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 アインデッドはルカディウスから手を離し、再びディヴァンに身を預けた。ルカディウスは話しはじめる前に襟元を整えた。
「俺は恩賞が少なかったと不満を持っている東北部の貴族たちを少々焚きつけてやったんだ。ついでにアクティバルに、誰かが自分の命を狙っている、という疑いを吹き込んでやった。だけど誰が、といった具体的なことは何も言ってないし、お前の望みどおり、ナーディル自身には何一つしていない。
 俺はナーディルの周りに駒を置いただけだ。それをどう動かすかはナーディル次第だったんだ。アクティバルがお前を疑ったのは奴の勝手だし、シェハラザードを引きずりおろそうと画策してナーディルを担ぎ出したのはファセリス伯たちだ。止められなかったのはナーディルの力不足というものだ。これはもともとラトキアという国に隠れていた問題が、一つのきっかけで表れただけに過ぎない。それは俺のせいじゃない。全てはヤナスの御心のままに進んでいったんだ、アイン」
 ルカディウスはどこか卑猥な笑いを浮かべながらアインデッドを見た。
「貴様は……」
 アインデッドは絞り出すような声でゆっくりと言った。
「貴様はどこまで卑怯なんだ? 年端も行かない子供を陥れて、この世にたった二人きりのきょうだいの絆を引き裂くような真似をして、貴様は心が痛まないのか? いや、そもそも貴様にはまっとうな人間の心と言うものがあるのか、え? どうなんだ!」
「お前のためだ、アイン」
 それはルカディウスがもっともよく使う、そしてアインデッドにはもっとも我慢ならないせりふだった。
「お前が今の地位を保つため……そしてシェハラザード大公の夫となってラトキアを手に入れるためには、ナーディルはどうしても邪魔だった。いずれこうなることだったんだ。ただ時期がちょっとばかり早くて、ナーディルがまだ幼いだけの話じゃないか。もし奴の歳がお前とそう変わらなかったら、やつが帰ってきてすぐにでもありえた話だぞ」
「……」
 アインデッドは静かにグラスの中の赤い液体に目を落とした。ルカディウスの言っていることは全くの誤りというわけではなかった。確かにナーディルが彼を敵対視していたならば、いずれは一番の敵になっただろう。だが現実にはそうではなかった。間違いではないかもしれないが、絶対に正しいわけでもない。そして何よりも、今の状態はルカディウスによって無理やりにもたらされた結果であるということが、アインデッドにとって最も納得ゆかず、また不愉快なことであった。
「……そうかもしれないが、だが、もう少し違った方法があったはずだ」
「それはないな」
 ルカディウスの答えはあっさりとしていた。アインデッドはそれが嘘だと判っていたが、どうせまた例の「お前のためだ、アイン」が出てくるに違いなかったので、あえて言及はしなかった。
(中原は……これをどう取るだろうか。何も知られず、ただラトキア国内の内紛だと伝わればそれでいい。だが、この陰謀が明るみに出たら、一体どうなるか。そんなことも、こいつは考えねえのか)
(ただ目の前にいる邪魔を取り除けばそれですむものではないと、政治がそういうものではないということはこいつだって判っていようものを)
 アインデッドはすっかりルカディウスのことを失念して、自分の物思いに沈み込んでいた。その妖しい凄艶な燃え上がる炎がおさまってくるにつれて、また何か別の妖しいどす黒いものが体から立ち上ってくるような感じがした。
(こいつには結局、何もわかっちゃいねえんだ。後で何がどうなろうがかまわねえんだ。大した意味なんてなく、ただ人を傷つけ、諍わせ、残酷に殺したいだけなんだ。――赤い盗賊の奴らにそうしたように)
(そしてそれをすべて、俺の上にかぶせようとしてる。――俺のためだと言って。結局は自分がそうしたいだけのものを)
(こんな奴に魅入られ、取りつかれるためだけに、俺はサライと別れなければならなかったのか? だとしたら俺に還る運命とは何だと言うんだ。俺と、サライの運命は――サライ……!)
