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 声を発したのはアクティバルであった。シェハラザードはちょっと訝しげに大きく瞬きしたが、落ち着いた様子で許可した。
「苦しからぬ、アクティバル。申してみよ」
「我がエルザーレンをはじめ、東北部は畑が多くある穀倉地帯でございます。また、今は作物にとって一番の成長期であり、最も大切な時期です。この時期に大掛かりな戦闘を起こして、万一にも田園を荒らすということになってしまっては今年の税収に大きな打撃となります」
「確かにそれは、そなたの言うとおりだ。では、そなたには何か良い策でもあるというのか?」
 納得したように頷きながら、シェハラザードは続きを促した。
「今は息子に譲り申したとはいえ、それがしはエルザーレンの領主たる身。デュシー、タシェトの二卿ともその父の代からの旧知の仲でございます。その縁を以て、兵を引くよう彼らを説得してみましょう」
 わずかに考え込むような様子を、シェハラザードは見せた。戦わずにことを収められるならばそれに越したことはない。また、彼を将軍に復職させるために何らかの武功が必要であったことも思い出した。ある意味、これは絶好の機会と言えた。
「できるか、アクティバル?」
 シェハラザードの問いかけに、アクティバルは大きく頷いた。
「大公閣下の御為、必ずや良き結果を持ち帰ってみせましょう」
 自信に溢れた返答であった。シェハラザードは迷いのない目で老将軍を見つめ、手にしていた宝剣を鞘ごと向けた。
「それではアクティバル、そなたに反乱鎮圧の総指揮を命じる。鎮圧軍には五色騎士団のいずれかを使うがよい。イミル将軍、異存はないな?」
「むろんのことでございます」
 シャームを空けずに済んだ安堵と、戦いに出られない残念な気持ちとがない交ぜになった微妙な心境であったが、アインデッドはそれを仕事用の無表情の下に押し隠して頭を下げた。
「して、シェハラザード様。このアクティバルより一つ、お願いの筋がございます」
「何か?」
「この戦の総大将は、大公家のご威光を反乱軍に示すため、ナーディル殿下に務めていただきたく存じます」
 シェハラザードは答える前に、ナーディルに尋ねた。
「ナーディル、そなたの意見は?」
 少し考えるように首を傾げたが、ナーディルは頷いた。
「我が民を相手に初陣というのはあまり気が進まぬ事ですが……姉上のご命令とあらば喜んで参ります」
「では大公としてそなたに、鎮圧軍の総指揮を任せます」
 こうして朝見は慌ただしく終了したのであったが、アインデッドの心中は複雑であった。色々と考える事がありすぎたのである。足早に執務室へと向かいながら、彼は口に出さないように気をつけながらもずっとこの急の知らせについて考えていた。
(もしかしてこれは、グリュンの差し金じゃねえのか?)
 今回反乱を起こしたのは、グリュンが視察していたまさにその土地の領主たちである。偶然というにはできすぎたタイミングであるように思われた。しかしそれと悟られぬように探っていたところでは、グリュンが視察後に二卿と連絡を取っていたというような事実は浮かんでいない。
(待てよ、だが……)
 アクティバルは息子との手紙を頻繁にやり取りしていたはずである。その息子、ラバックもまたファセリス、ケラメイスにほど近いエルザーレンの領主であった。それからこの申し出。
 そうして考えてみると、全てが仕組まれた事のようにアインデッドには思えてきた。これはアクティバルに手柄を与え、将軍職に復帰させるための――アインデッドへの強力な対立候補を立てるための陰謀だと、そう考えると近頃のグリュンの上機嫌の理由が何となく理解できたのだ。
(となると、ファセリスとケラメイスの領主だけが損をする役回りだ。利益が何もない陰謀に加担するとは思えない。これにはまだ、何か裏があるんだ。だがそうだとして、一体どんな――)
 しかし何の確証もない、漠然とした疑いでしかない。アインデッドは苦々しい思いを噛み締めるしかできなかった。そうこうするうちに鎮圧軍には青騎士団が用いられる事が決定し、四日の後には全ての準備が整い、シャーム城で最も広い大馬場で盛大な出陣式が執り行われた。
