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 砦の前に張られていた防衛線はもはや用を成さず、壊滅していた。新たな戦いの場は砦の中、城壁に囲まれた広場へと移っている。防衛線で戦っていたメビウス兵は、隊をまとめられるものは戦いをラトキア軍に譲り、予定通り戦線を離脱してヒダーバードへと向かっている。それを追うペルジア兵とてもういない。
 砦の練兵場であるらしい広場では、ラトキア兵とペルジア兵が入り乱れて激しく戦っている。先に突入を果たしたメビウス兵の姿もそこには散見する事ができる。
 その中でも、もっとも目立つ黒い一騎――。
 狂おしくアインデッドが駆け抜けるところ、必ず絶叫が起こり、次々と確実に敵が屠られてゆく――振り上げ、振り下ろす愛剣のもと、一人、また一人と悲鳴もろともペルジア兵が斃れてゆく。
 漆黒のマントも鎧もすでに血に染まっていた。彼は誰の目にも、世にも凄惨な血まみれの戦鬼であった。
 彼の後ろに続くラトキアの精鋭たちもまた、返り血にまみれ、その剣や槍の刃は血糊でべたついて最初の切れ味を失ってしまうほどだった。そうと見ると彼らは切り倒した敵の刀を奪い取り、それを新たな得物にして敵に襲い掛かる。さながらそれは飢えた狼たちの一団であった。
「ラトキア――ラトキア!」
 しだいに、戦いの帰趨は決しつつある。というより、そもそもの始めから明らかだったそれが今ようやく、あまりにも多数の被害者の屍を築きつつ、現実となりつつあるのだ。もう、無傷で立って戦っているゼア兵はほとんどいない。全身の至るところに傷を受け、なかば絶望と自暴自棄のうちにただ少しでも多くの敵を死の道連れにせねばおさまらぬといった妄執だけで戦い続けている。
「ルアー、ラトキア!」
「エール、メビウス!」
 戦場に響いてくる鬨の声も、もはやその二つばかりであった。もうペルジア兵のあの、「ウラー、ウラー!」という特有の叫びはほとんど聞こえてこない。
 いつしか、空が白々と明けかかっている。この夜が明けるまでに、と言ったアインデッドの言葉に偽りはなかった。
 さしもの戦鬼アインデッドもようやくその手を休め、血にまみれた刃を小姓にぬぐわせ、なおも目は残る敵はいずこと探し続けつつもいくぶんその闘志を緩めはじめている。
 そこに――。
「悪魔の子アインデッド! 覚悟!」
 絶叫もろとも、まだ隠れ潜んで敵の首魁を狙っていたらしいゼア兵の残党が下から槍で突きかかった。
「閣下!」
 小姓の魂消るような叫び。
「笑止!」
 アインデッドは動じもしない。一気に馬の手綱を引いて身をひるがえし、槍の穂先を逃れるなり、馬から飛び下りざまに両手に掴んだ剣を振り下ろした。渾身の一撃に無残にも顔半面を真っ向から切り離されて顔の右と左がありうべからざる奇妙な形にずれながら、ゼア兵は噴水のように血を噴き出して倒れていく。
 ゼア兵の無限の恨みをこめた死にゆくものの目が、右と左の高さを違えたまま、アインデッドの凄絶なまでに美しい顔を見据えた。恨みや怒り、憎しみ、それ以外にも名のつけようのない様々な感情を凝り固めたようなその目を真正面から受け止めても、アインデッドの表情は氷のように冷たかった。
「呪われろ! サライルの地獄に落ちろ……」
 もはや、はっきりとは聞き取れぬ最期のうめきがその二つに切られた唇から血の泡とともに漏れ、そのままどしんと地上に崩れ落ちていく。呪いに満ちた言葉を聞いても、アインデッドの感情はさして動いたようでもなかった。ただ、緑の目をかすかに細めただけだった。
「――言われなくとも、俺が行き着くのはそこだけだろうさ」
 誰に聞かせるでもない囁くような声だった。それから彼は、くるりと背を返して歩き出した。
「まったく、機知もへったくれもない、つまらん台詞だな」
「将軍閣下! お怪我は!」
 慌てて小姓や部下たちが駆け寄ってくる。それへ、アインデッドは実につまらなさそうに肩をすくめてみせた。
「あるわけねえだろ。たかがあんな雑兵に、このアインデッド様がかすり傷一つでも負うようなとんまに見えるのかよ。人並みの心配は、俺には要らねえよ」
 もう恨みを呑んだ死体へは目もくれず、アインデッドは小姓に馬を引けと合図した。血のにおいとうちつづく戦闘に相当気の高ぶっている愛馬の首を叩いて宥めてやりながら、鐙に足をかけようとして、ふっと今初めて気づいたように辺りを見回す。
「どうやら、決着がついたようだな」
「はっ」
 手綱を受け取りながらルキウスは答える。
「もはや、ゼア砦の生存者は全て投降いたしました。その生存者もほとんどおりませんが――白旗を揚げるものもおりませんが、おそらくもう揚げられるものもいないのだと思います」
「よし」
 アインデッドは馬にまたがった。
「兵どもを集めろ。一個大隊を残して残兵の狩り出しと、それから助からぬ負傷者に止めをささせろ。それと助かりそうな負傷者は集めて手当してやれ。死体はまだ集めなくていい。それは後続のエトルリア兵に任せよう」
「かしこまりました」
