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 翌日。
 アインデッドとその率いるラトキア黒騎士団と赤騎士団一万は、はなはだ気の進まない進軍を始めたのだった。目指すはナーディル軍五千五百が陣を構えるエルザーレンの原。畑や村を避け、まばらに民家の影が見えるほかには、開けた広大な草原だけが広がる光景である。
 アインデッドは出陣前の挨拶をするために、馬場に集めた兵士たちの前で壇上に上がった。だがその姿はいつもの彼らしくなく、どことなく覇気のない様子だった。
「これより我々はエルザーレンに向け進軍を開始する。ただし、先に言っておくが、この戦いが本来望むものではなかったということは、ラトキア大公家をいただく我々に共通した思いであると思う。だから、どうしてもナーディル殿下とは戦えないという者は遠慮なく申し出るがいい。残ることを許そう」
 ざわ、とその場がどよめいた。アインデッドは少し間をおいてから壇を下りようとした。そこに、まるでそれが運命であったかのように、この戦役の命運を握る事になるだろう声がかかった。
「閣下! 我々はどこまでも、閣下の兵です!」
 その声に触発されたように、わっと兵士たちは唱和した。
「そうだ! アインデッド将軍万歳、ラトキア万歳!」
「敵が何であろうと、我々は将軍に従うぞ!」
 アインデッドは呆気に取られ、当惑したようにその鯨波がうねるように高まっていくのを見つめていた。
「お前ら――」
 アインデッドの今までの半年ばかりというものは、ラトキア騎士団の大多数はすでに崇拝と好意をもって迎えてくれているとはいえ、宮廷内では敵対派の冷たい目と嘲笑の中で自分がいかに「新入り」の「若造」であるかをずっとかみしめてきた半年である。この兵士たちの反応は全く意外なものだった。
「静まれ!」
 だがアインデッドは胸に迫る思いを振りやるように手を挙げて彼らを制した。
「お前たちのその心意気は嬉しく思うが、しかし相手は反逆者とはいえ大公閣下の弟君。お諌めするほどのつもりで、決して本格的にことを構えようと言うのではない。それを忘れず、逸った真似だけはするな。――では、一テル後に出立する。以上」
 何とかそれだけを言って、アインデッドはその場を離れた。

 そして、一テル後。
 アインデッドはいつものように先頭に立つことはせず、全く普通の武将と同じように後続の旗本隊に守られるようにして馬を進めていた。あえて戦闘には出ない構えを見せることで、相手の殲滅を目的とした戦いではないということを示したのである。
 それが後々どういう結果を招きうるか、アインデッドも考えないわけではなかったが、しかし戦わずには済まされない状況下で今の彼にできるナーディルへの精一杯の配慮というのはその程度しかなかった。どんなに気が進まないと言ってみたところで、いざ戦いの中に身を置けば自分が誰よりも冷酷に敵を殺せること、そんな自分が出て行けば自軍の兵士たちを刺激し、結果として敵味方双方の死者が増えるだろうことはよく判っていたからである。
(こんな憂鬱ないくさは初めてだ。傭兵稼業のこと、気の進まねえ戦いなんて何度も経験したさ。さあ負け戦に貴様ら死にに行ってこい、みたいなことだってあった。だけどどうして――。俺はそれほど慈悲深いつもりもないし、なかったはずなのに、こんなに戦いたくないのは初めてだ)
 アインデッドはゆっくりと顔を上げた。単調に続く草原と、伸び盛りの麦の畑が遠く視界に広がっている。風光明媚でもないが、といって殺風景でもないラトキア北方独特の風景だった。
 行く手の一バルほどにエルザーレン軍がアルカンド大帝いわくの「キタラの陣形」を組んでいるのが見える。本陣と定めた場所に、ひとまずそれに対して「琴の陣形」を組ませた。アインデッドは自分の天幕にそれぞれの隊長を呼び、これからの命令を下したが、自分が出陣したいそぶりはつゆほどにも見せなかった。
