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     振り向きさえしなければ
     私はまたあなたとともに
     あの光の内を歩めたでしょうに
     黄泉の永闇に私はまた戻らねばなりません
     あなたの裏切り、あなたの疑いゆえに
     ああ――
     あなたが振り返りさえしなければ
           ――エウデュリチェの嘆きの歌
                 『オルフェ』より




     第三楽章 還せぬ時の序曲




 眠れぬ夜を過ごしたシェハラザードは、ナーディル救出のための一軍の編成をどうするか、どのような作戦を立てるかといった具体的な案を練るための会議に先立ち、アインデッド一人を呼び出して相談を持ちかけた。アインデッドにも、あらかじめ告げておきたいことが幾つかあった。
「今回は、俺は出ない方がいいと思う。ここはマギード殿に任せた方が、アクティバル殿たちを刺激せずに済むと思うんだ。奴らが追い出したがってる俺が出陣したら、連中は俺を殺すために本気でかかってくるだろう。そうなると、俺一人の問題じゃない。騎士団の兵たちを無駄死にさせる事になってしまう」
「でも……反乱軍とはいえ、マギード兄さまにとっては、部下に他ならぬ者たちだわ。それを征討せよと言うのは酷だし、逆に手心を加えるようなことがあっては戦いが長引くかも知れないし……」
 アインデッドは辛抱強く言った。
「何もラトキアの将は俺一人じゃないんだ。ハディース殿もいるし、カーン殿もいる。国境線からロディエ殿を呼び戻す手もある。身内がどうのと言ったって仕方がない。ナーディル殿下の安否がかかってる時に、そんな事は言ってられないはずだ」
「それは……あなたの言うとおりね……」
 下唇を軽く噛み締めながら、シェハラザードはかすかに眉を寄せた。彼女が最終的な結論を出す前に、そこに突然慌ただしく扉を叩く音が割り込んできた。ノックの返事も待たず、まろぶように侍従が駆け入ってきた。無礼を咎める場合ではないようだ、というのはすぐにどちらも悟った。
「どうした?」
「一大事でございます。ナーディル殿下が閣下に対して宣戦布告を行われました」
「何ですって?」
「閣下!」
 シェハラザードは弾かれたように立ち上がり、ついで半ば気を失いかけてよろめいた。それをアインデッドが腕を出して支えた。彼の手だけが頼りであるかのようにすがり付いて、シェハラザードは喘ぐように言った。
「それは……本当なの?」
「ここに書状が。確かにナーディル殿下のご手蹟と印でございます」
 答える侍従も苦渋の表情を隠せなかった。差し出された書状をシェハラザードは受け取る事もできなかったので、アインデッドが空いた手を伸ばして代わりに受け取り、目の前に広げた。
 張り裂けそうなほど目を見開いて、シェハラザードはその文面を追った。呆然と唇が開かれたが、何も言えぬまま震えるばかりだった。後ろから覗きこむように書状を読んだアインデッドのおもてにも苦いものが表れる。衝撃のあまり声も出ないシェハラザードに代わり、アインデッドは尋ねた。
「これは今日、いま届けられたものなのか?」
「さようでございます」
「使者は? 留め置いてあるのか、それとも」
「エルザーレンよりナーディル公子の書状であるとことづけて衛兵に渡したものがいたということでございますが、城には入らずそのまま去っていったとのことです。今すぐ追っ手を出しましょうか?」
「いや……そんなことをしても無駄だ」
 アインデッドは唇を噛み締めた。
「ア……アイン……」
 彼の顔を見上げて、シェハラザードは倒れかかりそうになりながら、かすかな声で呼んだ。彼女を椅子に座らせて安心させるように頷きかけてから、アインデッドは侍従に視線で退室を促した。それに続いて自分も部屋を出ると、小声で命じた。
「即刻、宰相閣下以下の閣僚を赤の間に集めるように。ただし、事情を細かく説明する事はするな。外部に漏れぬように気をつけろ」
「かしこまりました。大公閣下のご出席は……」