 本格的に戦闘を行うつもりはないとアクティバルが明言していたものの、大切な弟を初めての戦場に送り出すシェハラザードの面持ちは決して、晴れがましいだけのものではなかった。総大将に全権を与えるための剣を授ける儀式の合間に、彼女はそっと囁いた。
「どうか無事で戻ってきてちょうだいね、ナーディル」
 剣を承り、鞘に収めながらナーディルは顔を上げ、微笑んでみせた。
「ご心配なさらず。必ず戻ってまいりますから」
 ナーディルを正将、アクティバルを副将とした青騎士団三千は、シャームを出発して二日後の夕方、エルザーレンとファセリスの中間地点に広がるトラヌの原野に到着した。すでにシャームから鎮圧のための一軍が派兵されたという情報が伝わっていたらしく、待ち受けるようにファセリス・ケラメイスの連合軍が一バルほど離れた場所に同じく陣を布いていると、先に出した斥候からの報告があった。
 ナーディルはアクティバルの意見を容れ、その夜は陣を張って野営し、翌朝に斥候や軍使を出して今後の作戦を検討することにした。一日と半、行軍を続けただけであったが、初陣ということで意識に上らないところでも緊張があったのだろう。ナーディルは本陣に用意された専用の天幕に入り、寝床に横たわると思いのほか早く眠りに落ちた。
「殿下、ナーディル殿下」
 そっと名を呼ばれて揺さぶり起こされたのは、真夜中のことであった。はっとしてナーディルが目を開けると、天幕の明り取りから入る星の薄明かりの中に、アクティバルの姿があった。
「……どうした、アクティバル。夜襲か?」
 それにしては静かすぎると思いながら、ナーディルは起き上がって傍らの手燭に火を入れた。天幕の中がほんのりと赤い光に照らし出される。するとそこには、アクティバル以外の三人の男がいた。一人は、ナーディルにもすでによく見知った顔であった。
「ラバック殿、どうしてここに」
 援軍は頼んでいないはずである。アクティバルが極秘に呼び寄せたのかと、ナーディルは眉を寄せた。次いでラバックの隣に並んでいる二人に目を向けた。
「お前たちは……?」
 二人はめいめい頭を下げ、名乗った。
「ファセリス伯、ジロ・デュシーでございます」
「それがしはケラメイス男爵フオジ・タシェトでございます、ナーディル殿下」
 彼らの名乗りを聞き終わるやいなや、ナーディルは寝具をはねのけて立ち上がった。勢いのまま傍らに立てかけてあった剣を掴んだので四人はびくっとしたようだったが、それを抜く事はなく、その代わり激しい視線をアクティバルに叩きつけた。
「これは、どういうことだ。アクティバル!」
 獅子公の再来を思わせる一喝であった。
「どういうことだ。我々は内乱軍を鎮圧するためにここまで来たんだぞ。和平の交渉もないというのに、なぜ彼らが我が陣に――」
 言いかけて、ナーディルははっと気付いたように言葉を途切れさせた。その夜明けの空を映す瞳に理解したくない理解が訪れるのと共に、絶望的な色が浮かんだ。だが彼は真っ直ぐにアクティバルを、目の前の現実を見つめた。
「まさか、お前は最初から――」
「そうです。これは内乱ではございません。正当なラトキア大公たるナーディル閣下が、姉君の過ちを正されるために興した正規軍なのです」
 アクティバルはうやうやしく言った。だがナーディルは少しも心を動かされたようではなく、厳しい顔つきのままであった。
「姉上の過ち? 何を言っているんだ」
 即座に返答があった。
「第一に、我ら赤心の臣があることをお忘れになり、ないがしろになさっておられること。第二に、油断ならぬ異国者などを重用なさっておられることです。殿下も間近くご覧になっておられたはず。シェハラザード閣下は、アインデッドばかりに気をとられて、周りが見えなくなっておられる」
「アクティバル、グリュンばかりでなく、お前までがそんなことを言うのか。それは姉上に対する侮辱だ。姉上は、決してそのような浮ついた理由でアインデッド殿を将軍にしたわけではない。姉上をエトルリアの手から救い出し、我が大公家にラトキアを取り戻してくれたのは彼だ。それだけの功があったからこそ、将軍になったのだぞ。お前とてそのことは認めていたはず――。アインデッド殿は、これからのラトキアにとって欠かせぬ将の一人だと」
 信頼していた老臣の突然の変節に、ナーディルは今はむしろ悲しげに言った。何故アクティバルがこんな行動に出たのか、それに自分を巻き込もうというのか、彼には全く理解できなかった。