 今までエトルリアとのちょっとした小競り合いなどにちょくちょくアインデッドは派遣されており、彼と何度か共に戦ったことのある隊長たちは、どんなにつまらない戦闘でもいつも先陣を切って駆け込んでゆく彼しか知らないので、その行動は出て行くよりもいっそう目立った。
「黒騎士団第一隊と第二隊でまず前哨戦に持ち込み、機を見て一気に全軍投入し、かたをつけよう。ただしナーディル殿下とアクティバル将軍、ラバック、デュシー、タシェトの三卿は必ず生け捕ること。それに、降伏は必ず受け入れろ。無用の殺生はかたく禁じる。いいな、全軍にそれは徹底させろ」
「では、今日中に決着をつけるおつもりということですか」
 第一隊隊長のアルス・カーリーが確かめるように言った。アインデッドはしょうことなしに頷いた。
「これは単なる地方領主の反乱じゃない。大公家のお家騒動だ。長引けば長引くほど、他国に付け入る隙を与えてしまう。ナーディル殿下に与した連中に攻め込まれても困るし、といってこちらに援軍などされて恩を売られても困りものだからな」
 それは実際そのとおりだったので、誰も異論を挟まなかった。
 ネプティアの刻を境にアインデッドの命令一下、黒騎士団の精鋭たちがわあっと鬨の声を上げて切り込んでゆく。時得たりとばかりにナーディル軍の方も一個大隊を出して迎え撃つ。たちまち、敵味方入り混じっての乱戦が始まる。
 現在戦っている人数的にはアインデッド軍の方が不利であったが、アインデッドの名の下に戦意を高揚させている兵士たちと、わけもわからぬまま反乱軍のレッテルを貼られてしまったナーディル軍の兵士たちとでは、闘志の違いははっきりとしていた。だが、彼らも汚名を着せられたまま負けてなるものかという意地がある。
「ルアーッ!」
「大公のために!」
 ラトキア独特の叫びを上げて、騎士たちが切りかかってゆく。人馬のいななきと叫びで、静かなエルザーレンの原は一転して壮絶な戦いの場となった。
「――同国人だってのに、戦いあうなんて」
 アインデッドはその様子を見て、やりきれない思いで呟いた。が、感傷は感傷として次の指令はもう出ていた。
「伝令! 待機の黒騎士団は中央へ出撃、赤騎士団第一、第二隊は左翼に、第三隊と第四隊は右翼に回り、退路を断て」
「はっ」
 ただちに伝令が走ってゆく。全軍投入すれば、アインデッド軍は数で勝る。その上主力となるのは彼が半年かけて鍛え上げた黒騎士団である。両軍全力での戦いに入り、アインデッドの言葉どおり、この戦いは一日で決着がつくものと思われた、その時――。
 ナーディル軍の側から退却を告げる戦太鼓が鳴り響き、一斉に退却を始めた。
「何だ――どういうことだ?」
 アインデッドもその真意を量りかねるほど、唐突な退却だった。敗走にしては足並みが揃いすぎているし、まだ総力戦にもなっていないのだから敗走するほどの窮地でもないはずだ。
「追撃なさいますか?」
 傍らにいた伝令が尋ねた。少し考えて、アインデッドは慎重に言った。
「いや……こちらも退却し、様子を見よう。退却の合図を。相手の方がこの周辺の地理には詳しい。どんな罠が仕掛けてあるのか判らないからな。それから、斥候と間諜を出しておけ。どういうつもりで退却したのか、探らない事には次の作戦も立てられん」
「はい」
 すぐに退却を知らせる太鼓の三連打が響いた。被害と戦果の報告をするために各隊長たちが天幕に集まり始めた。
「黒騎士団第一隊長アルス、報告いたします。我が隊死者五名、負傷者五十名、うち三十名は軽傷です」
「まあいいだろう」
