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 ラトキア先代大公の遺児たちが諍いを起こした、というニュースはルカディウスの尽力でぎりぎりまで隠し通していたので、中原に広まるまでにはかなり時間がかかった。しかし何にせよ文化の中心、情報の飛び交うクラインの首都カーティスでは他の国よりもいち早くその噂で持ちきりとなった。
 劇的な祖国奪還を果たした女大公シェハラザードと、彼女が身を以って落ち延びさせた弟ナーディルの間に起きた悲しい争いと、そしてその戦いの陣頭指揮を取るのがいま時の人であるアインデッド将軍である、というのは吟遊詩人たちの創作意欲をかきたてたし、もちろん噂好きな人々の欲求を満足させてあまりあるものであった。
 そして、ここは中原の華やかな文化と政治の中心、クラインはカーティスの金獅子宮であった。謁見の時間を待つ控え室でも、人々の話題はラトキアの内紛にあった。
(そのナーディル公子はペルジアの公女を花嫁にする条件で、ペルジアを後ろ盾につけたのだとか……)
(あの、ペルジアの三大美女のいずれかをですか。これはまた――)
(面白い取り合わせではありますが、ペルジアも横暴ですな。ナーディル公子といえばまだ成人もしておらぬ少年ではありませんか。順当に行けばメーミア第一公女か、一番若いリール第三公女との縁組になるのでしょうが、それではまったく美女と野獣の正反対というもの)
(おや、貴殿もなかなか意地悪い)
(何を仰る。思うままを申し上げたままですよ)
(ははは……)
 絶え間ないお喋りと笑い声が控え室に満ちる。
 そしてまた、情報の早いクラインでは、首都カーティスでなくとも中原の話題はそれぞれの州都を中心として広がっていく。そんな中で、人々の笑い声にうんざりしていたのはサライであった。
「何かお飲み物は?」
「要らないよ」
 あるじの素っ気ない応えは気にしないで、アトは持ち上げかけていたアーフェル蜜の壜を机に戻した。先ほどまでサライはファイラと共に、前エセル候クラディウスの主催したパーティーに出席していたのである。
「飽きもせず、皆よく人の噂などできるものだね」
 サライは飽き飽きしたような表情を、アトの前では隠しもしなかった。
「平和な証拠ですわ。もしこの噂の舞台がクラインでしたら、そんなふうに話題にする事などできませんもの。それに大事になったら、こんなふうにのんびりと滞在などしていられませんわよ」
「確かにね。君の言葉にも一理あるな」
 さして感心したようでもなくサライは頷いた。
「ところで、もしペルジアの公女が華燭の典を挙げるというのなら、クラインもお祝いを述べるべきだろうか。一応あそこも歴史と由緒あるお国だからね」
「そんなことは、決まってからご自分でお考えになってください。私は摂政ではありませんし、ましてカーティス公爵でもございませんもの」
「また、意地悪を言う」
 サライはくすくすと笑った。だがその笑いは、ふいに潮が引くように消えていった。そして彼は、ぽつりと呟いた。アトはアーフェル蜜の瓶とグラスを下げるために背を向けていたので、その言葉を聞く事はなかった。
「だが……アインデッドには、辛い戦いになるかもしれないね」

