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     悪魔とは 決していつでも
     醜い姿で現れるものではない
     かれらは往々にして
     光の使いのように美しい姿で
     我々に災いをもたらすのだ
           ――ヤムの経典より




     第四楽章 エルザーレンの戦い




 ほとんど休憩もとらずに行軍したので、アインデッドの主力部隊は翌日の夜を待たずにエルザーレンにほど近いエンシーの町にたどり着き、砦に入った。ここでエルザーレンに放った間諜の情報を待ちながら、事態の展開に備える予定である。場合によってはこのままシャームに戻るかもしれないが、最悪の場合はエルザーレンを攻撃し、ナーディル公子と戦矛を交えねばならないだろう。そんなこともあって、進軍を急いでいたとはいえ足取りは重かった。
「閣下、医師が包帯のお取替えをと参っておりますが」
「ああ。でももう大したことはないぞ」
「でもございましょうが、万が一にも傷口から悪い風など入りますと、何分大切のお体でございますので」
「わかったよ。――早くやれ。それからその後で酒を持ってこい」
「は」
「酒は、お傷にはさわりますがなあ」
 入ってきた軍医は感心しないといった様子であった。そっと包帯を巻き取り、小姓に持ってこさせた湯で傷を洗い流す。
「お痛みはいかがでございますか」
「どいつもこいつも大げさでいけねえな」
 アインデッドは肩をすくめた。
「たかがこんな傷に、こんなに大仰に包帯まで巻いて。昔の俺だったら酒をぶっ掛けて放っておく所だぜ。俺は、ひとより治りが早いんだ。そりゃまあまだ多少は痛えが、傷口だってもう塞がってるのに」
「いや、大切の御身でございますからな」
 軍医が薬を塗り、包帯をそっと巻きなおす間、アインデッドは何も言わずにおのれの想念を追っているように見えた。かたわらに控えた小姓はひそかにその遠くを見ているような横顔を崇拝の目で見上げた。今のラトキアにとって、守護神はアインデッドをおいて他に存在していない。
 ステラ伯やハディース伯はいるが、格から言っても、市民の人気のほどもとうてい大将軍とは言えない。アインデッドの怒りっぽさや乱暴な物言い、烈しい気性やシェハラザードとの噂でさえ、この軍神にひときわ伝説的な光輝を添えるかに思われ、その彼の身辺近く仕える身がこの上もなく光栄に思われるのである。
「ましてこれからいくさが控えておられるのかもしれませんのですから、肝心かなめの右手がご無事でよかったものの、一日も早くご回復なさらねば。ルカディウス卿からもそのようにかたく申し渡されております」
「ルカディウスか」
 アインデッドは眉を寄せて小姓を振り返った。市門を出てから、アインデッドはルカディウスにマリエラという名の女吟遊詩人を探し出して連れてくるようにと命じていた。人垣の中に一瞬見かけただけだったが、それが本当にマリエラであったら、話したいことがあったのである。
「おい、デニス。まだルカディウスはシャームから戻っていないのか。ちょっと行って見て来い」
「かしこまりました!」
 神その人から命令されたように、まだ十七、八の少年は駆け出していった。軍医は包帯を巻き終わった手をそっと置き、薬や古い包帯を片付けにかかった。
「それにしても閣下のお人気はたいへんなものでございますな。このエンシー砦でもほとんどの町民がお出迎えに参っておりました。皆ただ一目閣下のお姿を拝見したいばかりに朝からずっと街道筋に並んでお待ちしていた様子でございます」
「らしいな」
 アインデッドはよもやま話に付き合うのが面倒なのと、しかしルカディウスとマリエラと双方がどうなったかわからぬままに一人で待っているのも気が滅入るのの板ばさみになりながら、いいかげんな返事をした。
「さきほどの小姓にいたしましても、先日シャームで将軍閣下がお怪我をなさったと私を呼びに参りましたときは、ほとんど涙を流さんばかりのうろたえようでございました。いまやラトキア国民にとっては閣下が唯一の希望の綱になっておると申しても過言ではございますまい」
「おかしなことだな、軍医殿」
 アインデッドは唇をゆがめた。
「俺はずっと変わらない俺なのに、怒鳴り飛ばしても、叱りつけてもみんななぜ俺を嫌いにならないんだろう。それどころか、何をしてもいっそうありがたそうに見つめたり俺の意を迎えようと必死になったりする。おかしな話だよな、人の心なんてものは」
 しかし、医者は首を振った。
「いやいや、それはもう、もともとのお人柄でございますので、あのような小姓風情でも申しております。閣下は短気であられるけれども決して理不尽なことはなさらない、まことに清らかなお方である。お傍近くにお仕えしていると、英雄というものはつくづく日常の生活には向かぬものだということを感じて切なくなると。英雄はやはり戦場にあって初めてその本当の居所を得るものだとしょっちゅう申しておりますよ。子供にしてはよく申したもので」
「……」
 アインデッドはわずかに浮かべていた自嘲のような笑みを、困惑の表情に変えた。