 全くの無意識のままだった。
 アインデッドは己が思いにあまりに深く沈みこんでしまったので、いつしか自分がどこにいるのかも忘れ、さながら辺りにはルーディアの森、或いは雪の双ヶ丘が広がっているかのような錯覚にとらわれてしまっていた。
「――っ!」
 鋭い叫び声をあげてアインデッドは我に返った。左手から鮮血がどくどくと流れ出し、床に滴り落ちていた。
「――くそっ!」
 アインデッドは呪詛の声を上げた。あまりに突き詰めた思念に引き入れられて、知らず知らずのうちに、彼は酒を飲み干したガラスの杯を握りしめ、握りつぶしてしまっていたのだ。
「――畜生」
 それさえも何かの神託であるのかと疑われた。アインデッドは焼け付くような痛みにもかかわらず、ぎらぎらと輝く目でおのが手を網目にいろどって滴り落ちていく真紅の血潮を睨み据えた。
(畜生っ――!)
「アイン――!」
 ルカディウスは凍りついたようになった。アインデッドはかまいもしなかった。
 熱にでも浮かされた人のようにまだぎらぎらと光る狂おしい眼差しで宙を見据えながら、アインデッドはのろのろと杯を床に投げ捨て、傷ついた左手を口元に持っていった。自分が何をしているのかも気づかぬように舌を出してぺろりと滴り落ちる血をなめた。たちまち口の中に鉄のような血の味が広がる。
「アインデッド、手を上に上げるんだ。傷を下に向けちゃいけない。痛むか――何だってこんな不注意な――大事な体だというのに……」
「……」
 アインデッドはまだおのれの思念に取り付かれていた。ルカディウスの存在など目にも入らないように、ぎらつく目でルカディウスを、あるいはルカディウスを通したその彼方を見据えた。彼の唇が鮮やかな血の色を刷いて、ひとすじの真紅の絹糸のような血が唇から滴り落ちているのを、ルカディウスは凍りついたような目で見つめた。
「アインデッド……」
 やっと、アインデッドはルカディウスにまともに目を合わせた。瞬間、彼のうちでくすぶっていた怒りとやり切れなさが爆発した。
 アインデッドは獣のような瞬発力でディヴァンから立ち上がり、覗き込もうとしていたルカディウスの顔を、傷ついた左手で横ざまに殴りつけた。殴られたルカディウスの顔にも、床にも血がしぶいた。
「ア、アイン……」
 殴られた頬を押さえてよろめいたルカディウスは、続けて腹を蹴られてその場にうずくまった。彼はアインデッドの顔を見上げて何か言おうと口を開いたが、絶句した。アインデッドの瞳は彼を見ていたが、何も映してはいなかった。少なくとも、それは人を見る目ではなかった。
 それ以前に、人間の目ではなかった、と言った方が正しかったかもしれない。ただ殺意だけが奥に燃えている。それ以外の感情は読み取れず、濃い緑色の闇がその目の中に広がっているかのように見えた。それだけではなく、緑の陽炎がその身を包み、妖しく揺らめき立っているかのような錯覚を、ルカディウスは覚えた。
「お前は――何人殺せば気が済むんだ?」
 静かな声でアインデッドは問うた。
「俺に殺させるならまだいい。自分で手を下すなら、俺は納得できる。だが、俺の知らないところで、俺が望んでもいないのに、俺の名の下にいったいどれだけ俺から大切な奴らを奪っていけば気がすむというんだ?」
「……」
 ルカディウスは絶句したまま、アインデッドの血に彩られた美しい顔を見上げていた。
 その時だった。
「閣下!」
 魂を宙に飛ばした小姓の絶叫がアインデッドの耳を突き刺した。アインデッドに言われたとおり飲み物を捧げて入ってきた当番の小姓がこの様子を見て、仰天して立ちすくんで悲鳴を上げたのだった。
「将軍閣下、お怪我を!」