「これからのラトキアを思うからこそ、アインデッドをそのままにしていてはならないのです、殿下」
 逆に、アクティバルにはナーディルが自分を諫めようとするのが理解できない様子であった。幼い子供に言い聞かせるような口調で言う。
「馬鹿を言うな、アクティバル。姉上に――大公閣下に弓引けというのか? 僕はラトキア公子であり、公弟だ。ラトキアに平和をもたらす義務こそあれ、内乱を自らの手で引き起こすなど、あってはならないことだ!」
 ナーディルが激すると、アクティバルも負けずに言い張った。
「これは、ラトキアの将来のために必要なことなのです、殿下!」
「将来のため、ラトキアのため、だと?」
 問い返すようにナーディルは言ったが、それは皮肉と批判を込めた声であった。
「要らぬ戦いを起こすことこそが最もそれに遠い行為ではないのか? アクティバル、お前の言っているのは、何のためでもなく、お前自身の願望でしかない。お前がどう理由をつけようとも、それは決してラトキアのためにはならない。そんなことも判らなくなってしまったのか?」
「どうぞご理解ください、ナーディル殿下!」
 同じ言葉を繰り返すアクティバルに、ナーディルはそれ以上返す言葉もなく無言のまま闇の中に立ち尽くし、肩を震わせていた。
 反乱軍がいつのまにか鎮圧軍に合流したことが、前衛を務めていた兵士たちに判らないはずがなかった。水面に波紋が広がるように兵士たちの間に動揺と混乱が起こりはじめたが、この事は全てアクティバルも承知であることと、彼がナーディルにしたのと同じ説明を隊長たちが兵士たちにし、さらに真夜中であったこともあったので戦闘には至らなかった。しかし全員が全員、それで全てに納得したわけではなかった。
「彼らはシェハラザード大公に反乱したのだぞ。どうしてアクティバル将軍がそのような連中と手を組んで、あろうことかアインデッド将軍を追い出そうなどということを承知なさるんだ?」
「この内乱を鎮める事で、アクティバル将軍に左府将軍に戻っていただくという手筈だったはずだぞ。これでは、我々も反乱軍の一味になってしまうではないか」
 反乱軍からは遠く離れた後衛では、そのような会話が交わされていた。ダマススやテレンスなど一部の幹部はアインデッドに反抗的であったが、もちろん全員ではなかった。反抗的であった幹部も実は意を一つにしていたわけではなく、本気でシェハラザードに反旗を翻そうと考えていたのはごく一部の過激な思想の持ち主だけで、ほとんどの者は穏便に、アインデッドに対する強力な対抗勢力をアクティバルに作ってもらいたいと考えていただけであった。
 いわば穏健派ともいうべき彼らは過激派に騙されたという思いであったし、そんな思惑とは無関係の兵卒たちはなおさら、わけの判らないことになったと混乱し、騙されて連れてこられたという思いが強かった。
「アクティバル将軍には悪いが、こんな事になど付き合っていられるか!」
 困惑顔の兵士たちが深夜の密かな会議を行っている最中に、大隊長の一人が立ち上がるなり語気荒く言った。とたんに、同意の声が周囲から次々に上がった。立ち上がった彼は演説するように告げた。
「俺たちは反乱を止めに来たのであって、反乱するために来たんじゃない。ナーディル殿下がこんなことをご承知だとは到底信じられない。殿下をお連れして、一刻も早く大公閣下にこの事をお知らせしなければ」
「しかし、ガレン隊長。殿下は陣の中央部におられます。ここは後衛、この人数では本陣の囲みを抜けて殿下をお連れ申し上げるのは無理なのでは」
 ガレン隊長の勇敢な言葉に、兵士の一人がおずおずとながら意見を差し挟んだ。ガレンは一瞬考え込むような顔をしたが、すぐにきっぱりと言った。
「旗印に掲げている以上、アクティバル将軍が殿下を害することはあるまい。ともかく我々はこの場を離脱し、シャームに戻る。ただちに出発の用意をせよ!」
 周囲をはばかってか賛同の声は小さかった。だが命令どおり、兵士たちは即座に行動に移った。この動きを見て他の部隊も勇気付けられたのか、小さな騒動の後に逃げ出してゆく兵士たちが後を絶たず現れた。こうして、この夜のうちにおよそ五百騎あまりが戦線を離れたのであった。