 扉の向こうに心配そうな視線を投げる侍従に、アインデッドは低声で言った。
「大公閣下のご動揺は見ての通りだ、分かるだろう。だが事態は急を要するんだ。宣戦布告された以上、いつ攻撃が始まるか判らない。閣下抜きでもとにかく今後の対応を考えなければ」
「将軍閣下は」
「対応だけなら俺抜きでも何とかなるだろう。大公閣下のお傍にいる。もしどうしても俺の意見なり命令なりがいる事態になれば呼び出してくれ。ここか、大公閣下のお居間にいることになるだろうから」
「かしこまりました」
 二度と尋ね返すことはせず、侍従は駆けていった。それを見送って、アインデッドは部屋に戻った。シェハラザードは彼が出ていったときのまま、呆然とした面持ちで椅子に腰掛けているばかりだった。
「シェハル」
 呼びかけると、彼女は潤んだアメジストの瞳を上げた。
「ナーディル、ナーディル……わたくしを討つなどと、どうしてそんな恐ろしいことを? わたくしはただ本当に、あの子に大公を継いでもらいたかった。それだけなのに、どうして、どうして……?」
 シェハラザードの肩が小刻みに震え、こての一つも当てていないのにゆるやかで優美な曲線を描く、銀色の滝のような髪がさらさらと顔の前に落ちかかってきて、彼女の顔を隠してしまった。それでも、彼女が泣き出したことはわかった。
「まだそうと決まったわけじゃない。ナーディル殿下は反乱軍のただ中にお一人で取り残されてしまったんだ。殿下のお墨付きが欲しい連中に、脅されて書いたものに違いない。本気でナーディル殿下がこんなことを書くはずがないじゃないか」
 シェハラザードは顔を上げ、アインデッドを見た。その青白い頬は痛々しくも涙に濡れていた。彼の慰めも耳に入っていなかった様子で、呆然と繰り返す。
「なんて……なんてことなの……一体どんな悪魔があの子の心にそんなことを吹き込んだの? アイン、わたくしにはもう判らないわ。何も判らない……」
「シェハル、しっかりしろ……」
 アインデッドはシェハラザードを息がつまるほど抱きしめた。シェハラザードもまた、すがるものはそれしかないようにアインデッドの背中にすがりつき、衣服を握りしめた。そうしなければ、倒れてしまいそうだった。
「そう、そうね……。わたくし、泣いていてはいけないわ……大公なのに。大公なのに……でも……でも」
 シェハラザードはすすり泣きながら途切れ途切れの言葉をしぼり出した。その細い肩をアインデッドはさらに強く抱いた。
「今はいい。今は……今だけは泣いてもいい。お前はナーディルの姉なんだ。大公である前に、お前はあの子の姉なんだから――」
「ええ……ええ」
(一体どんな悪魔があの子の心に……)
(悪魔……)
 アインデッドは唇を噛んだ。
(俺だ)
 苦く、アインデッドは心のうちに呟いた。
(俺という存在が、結果的にあの子を追い詰めてしまったんだ……)
 誰もいない小部屋で、次の報告が入ってくるまで二人は互いに違う物思いに沈みながら抱きしめあっていた。
 それが――数テル前の出来事であった。
「閣下、ルカディウス参謀がお話があるとおっしゃっております」
 小姓の怯えの混じった声で、アインデッドは現実に引き戻された。見ればかわいそうに、少年は不機嫌な主人に声をかけてはどんなことになるかと身をすくめていた。
「……お通ししな。それからルカディウス卿にアーフェル水を持ってきてさしあげろ」
「は、はい」
 アインデッドはディヴァンに横たわったまま、そちらをもう振り向きもしなかった。ルカディウスが手柄顔で入ってくるのは目に見えていたし、それを見たくもなかった。小姓は不機嫌の絶頂にある――実際には脱力感の頂点にも差し掛かっていた――アインデッドに声をかけても無事戻れることが信じがたい様子で出てゆき、代わってルカディウスが入ってきた。
「アインデッド」
 ルカディウスが呼ぶと、アインデッドはかすかに頭をこちらに向けたが、またお前か、と言いたげな冷たい目が彼を出迎えた。