「何でもねえ!」
 アインデッドはいきなり後ろを向いた。そのまま立っていられないかのようにカーテンにすがりつく。彼の体重を支えかねて、白いレースのカーテンは音を立てて破れ、みるみるうちに鮮血に汚れた。
「何でもねえっ! 心配するな。俺は狂ってなんかいないから!」
 喘ぐように彼は口走った。そうして肩で息をしながら、ようやく悪夢から覚めてきたように自分の手を見下ろした。傷が開き、どくどくと血が滴り落ちる。アインデッドはくらっとよろめいてテーブルに身を支えた。
「いてえっ、畜生」
 今初めて痛みを感じたように顔を歪める。彼は暖炉の後ろの壁にかかっている鏡に目をやり、苦笑して怪我していない方の手で乱れた髪をかきあげた。
「人を食った悪魔みたいになっちまったじゃねえか」
 小姓を落ち着かせるためのように冗談めかして呟く。それから彼はルカディウスを振り返った。
「ルカディウス、手当てしろ」
「え――あ……ああ……」
「それから小僧、風呂は入れるようになってるんだろうな。こんなになっちゃしょうがねえ。手当てを済ませたら体を洗っちまおう。その間にここを片付けとけ。それから気付けに酒を一杯持って来い。今すぐにだ」
「は、はいっ」
 小姓が飛び出していく。ルカディウスは怖いものでも見るようにアインデッドを見つめていた。それを見返って、アインデッドは笑い出した。
「なんだ、どうしたんだ、ルカ。早くしろよ」
 歪んだ悪魔のような微笑を浮かべてアインデッドは言い足した。
「俺が怖いのか?――まさかそんなことはねえよな。お前は俺を利用するんだろ、これからも。俺が死んじまってもいいのか? さあ、手当てしろよ。ち、痛えったらありゃしない。これじゃ当分手綱は取れねえな」
 アインデッドは言い終えて、そして血のしぶきのはね飛んでいるディヴァンに自堕落に引っ繰り返った。
「痛くするなよ」
 無造作に左手を差し延べるのを、ルカディウスは殆ど恐怖に駆られたようにおしいただいて調べた。
「破片は入っていないようだが……これはやっぱり、宮廷医師に一応ちゃんと診せておかないと。もし万一悪い風が入ったりしたらおおごとだし」
「何言ってんだ、ルカ」
 アインデッドの声は何かぞっとするものをはらんで優しかった。アインデッドは恐ろしい薄笑いを浮かべながら囁くように言った。ルカディウスは魅せられたようにその彼を見つめたまま身を震わせた。
「俺は死なないぜ。お前が殺そうとでもしないかぎりな」
 アインデッドはくっくっと笑い出した。これまで、あまり彼のしたことのない奇妙な響きをはらんだ笑い方だった。ルカディウスはがたがたと震えながらアインデッドの手当てを黙々としていた。
「終わったらとっとと出て行けよ。しばらく貴様の顔など見たくもないからな」
「ア、アイン……」
「何だよ」
「その――酒は……それに風呂はよしておいたほうがいい。見かけより傷が深いから、具合が悪くなるかもしれない。それより横になっていた方が……」
「お偉い将軍様がガラスの破片で手を切ったからって床におつきあそばしたりしてたら、シャーム中の笑いものだぜ」
 アインデッドは言った。そうしてちょうど入ってきた小姓の手から火酒の杯を奪い取ろうと身を起こした。乾きはじめてようやく判別がついたが、乱れた髪にまで血のしぶきが飛んでいた。左手を白い包帯に包まれ、まだその血がぬぐいきれずに残っているのかと見えるほど鮮やかな血の色の唇を痛みに軽く噛み締めた彼はさながら、地獄の女王エリニスの一人であるかのように妖しく不吉であった。



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