「日頃お傍にお仕えしていると、閣下がこれほど英雄的であるにもかかわらず、時たま奇妙においたわしい気持ちのすることがある、と申しておりましたよ」
「へえ……俺がか」
「はい。あの子供は閣下をそれは崇拝しておりまして、閣下のために生命を捧げるならばこれほど嬉しいことはない、と涙ぐまんばかりに――さきほど次の間でお待ちしておりました時ですが、閣下のお怪我をたいそう心配しておりました。閣下はとてもお強いけれどもそれでいて時たまとても儚げに見えるから気がかりでならない、と。このお怪我でひょんなことになってはとたいそう気にかけておりました」
「へえっ」
 アインデッドは玄妙な顔をした。自分でも自分が決して慈悲深い主人だったり、心高く優しい主でないことくらい百も承知である。気ままに怒鳴りちらし、場合によっては小姓に当たり散らしたりもするし、行儀も悪い。
 だのに、どういうものかこのところ急速に、自分が何をしても、何をやっても人々に崇拝と憧憬の目で見られることにアインデッドも気づいていた。それをどのように受け取ったらいいのか、まだよく彼には判らなくて、多少戸惑っているところもある。
 人気というものの奇妙なからくりの中で、いったん人々のイメージの中でまつりあげられてしまった自分と、本来の自分とがおかしなふうに変貌しはじめていることは薄々感じてはいたが、まだそのことの恐ろしさは彼にもよく判っていなかった。ただ彼に判っているのは、最近どうもシェハラザードよりも自分の方に人々が多く喝采したり、熱いまなざしを向けるようだが、というような実感であった。
 もともと彼は人の人気を集める資質は子供の頃からあったのだが、それは今や所と時の勢いを得て、彼本人が戸惑うくらいに急速にはびこりはじめていたのだ。ずっと年下の小姓あたりにまで自分が清らかだの、守ってやりたいのと言われていると聞いてはアインデッドとしては目を白黒させているよりほかなかった。
「まだお怪我が完全に治らぬうちは、なるべく強いお酒はお控えになった方がよろしいかと」
「わかった、わかった。小姓が戻ってきたかな」
「はあ。それではこれで、お大事になさいまして」
「閣下」
 軍医と入れ違いにデニスが戻ってきて膝をついた。アインデッドはさっき聞かされた話のせいで変な気分で彼を見たが、その視線には気づかなかったようだった。
「ただいまシャームよりアクバル隊長が戻ってまいりまして、ご報告をと」
「ああ。通せ」
「アクバルでございます」
 さきにルカディウスとはまた別に吟遊詩人の探索を命じられた隊長は、緊張した面持ちで膝をついた。ルカディウスがまだ他にも国内で片付けなければならないことがあると言っていたのは知っているし、ルカディウスに全て任せては、マリエラに危害を加えはしないか心配だったのである。
「まことに申し訳ございませんが、マリエラと申す吟遊詩人、見失いましてございます」
「そうか」
 アインデッドは隊長や小姓たちが恐れていたように、烈火のように怒り出しはしなかった。そんなところではないかと思っていたのである。田舎だとはいえどもシャームはラトキアの首都である。広い上に、吟遊詩人の格好すらしていなかった一人の女を探せというのはどだい無理だし、アインデッドもことさら期待はしていなかった。確実に目が合って彼女だと思ったけれども、もしかしたら見間違いだったのかもしれないのだから。
「ひきつづきまして各市門にふれを回し、女が通れば必ず引きとめてマリエラと申すものかどうかを探索せよと命じてございますので、おっつけ何らかの消息がございますでしょう」
「わかった」
 アインデッドは諦めて言った。
「まあ――俺の個人的な用事なんだから、そこまで徹底して探すこともない。二日経っても何もなければ引き上げていい。ご苦労だったな」
「いえ。とんでもないことでございます」
「それから、閣下。エルザーレンの間諜より早馬が」
 デニスが言った。
「わかった。通せ」
「このお手紙でございます」
 アインデッドは隊長を下がらせて、手紙をひったくるようにして受け取った。ふとアインデッドの中で、できれば和解交渉、あるいは条件付でもいいから降伏で済みそうだという情報であれば、という希望が頭をもたげた。彼はざっと目を通してから、もう一度内容を確かめるようにゆっくり読み返していった。
「そうか……」
 主人が読み終わるのを、デニスは辛抱強くじっと待っていた。
「和でしょうか、それとも?」
「全面衝突になりそうだ。できれば避けたかった事態になりつつあるようだな。ナーディル殿下はすでにこの先のエルザーレンの原でわれわれをお待ちかねだそうだ。エルザーレン騎士団三千とファセリス騎士団千五百、ケラメイス騎士団千の、合わせて五千五百騎を率いてな……」
「やはり、いくさでございますか」
 小姓たちが上目遣いに主人の美しい顔を見上げながら尋ねた。
「そうなるみたいだな」
 うかない顔で――それが近習のあわれを誘ってやまないものなのだが――アインデッドは言った。



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