 ルカディウスは怯まなかった。アインデッドのそのような態度にはもう慣れっこであったし、何かただちに報告しなくてはならないことがある時には非常に誇らしい気持ちになれるのだった。アインデッドにとって自分が必要欠くべからざる存在であるという気持ちを味わうことができたからである。
「なんだ」
 そんなルカディウスの心の動きにもアインデッドはすでに慣れていた。毎朝、或いは夜ルカディウスが入ってきたときの様子――おどおどしているか、妙に自慢そうにしているかでその用事の重要度が判るからだ。
「やっと戦えるんだぞ、アインデッド。もう少し喜んでもいいと思ったのに」
「俺は気分が悪いんだ」
 うんざりしたように言う。自慢げにしていたルカディウスは勢いを失ってしまった。アインデッドはアインデッドで、なんとかして自分の持ってきた情報に興味を持たせようとか、もったいつけて発表しようとするルカディウスを見るたび苛々して、何が何でも興味など持ってやるかという態度をかたくなに守っているのだった。
「お前が喜びそうなニュースだと思ったんだが」
 ルカディウスはそれでもめげずに言葉を続けた。
「ああ、知らないのも無理はないだろう。お前が気分が悪いといって部屋にこもっている間に決まったんだ。ファセリス伯ジロ・デュシー、それにケラメイス男爵フオジ・タシェトの軍はナーディル公子の麾下に入って、正規軍を名乗っているらしい。公子はエルザーレンに拠点を置いて、全面的に戦う構えだ」
「……」
「ナーディル公子たちを捕らえる役はお前のものだ。やはり何と言っても、もと世継ぎの公子だ。誰もやりたくなかったらしいな」
 アインデッドはゆっくりと起き上がり、左手でグラスをもてあそびながらルカディウスをじっと見た。だがその目はすぐに、何か言い知れない深い感情をひたかくして伏せられてしまった。
「……こんな戦い、俺は望んでなかった」
「何を言ってるんだ。またとないチャンスだぞ? 戦いの神ナカーリアの申し子たるお前の言う台詞とは思えないな」
「馬鹿なことを言ってねえで、よ」
 ルカディウスのような剣も握れぬ男には、所詮武人である自分の思っていることなど判るまい、といったふうにアインデッドは首を振った。
「十八やそこらの子供と、六十過ぎた爺さんを陥れてまで戦いを望むような卑劣漢になった覚えは、俺にはねえ」
「陥れるだなんて、そんな人聞きの悪い」
 ルカディウスの言葉を、アインデッドは聞いていなかった。
「だいたい、先の戦いで活躍できなかった貴族どもが恩賞に不満を持っているのまでは判るが、ナーディルが急に連中の尻馬に乗ってシェハラザードに叛旗を翻すなんておかしなことじゃないか。俺は言ったはずだぞ。ナーディルには手を出すなと。いや――ナーディルが自分から、こんなことをしでかすとは思えねえ。本当の首謀者はアクティバルのじじいだな。それに……グリュンのじじいも一枚噛んでるはずだな。違うとは言わせねえ。これも全て、貴様が仕組んだことなのか?」
 急にアインデッドは立ち上がり、ルカディウスの胸座を掴んだ。最近ではめったにしなくなった、あの赤い盗賊の若き首領の表情がそこにあった。しかしそれは残忍で冷酷な一面の方で、見るものに絶対的な恐怖とそれにともなう確実な死をしか予感させないものだった。
「アイン、アイン……苦しいじゃないか。放してくれ」
「ナーディルに何をしたのか言え」
 アインデッドは物凄い形相で迫った。そのおもてが何か暗く激しい怨念めいたものに翳り、その目は妖しい暗い炎をたたえて物騒に輝いた。
「アイン――」
「何だよ。その顔は」
 ルカディウスの怯えた――それとも飲まれてしまったような顔を見て、アインデッドは凄惨な微笑を浮かべた。
「今の――今の顔――」
「どうかしたのか? それとも話を紛らわせたいのか」
「いや、何でもない。話そう」
 ルカディウスは呻くように言った。その目は確かに不安と怯えに似たものをひそめつつも、密かに恍惚となってアインデッドのその青ざめた、凄艶とも言うべき表情の変化に吸い寄せられていた。



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