 ルキウスが近くの伝令兵にさっきの命令を伝え、その伝令兵がまた他のものに伝えてゆく。その速さは彼が初めてラトキア軍の将となった時と比べれば数倍にもなっている。これだけは自慢できるものだな、とアインデッドは密かに考えた。
「水をくれ。そっちの鞍につけた水筒にあるだろう」
「は」
 その間に兜を取り、髪を包んでいた布を取り払う。新たな血の流れのように、真紅の髪が背に零れ落ちた。ずっと兜の中に押し込められていたので汗にやや濡れているようだったが、放っておけばすぐに乾くだろう。差し出される携帯用の水筒を受け取って、ぐっと一口飲む。ようやく、戦いにしびれたようになっている体や頭に理性が戻ってくるような気がする。
(すげえ、血のにおいだ……)
 辺りは血の海であった。石畳はもとの色が何であったのかも判らないほど汚れ、乾きかけた血が黒ずんだ茶色や赤のまだらとなって地を染めている。だがその阿鼻叫喚の地獄絵図の名残も、アインデッドには何珍しくもない戦いの果てた後の眺めであった。彼はずっとこのような殺伐たる生をこそ生きてきたのだ。
 しみ一つなかった黒いマントはぐっしょりと血に濡れて汚れ、剣を握っていた右手は手首まで血の海に突っ込んだかのように真っ赤に染まり、兜で隠れていたはずの頬にも返り血がしぶいている。
 全てが黒のいでたちであるから、見たところ汚れたようには見えないが、近づいてみればその鎧の黒光りの上には、血がぬらぬらとした光を跳ね返しているのが見えた。これが黒でなければ、凄惨さははるかに増していたことだろう。
 小姓に刃を拭わせた両手剣を背中の吊革に収めてから、アインデッドは何心なく右手を挙げて顔を拭った。顔についた血と汗を拭うつもりだったのだが、顔以上に血に汚れた手であることを彼は失念していた。たちまち彼の顔も血でべっとりと汚れた。
「ありゃ」
 アインデッドは閉口したような表情になった。先程までの戦鬼のような表情はすでに消えている。たった今まで人を殺していた、今さっきも殺したばかりだというのに、その表情は一転して無邪気にすら見えた。
 荒事とは無縁そうな美貌が、人を食った獣のように血にまみれている――などという光景は、見る人によっては背筋の凍るようなものであったに違いない。が、幸いにして彼の周りにはそういった感受性を持っているものはいないようであった。
「閣下、これを」
 慌てて小姓が濡らした拭き布を差し出す。が、そのようなものではとうてい拭いきれるような血糊ではなかった。何十人、いや何百人切り殺したのか、という死神もかくやの右手なのである。
「閣下、各軍、集結させてございます」
 メビウス軍の白銀の鎧兜を、これも血に汚した騎士がアインデッドの姿を求めて馬を走らせてきて、大急ぎで下りた。
「紅玉騎士団一番隊第一千騎長、ツァカリアスであります。これよりは全てアインデッド閣下のご命令に従うようにとのアルドゥイン閣下のおおせ付けにございます」
「ああ。よしなに。まず状況を確認して報告してくれ。メビウス軍のここに残っている兵力――ゼアの生存者の状況とこちらの被害状況。それを全部それぞれの指揮官クラスに報告させよ」
「かしこまりました」
 ツァカリアスは敬礼して、いったんその場を離れた。待っていると、数分後に彼はもう一人の紅玉騎士団の騎士を連れて戻ってきた。
「紅玉騎士団二番隊第三千騎長ユウェナリスであります。ゼア残存の紅玉騎士団は一番隊二千名と、二番隊はわたくしの麾下六百十四名。うち二番隊の死者は三名、重傷者四十七名。軽傷者は戦闘に差し支えるほどのものではございません」
「紅玉騎士団一番隊は死者二十、重傷者百五十ほど。軽傷者はかなりおりますがこれも戦闘に差し支えはございません。しかしゼア軍の被害は圧倒的で、生存者は先程おおよその確認をした時点では千名を切っております。その大多数がかなりの重傷を負っており、投降して手当を受けております」
 おのれの被害の少なさを誇らしげに、ツァカリアスが言った。
「千か」
 篭城していたゼア軍は少なくとも一万はいたはずだった。たった一夜の戦いで、一割弱しか生き残れなかった計算になる。それほど凄惨な戦いだったのだ。
「消火活動の方は一段落したか?」
「はっ。もう燃え広がる事はないと存じます」
 これは、黒騎士団のものが答えた。
「――そうか」
 アインデッドは言った。
「なら、負傷者の収容と手当が終わり次第、隊長クラス以上を広場に集結させよ。ゼア砦の生存者は武装解除し、収容可能な一室に監禁せよ。それから味方の負傷者は手当し、疲れて動けないものは休ませ、イズラル街道へは一個中隊の見張りを立てよ。これより、ここでゼア戦役の後始末のため明日まで滞在する。そののち、紅玉騎士団はヒダーバードに向かい、アルドゥイン将軍の指揮下に戻れ。ラトキア軍はイズラルに向かう。皆のもの、異存は?」
「ございませぬ!」
 うたれたようにツァカリアス、ユウェナリス――それとラトキアの副官たちが口々に叫んだ。血のにおいと煙と、死体の焼け焦げる臭いでいっぱいの戦場に、ようやく白々と朝が訪れようとしていた。


2010.12.10

「Chronicle Rhapsody 31 河畔の邂逅」完

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