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 サラキュールがイェラインから内密の呼び出しを受けたのは、明くる日の夕方であった。海軍関係で呼び出しを受けるような事態は何もなかったので、国政上のことだろうかと首を傾げながら、彼は水晶殿の一室に通された。
「ただいま参りました、陛下」
「うむ、突然呼び立ててすまなかったな」
 彼が通されたのは皇帝の私的な謁見室の一つであった。宮殿の端の方に隠れるように作られたこの部屋は、二十年ほど前に改装したときに薄い黄色の壁紙に張り替えられたので、そのまま「黄色の小部屋」と呼ばれている。
 壁の一部は木製の壁飾りが埋め込まれていて、枠のような形を作っている。その真ん中にはいくつか花の絵が張られていた。それなりに上手ではあるが、本職の画家が描いたにしては稚拙なこれらの絵は、それもそのはず、リュアミルとパリスが幼い頃にこの部屋のために描いたものなのである。
 それ自体は実に家庭的かつ微笑ましいエピソードなのであるが、中にはサラキュールが手伝って描いたものも混じっていたので、サラキュールは何となくこの部屋にいるのが恥ずかしかった。
 部屋自体はたいへん小ぢんまりとしていて、奥行きは六バールほど、幅も四バールほどしかない。そのため、侍従や近衛兵は上座にある扉から続く隠し部屋に控えている。彼らを除けば、黄色い部屋にいるのはイェラインとサラキュールだけであった。
(ああ……あれは私の描いたやつだ)
「して、御用は何でございましょう?」
 サラキュールは意識的に絵の方を見ないようにしながら、座っているイェラインを見た。皇帝は寛いだ衣装をまとい、王冠を外して笏も持っていなかった。呼び出された場所や皇帝のいでたちから、これは私的な話だとサラキュールは判断した。
「そなたも座れ、サラキュール」
「ではお言葉に甘えさせていただきます」
 彼が椅子に落ち着いたのを見計らって、イェラインは口を開いた。
「そなたが丁度来てくれて、助かった。これもヤナスの配剤というものだな」
「ありがたいお言葉でございますが、いったい何がございましたか?」
「これはごく内々の話なのだが、今朝エトルリア公使が来たのだ。その用向きは、公子のいずれか、あるいは公弟をリュアミルの婿に――というものでな。とりあえず返事は明日にと言って帰した」
「それは――なかなか、サン・タオ大公も諦めの悪い方のようでございますね」
 サラキュールは薄く笑った。リュアミルがまだ十代のときにも、同じ話を持ちかけて本人から断られているのだ。
「しかしラン公子はいまだラトキアに捕虜として留め置かれているはず」
「ああ。そちらを選べば、では救出のための兵を貸せ、ということになるだろうな」
「ラトキアは言うに及ばず、エトルリア国内もごたついておりますからな――」
 わずかに首を傾げるようにして、サラキュールは言った。
「どちらの公子であっても陛下はご反対なのでございましょう?」
「うむ」
 イェラインは頷いた。メビウスに対するエトルリアの影響力を増し、さらにはゼーアを掌握するためにメビウスの軍事力を利用したいというのがこの縁組の目的であるのは明らかであったし、そんな目的に自国の軍を動かすつもりなど、イェラインにはさらさらなかった。
「しかし、あの時はリュアミルが皇太子となるかどうかわからぬゆえまだ結婚は考えておらぬ――という理由を付けることができたが、今回はそうもいかん」
 まさか、本人が嫌だと言っているので――などという理由で断れるはずもない。国同士の利害が一致し、何かの目的を達するためであればどちらの意思も関係なしに進められてしまうもの、それが政略結婚である。しかしこの場合、メビウス側にはあまり利益がない話である。
 といって、こちらには何の利益もないので、とありのままを言って断れるような話でもない。相手がずっと格の劣る弱小国ならばそのような断り方もある程度までは許されるだろうが、エトルリアともなればゼーアの雄。歴史的な国の格はメビウスに劣るにしても軍事力はばかにできず、なかなか扱いづらい相手である。
「エトルリア公子を断れるだけの理由が必要――手っ取り早く申し上げれば、別の結婚相手を探そうと、そういうことでございますね」
「うむ」
 頷いたイェラインは、ひとり言のように続けた。
「リュアミルが皇太子となるかならぬか決めるまでは結婚の話も持ち出さぬようにしていたが、今となってはその前に候補くらいは決めておくべきだったな。国内かクラインの貴族なり、それこそエトルリアの王子なり――」
「国の格は申し分ございませんが、エトルリア公子ではリュアミル殿下は役不足かと思います。特に知性の面で」
 サラキュールは、本人らが聞いたら烈火のごとく怒るようなことを言った。イェラインは冗談と受け取って笑っただけだった。
「ルノーが以前から、リュアミルを娶りたいというような事をほのめかしているが」
「ハークラー卿は、いかがなものかと存じます。家の格はまあ充分でしょうが、姉が皇后陛下であったことを考えますと、同じ家の血を続けて皇家に入れるのは好ましくございません。それに、リュアミル殿下はあまり彼を好いておられぬご様子ですし。さらに申し上げれば、あの方が心から殿下を愛していてそのように申し上げている、とは私にはどうしても思えませぬ」
