがった。
「ついてこられねえ奴はどんどん置いていくぞッ!」
 ラトキアの旗本隊から選び抜かれた精鋭十騎に大声をかける。
「なるべく早く援軍を連れて戻ってこねえと、いくさが終わっちまうぞ! さあ、早駆けするから腰を抜かさんようについてこい! いいか!」
「ラトキア! ラトキア!」
 旗本の騎士たちの答えを聞きもやらず、アインデッドは馬腹を蹴った。
「ハイッ!」
 そのままたちまち、黒い旋風のように、あわせて十一騎のラトキア騎士たちは出陣に騒ぐ本陣を後に、夜闇の中に吸い込まれていった。
 だが、メビウス軍はそれを見送っているゆとりもなかった。およそ一万の軍が大河さながらに動き出そうとしているのだ。もはやそれを何とか貫こうとしても、隠密行動はほぼ不可能であった。アルドゥインもなるべくそれを指示していたが、無理に強制しようとはしていなかった。
 しかしまだ、ゼア砦には、この夜襲がどれほどの規模のものか気づいて、総力での抵抗に掛かるような様子は見えない。――これまでの二日間、アインデッドがちょくちょく旗本隊だけでの夜襲をかけてはゼア砦を眠らせないようにしていたのだ。
 それは、まさにこのような時の予防策だったのだが、それが果してどれほどの効果をもたらしているのかは、砦に突入を果たしてみなければ判らない。
「閣下、砦にかがり火がともされました!」
「よし。敵も夜襲の規模に気づいたな。速度上げ!」
「伝令、伝令! 速度上げー!」
 次々に軍の真ん中を駆け抜けていく伝令たちの姿。その嗄れ嗄れの声が告げる命令をさらに伝えていく騎士たちの声。
 ゼア砦にもようやく激しい動きが見えていた。人々は眠りを覚まされ、どうやらこの夜襲がただならぬこと――これまでに幾たびか経験してきたような、ただの軽い小規模な夜襲ではないことに気づきはじめて、その騒ぎもしだいに砦の中で大きくなってゆくようだった。
「閣下、アルドゥイン閣下!」
「ここだ」
「ゼア砦の正門が開きました。防衛線に加わる兵士、およそ二千!」
「わかった」
「アルドゥイン閣下! ゼア砦上方の窓に、弓兵らしきものの人影がこちらに狙いをつけております」
「よし――。火矢部隊、前へ」
「伝令、伝令! 火矢部隊、前へ!」
 メビウス軍はしだいに隊列を整えつつ、ゼア砦に向かって行軍を進めていた。すでに砦側も、この夜襲のただならぬ事態をようやく悟ったと見える。その迎撃の騎士たちの様子には玉砕を覚悟の悲壮な色が漂い、彼らを外に出したまま、扉はぴったりと門を閉め、城門の上には矢をつがえた弓兵たちがぎっしりと並び、押し寄せてくる敵方を迎え討つために備えるばかりであった。
「第二陣形、突入準備!」
 アルドゥインの手に持った采配がさっと打ち振られる。
「第二陣形より、突入準備よし!」
「伝令、伝令。突入!」
 絶叫のような伝令を待つまでもなかった。
 どどど――と大地を揺るがす大音声をとどろかせつつ、およそ一万の精鋭たちが防衛線目掛けて三角形になって突っ込んでいった。
「ワア――ッ!」
「ワアーッ!」
 悲鳴のような鬨の声があがる。
 いまや、ゼア砦最後の攻防の幕が切って落とされたのだ。
「火矢部隊、前へーっ!」
「伝令! 火矢部隊、前へ!」
「砦内に火矢を撃ち込め!」
「一斉発射―!」
 次々と下される非情の命令。鍛え抜かれたメビウス軍は命令一下、たちまちに前後を入れ代わり、火矢部隊を兼ねる三番隊が前に進み出てごうごうとその先端に火の燃え盛る物騒な飛び道具を構える。
 ぶん……
 最初の火矢が切って放たれた。弦を鳴らして飛んでゆく火矢が夜空にあかあかと、炎の尾を引いて、うろたえ騒ぐゼア兵たちの姿を一瞬だけ照らし出してみせ、そして城壁の中へと吸い込まれてゆく。
 城壁の内まで届かずに、防衛線の後ろに落ちる火矢もある。それは慌てふためくゼア兵たちが駆け寄り、必死の面持ちで消し止める。が、城壁の後ろに突き立って、そのままじりじりと燃え始めるものも多い。
「続けて撃て!」
 アルドゥインの口からは立て続けに命令が発せられた。
「かしこまりました!」
 ごうごうと――
 火矢がすでにあちこちに燃え付き、ゼア砦はその半身を曖昧に闇の中に浮かび上がらせている。だが、この時代、砦は全て石造りである。一気に燃え上がることはない。しかしいったん木材に火が燃え移ってしまえば、その火を防ぐための石の壁は逆に消火活動の妨げになる。もはや砦の騎士たちに防衛線をかえりみる余裕はなかった。
「閣下!」
「ここに」
「先鋒を承る第一隊、防衛線に突入します!」
「よし。火矢部隊撃ち方止め」
「伝令。火矢部隊、撃ち方やめ!」
「火矢部隊、後方へ!」
「二番、四番、五番隊は両翼よりそのまま防衛線に突入せよ!」
「突入――!」
 いまや――
 かえって味方に損害を与えることを懸念して、火矢の攻撃は差し止められた。そのまま先頭を切る第一隊はすさまじい鬨の声をあげつつ、一丸となってペルジア軍に突入していく。戦いはいまや、たけなわの時を迎えつつあるのだ。



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