 行きと違って急を告げねばならない脱走兵たちは、夜を徹して街道を駆け抜けたので、最初の一団がシャームに到着したのは丸一日後の夜中であった。戦況を知らせる伝令とは明らかに違うということから事態の緊急性をすぐに察し、シェハラザードはただちに集められるだけの閣僚を赤の部屋に集めてガレンの報告を受けた。
「恐れながら申し上げます、シェハラザード閣下」
 休みなしで駆け戻り、疲れ果てた顔つきのガレン隊長の声もまた、憔悴を隠しきれていなかった。だがその言葉ははっきりとシェハラザードまで届いた。
「アクティバル将軍が、裏切りました」
 ガレンがことの成り行きとアクティバルの思惑とを説明するうちに、シェハラザードの頬は怒りに赤く染まっていった。
「おのれ、アクティバル! 父上に目をかけられていながら、何という裏切りを!」
 シェハラザードは叫んだ。
「イミル将軍、ただちに全騎士団を率い、ナーディルを救出せよ!」
「お待ちください、閣下」
 傍目にもはっきりと判る慌てた声で、アインデッドは制した。シェハラザードのやや前に進み出て膝をつき、顔を上げた。
「強硬手段をとっては、アクティバル殿の態度をさらに硬化させる可能性があります。最悪の場合には人質としたナーディル殿下に危害を加えるかもしれません。まずは使者を送り、交渉の道を探るべきかと」
「そのように悠長な事……!」
 かっとなって声を荒げかけたシェハラザードであったが、思い直したように口を閉ざした。震える拳を握り締め、しばらく俯いた後、彼女は再び顔を上げた。
「将軍の仰りたいことはよく分かった。では明朝リナイスの半刻より、この件について今後の対応を協議する。報告ご苦労であった、ガレン隊長。今夜はこれにて解散とする」
 一気に言い切ると、シェハラザードは耐えかねたように髪をひるがえして閣僚たちに背を向けた。そしてタマルに付き添われ、足早にその場を去った。残された武官、文官の面面も、一様にどうしたらよいのか判らぬような顔つきをしながら出ていった。
 その中で、立ち上がることもせず机に載せた拳を睨みつけていたアインデッドの後ろにマギードが立った。気配に気づいてアインデッドが顔を上げると、彼は苦しげに目を伏せた。
「すまない、アインデッド殿。私が青騎士団をもっとよく掌握していれば、このようなことには……」
 マギードは唇を噛み締め、言葉を途切れさせた。その胸中を満たす苦渋や憤りといった感情を、何よりもその表情が雄弁に語っていた。そんなマギードの肩に、アインデッドは立ち上がって軽く手をかけた。
「お一人で背負い込まれることはない、マギード殿」
「しかし」
 マギードは差し延べられた手を振り払うような勢いで、俯けていた顔を上げた。
「青騎士団の団長は私だ。彼らの離反は、私に監督不行き届きがあったために他ならない。私の責任だ」
「全騎士団の責任者は、俺です」
 静かに告げられた言葉に、マギードははっとした。アインデッドの瞳は風が凪いだ森のように静かであった。だがそれは、わずかな風にも一斉に揺らぎ、ざわめく予感をひそめた静けさだった。
「だから、マギード殿お一人の責任問題だなどとは俺は思っていません。原因は俺にあるのだと、彼らも言っている」
 少々の苦さを含んだ声で、アインデッドは自嘲気味に笑った。
「俺がやろうとしていること、目指しているものに不満を抱くのは判るし、それに対する反抗もある程度は予想していたことです。――しかし、俺の存在そのものに不満を抱かれては、俺に打つ手はありませんが」
 マギードは何か言おうとして口を開いたが、結局何も言えないまま口を閉ざした。アインデッドは続けた。
「言動や目標についてなら、俺にも折れる余地がある。納得し、理解してもらうためにできる努力もある。だが、俺が俺であるというそのことを彼らが受け入れられないというのなら……俺か向こうか、どちらかが軍から去るしかない」
 ため息に乗せるように、アインデッドは最後の一言を付け加えた。
「何を仰る。今のラトキアに、貴殿はなくてはならぬ存在だ。貴殿が軍を去ることなどない。誤っているのは、彼らなのだ」
 驚いたような顔をしたマギードは、語調を強めた。だが事態はもはや後戻りできぬところまで進展し、彼らの想像をはるかに凌駕した展開へと進んでいこうとしていたのであった。



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