「第二隊長ケマル、報告いたします。我が隊の被害は死者六名、負傷者二十七名。うち十七名は軽傷、闘いに差し支えございません」
「よし。兵たちにはよく休息を取り、負傷者は速やかに手当を受けるようにと伝えろ。重傷者は戦線を離脱させてエンシーに送れ。それから、戦いに出なかったものも次に備え気を抜かぬように」
「はっ」
 アインデッドは予想よりも被害が少なく済んだことを密かに感謝した。結局相手も小手調べのような数で挑んできたわけだが、いくら前哨戦でもたった二千弱――彼らが傭兵を含まない正規ラトキア軍の生え抜きであったとしても――で五千強の相手に突っ込ませていったのはやはり賭けであったし、心配だったのだ。
「ところで、敵軍の被害は」
「は。投降兵および脱走兵の他は全軍撤退したのでよくわかりませんが、少なくとも我が軍の倍ではきかぬでしょう」
 伝令隊長のセトスがきびきびとした口調でよどみなく報告する。伝令・情報部隊の隊長を務めるセトスは、もとは傭兵だが目端が利くし、アインデッドの知りたいことを先回りして調べておくような気の利いたところもあるので、そのまま取り立てられた有能な部下である。
「まあまあってところだな。……それにしてもあの撤退が気にかかるな。かといって、何もわからんまま追撃するのも危険だし……」
「伝令、伝令!」
 アインデッドの物思いはその声に破られていった。面倒な手続きは一切無く、駆け込んできた伝令はアインデッドの前に膝をつき、報告した。かなり急いだらしく今にも倒れかねないほど息を切らしていた。アインデッドは事務的ではあったが、ちょっとした配慮は忘れなかった。
「何だ。報告しろ。それからルキウス、水を持ってきてやれ」
「報告いたします。ナーディル殿下率いるエルザーレン・ファセリス軍は退却後そのままペルジア領内、ゼーア皇帝領に向かっております。この速度では明日の昼前にはヒダーバードに到着するものと思われます」
「ゼーア皇帝領だと?」
 アインデッドは思わず腰を浮かせ、思い直して座った。
「ゼーア皇帝領か……」
 難しい顔つきで考え込む。
「ヒダーバードは元来イズラルの東を守る砦として作られた城塞都市だ。篭城にはたしかに向いているだろうな。だが……」
 ゼーア皇帝ウジャス三世はこの年、ヌファールの月に七十八年の数奇ながら幸薄い生涯に幕を下ろした。臣下としてラトキアからも弔問使節を出したのは既知のことであり、ゼーア帝国の伝統である「告別の儀」はすでに滞りなく行われた。
 その伝統で皇帝の死去から数ヶ月――時によっては一年近く――その遺体は宮殿内の祭礼室に安置され、各国の使節はともかく下々の者たちも最後の別れを告げることを許されている。
「ウジャス三世がみまかられたことは知っていようものを。ゼーア皇帝の名を後ろ盾にすることはできないはずだ。何か裏があるに違いない。さらに調べろ」
「かしこまりました」
 小姓から水を貰って人心地ついた伝令は、深々と頭を下げて再び天幕を出ていった。
 いくら心中に割り切れないものを抱えているといっても、アインデッドの行動は素早かった。今からではナーディル軍に追いつこうとしても兵たちを疲労させるだけだと考えた彼は、その日はとりあえずエルザーレンの原で野営した。
 翌日ペルジアとラトキア、エトルリア三国の国境沿いにまたがるイテューン湖を眼前に臨み、なおかつ国境を守る要所であるサナア砦に軍を移した。
 サナアに到着した頃、シャームからルカディウスが追いついてきた。彼は前々から交渉のあった、ラトキアの虜囚となっている第一公子ランの身柄と引き換えにエトルリアとの相互不可侵条約を手早く締結させてきたのであった。密かに命じられていたマリエラ探しももちろんあったのだが。



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