 なぜ突然ナーディルが退却し、あろうことかペルジアに逃げ込んだのか。その答えは二日後にようやく戻ってきた間諜が持ってきた。
「ナーディル公子の後ろ盾としてペルジア大公がたちました。現にヒダーバードに何度かペルジア大公からの使者が訪れております。どうやらナーディル公子を助ける代わりに公女のいずれかと結婚させ、ゆくゆくはラトキアをペルジアに併合しようというもくろみのようです。いずれペルジア政府よりの正式な宣戦布告があるものと思われます」
 アインデッドはとっさに何か反応するのも忘れて、難しい顔をして口許に指を当てた。数秒後、考えながら口を開く。
「あのペルジア公女を、ナーディル殿下にか。一番下の公女でも、殿下より十以上も年上じゃねえか。ということは、ナーディル殿下は――というよりは、アクティバルがその話を飲んだからあんなにもあっさりと兵を引いて、ペルジアに入ったというわけか」
 それであの不可解な行動の全てが理解できた。こうも迅速に動いたという事は、恐らく兵を興す前からペルジアに渡りをつけ、ある程度まで話をつけていたに違いない。
「俺だったらどんな窮地に陥ろうが、ペルジア公女と結婚だけは勘弁だがな。窮すれば何とかとはよく言ったもんだ」
 あとで部屋を訪ねてきたルカディウスに、アインデッドはそう言った。
「ああ、そうだな」
「高名なる《ペルジア三大美女》にお目にかかってみたいとは思うが、結婚したいなんて俺は死んでも絶対言いやしねえぞ。お前ならさぞ似合いのカップルになるだろうが」
「ひどいじゃないか、アイン」
 恨みがましく、ルカディウスは言った。
「何が」
 アインデッドはそっけなかった。
 が、これは確かに厄介な事態であった。できるだけ他国の介入が無いうちに解決しようとしていたアインデッドの心算は全て無駄になってしまったし、いくらペルジアとはいえ一国を相手取るとなると政治も絡んでくる。
 その上、現在ヒダーバードにはナーディルだけでなく、皇帝に反旗をひるがえしたブランベギン候ルノー・ド・ハークラーがメビウスから逃げ込んできたらしい、という未確認の情報もあった。この顛末はリュアミルとアルドゥインの婚約発表とともに各国に伝えられていたのでアインデッドも知っていた。
 それだけでも頭が痛い問題だというのに、さらに彼を煩わす事件が起きたのだった。
「何でラトキアの内紛にゼーア三国全部がしゃしゃり出てくるんだ!」
 アインデッドの第一声はそれであった。怒鳴られたルカディウスと使者の後ろにはアインデッドの見慣れた顔――ランがいた。国に戻ったと見えたランはそのまま自分の兵を連れてラトキアにとんぼ返りし、あろうことか援軍の申し入れをしてきたのだった。
「だから、アインデッド殿。ペルジアの大公妃ファレンは我が伯母。それにそもそも、ラトキアに攻め込み、このような事態の原因を作ったのは我が父サンにほかならぬ。ということで、我がエトルリアの骨肉がこのような不始末に一役買っているとあっては我々も立つ瀬がない。ゆえにこうして貴殿のお力添えになろうと」
 ランは引見の際アインデッドにやりこめられて、こてんぱんにプライドをのされてしまってから、年下とはいえ彼に苦手意識を抱いていたので下手に出ていた。とうのアインデッドにとってはそれは過ぎた昔のどうでもいいことで、今となってはただこれ以上事態をややこしくする相手、もっと端的に言ってしまえば勝利のおこぼれとラトキアの利益を狙う相手としかランを見ていなかった。
「援軍なんかいらねえよ」
「まあ、そう仰らずに」
(だいたい、俺に負けたような軍勢があてになるものか)
 喉まで出かかったその言葉を辛うじて飲み込んで、アインデッドは口をつぐんだ。それをどう取ったのか、ランはどこか卑屈そうな満面の笑みを浮かべてアインデッドの肩を叩き、上機嫌で去っていってしまった。
「あいつと馬を並べて戦うなんて、俺はごめんだぞ」
「そこをまあ、何とか。奴にも奴なりに事情と言うものがあるんだ」
「ルカディウス、一体やつと何を取引しやがった?」
「そんなことはない」
 アインデッドは椅子に足を組んで座り、何となく自慢げなルカディウスをちらりと横目で見た。どんなに嫌な相手であっても、話し相手がいないよりはましであったし、しばらく顔を見ていなかったのでアインデッドはいつもよりはルカディウスに親切だった。
「あいつは国内での人気をかなり落としているんだろ。サンの愛妾だったシェハラザードを手込めにしようとした一件でかなり父大公の信用を落としたらしいからな。それの名誉回復のためってところか。表向きは友誼のためとか何とかしておいてな」
「ああ」
 アインデッドの憶測を、ルカディウスはあっさりと認めた。そこに小姓が入ってきた。
「閣下、密使らしきものが手紙を持ってまいりました」
「密使だと? どこからだ」
「それが、メビウスだということです」
「メビウス?」
 ルカディウスが怪訝な声を上げた。
「よこせ」
 アインデッドはその手紙をひったくって読みはじめた。そのおもてがだんだんと真剣なものになっていくのを、ルカディウスはじっと見つめていた。読み落としが無いかどうかもう一度読み返してから、アインデッドは誰に言うでもなく呟いた。
「メビウスの紅玉将軍アルドゥインからだ。今、紅玉騎士団七千を率いてクーナウに駐留しているそうだ。会談を望むとある。場所と時間はこちらの指定に任せるということだ」
 アインデッドはつと手を伸ばして、そばに置いてあったゼーアの地図を手にとってルカディウスの方に投げた。
「ルカディウス、適当な場所を選んどいてくれ」
「あ、ああ」
 そしてルカディウスはしばらく地図とにらめっこしていたが、顔を挙げて一点を指差した。
「ここはどうだ、アインデッド」
 アインデッドも地図を覗き込む。サナアとクーナウの中間地点くらいに位置し、イテューン湖のほとりにあるジムハエという小さな村だった。位置を確認してから、アインデッドは小姓に命じて筆記用具を持ってこさせ、返事を書いた。
「その使者をここに案内してさしあげろ」
 メビウス――アルドゥインからの使者が来たのはすぐだった。
「メビウスのアルドゥイン将軍に親書を。ご希望の会談の場所は、ジムハエの村。日時は貴軍の状況に差し支えなければ明日の夜、ルクリーシスの三点鐘を望む」
「かしこまりました。確かに承りました」
 親書を受け取ると、使者は優雅な仕草で礼をして小姓に送られて出ていった。ルカディウスはアインデッドを振り返った。アインデッドはなぜか、また遠い目をして心ここにあらずといったていであった。
「アイン?」
「え、あ、ああ」
「ランにも伝えておこう。ラトキア‐エトルリア‐メビウスの連合軍という形になるのかもしれないな。同じヒダーバードを目標として、共闘したいという所なのかな」
「ああ」
 ルカディウスがぶつくさ言っているのもアインデッドは耳に入っていないようであった。ただ仕事ではあるから明日のルクリーシスの三点鐘にジムハエの村にて会見を行うという内容のラン宛の親書を黙々と書いていたのだが、どうにも彼らしくなかった。
(アルドゥイン……俺には判る。何となくだが、あいつがそんな欲得ずくでこんな申し入れをしてきたのではないという事が)
 アインデッドは空を見た。たそがれ近くなって、空は燃えている。
(明日、アルドゥインに会える。あいつにまた……)
 なぜそんなに待ち遠しいのか、アインデッド自身にも説明はつけられなかった。だが時間だけは刻々と、明日のルクリーシスの三点鐘に近づきつつあるのだった。



「Chronicle Rhapsody29 翼の訪れ」完 (脱稿2009)

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