 冷ややかに言ったサラキュールは、彼を嫌っているのをイェラインの前でも隠そうとしなかった。
「そなたも、地位目当てのものと思うか」
 イェラインはサラキュールの態度には触れなかった。問われて、サラキュールはかすかな目元の表情だけで肯定の意を示した。
「地位を望まぬものはリュアミルの夫に、とは申し出ぬし、地位を望むものはリュアミルを求めているわけではない。そのような者にこそ、決してリュアミルを娶らせるわけにはいかぬ。全く、難しいものだな」
 彼の父親らしいところを、サラキュールは初めて見たような気がした。
「昔は、そなたをリュアミルの婿にと考えていたのだよ、サラキュール。だがどちらにもその気がないものを、無理にめあわせるのは、おいおいにして不幸な結果をしか生まぬことが多いからな」
 まるで、ユナ皇后のことを言っているような言葉であった。一方は望み、一方は望まぬまま結婚し、そしてどんなに愛しても返らない思いに苦悩を募らせて、憎しみに全てを食い尽くされてゆくしかなかった女性を。
「私を、でございますか」
 サラキュールは困ったような笑顔を浮かべた。
 その話は彼らが幼いころからよく囁かれてきた縁談であったので、サラキュールにとっては今更の感があった。リュアミルにしてもそうだっただろう。サラキュールとリュアミルの縁談、というのはもうお互いにとって冗談の種くらいにしかならない話であり、誰も本気になどしていなかった。
 それに、サラキュールはもう結婚してしまっているのだ。今から離婚して皇太子の婿になれ、というのはできなくもないだろうが乱暴な話である。仮にそう命じられても、反逆罪に問われようが不敬罪に問われようが、イルゼビルと離婚する気などサラキュールには毫ほどにもない。
 もちろんイェラインも、そんな滅茶苦茶を言うつもりはなかった。
「そのようなことを仰るために、わざわざ私を呼ばれたのではございますまい?」
「うむ。そなたを呼んだのは他でもない、女官長以外にそなたほどリュアミルの心のうちに詳しい者もおるまいと思ってのことだ。できれば私は、リュアミルの望む者と結婚させてやりたい。だが父の私が言うことではないが、リュアミルは私にすら遠慮があるようなのでな、聞くに聞けぬ」
「地位を求めているわけでなく、純粋にリュアミル殿下に心を捧げており、さらにリュアミル殿下のお心にある男を、と仰るのなら、アルドゥインをおいて他におりますまい」
 サラキュールはきっぱりと即答した。
「アルドゥインか」
 イェラインは少し考え込むような顔をした。
「たしかにあれなら、ヴィラモント公爵のもと嫡男。貴族であるのはむろん、王族でもある。しかも今では継ぐべき家や王家があるわけではない――と相手として申し分はない。しかしアルドゥインがリュアミルをどう思っているものか、私にはいまいち判らぬ。リュアミルのために決闘などしたこともあったが、あれは忠誠心の強い男だからな。どこからどこまでが忠誠で、好意なのかもわからぬ」
「殿下もアルドゥインも、お互いまんざらでもないご様子かと思われますが。パーティーの時など、よく遠征の話ですとか、政治の話をなさっているようですから」
 それがこの噂のカップルの何ともつまらぬ、というか面白いところであった。周りで観察している者たちからしてみれば、もう少し色気のある話をしてくれればいいものを、どこまで関係が進展しているのか、全く見当もつかなかったのである。イェラインは首を捻った。
「リュアミルを憎からず思っていてくれておるのかな、あれは」
「いやいや――あれはべた惚れでございますよ、陛下」
 ちょっとにやにやしながら、サラキュールは言った。
「ですが、アルドゥインが少々どころでなく奥手なのが難でございますね」
「それが困るのだ」
 イェラインはため息をついた。
「して、リュアミル殿下のお相手として――陛下はアルドゥインをどのようにお考えでしょうか?」
 サラキュールはずばりと切り込んだ。
「先も言ったが、アルドゥインさえその気なら、反対する理由などどこにもないではないか。私はな、婿に迎えるのならばあの男を、と思っている。早く言ってこぬかと思うくらいだ」
 対するイェラインの返答もきっぱりしていた。
「だが私からリュアミルと結婚せぬかと持ちかけても、あれは真面目な男だから、それは身分がどうのと断わるだろう。といって自分から言い出すことも、このままではなさそうだしな」
「……」
 再び重い顔つきで首をひねってしまったイェラインを、サラキュールは何ともいえぬ表情で見やった。
「では敵情視察をしてまいりましょうか。せよと仰せなら夜襲でも構いませぬが」
 悪戯っぽい瞳で、サラキュールは主君を見た。すると同じような笑みを浮かべて、イェラインも答えた。
「敵は手強いぞ。今夜中に落とせるか」
「陛下に賜りし海軍大元帥の名にかけて、明日の朝までに必ずや陥落させてご覧に入れましょう」
「判った。メビウス皇帝の名において、この戦いの全権をそなたに委任しよう、アルマンド大元帥」
 イェラインはことさら重々しく言い、ナカーリアの印と、ついでにディアナの印を切った。サラキュールも恭しく膝をついてそれを承った。



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