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     この世に生きる誰も
     時の力から逃れることはできない
     全ては時のまま移ろってゆく
     そしてまたあの人も
     かつてのあの人ではない
     私の愛した人は、もう戻ってはこない
                 ――エウリピデス
        「氷の乙女」より ヨランツの独白




     第二楽章 歯車の軋り




 そして時と場所は再び、ファセリスに滞在するグリュンのもとに戻る。
 グリュンの囁いた話を聞き終えたジロは、聞くうちに何度も頷き、最後には全て納得したような表情を浮かべた。そして再び距離をとって顔を見合わせると、ゆっくりと口を開いた。
「グリュン閣下がそのようなおつもりでいらっしゃったとあれば、私といたしましても心強い限り――」
「おお、ではわしの意思を理解してくれるということだな?」
 グリュンは髭の下の口許を緩めた。ジロは頷いた。
「実は数日前、青騎士団のある幹部から秘密の親書が我々のもとに届きました。――イミル将軍の存在はラトキアに利するところなく、後顧の憂いを断つためにも彼をラトキアから追放せねばならぬ、という内容の、協力を求める書状です」
「何と」
 びっくりして、グリュンは目を見開いた。ジロは低い声のまま続けた。
「そこで我々が立てました計画とは、私をはじめとした東北部領主が大公閣下に対し、先のいくさの恩賞とイミル将軍の追放とを求めて挙兵し、アクティバル殿がそれを話し合いのみで治める――というものです。そうすれば大公閣下も、ラトキアの民を治めるにはラトキアの民をもってせねばならぬということをご理解してくださるであろう、と」
「ふむ……」
「アクティバル殿には青騎士団を率いていただき、イミル将軍では役に立たぬ事、アクティバル殿こそがラトキア全軍を率いる大将軍であるということをよりはっきりと知らしめるつもりでございます。すでにアクティバル殿にはこの計画に賛同いただいておりました。ですが見せかけのものとはいえ反乱を起こせば我々はれっきとした逆賊。アクティバル殿のご心配も理解できぬではないが、逆賊と扱われるならばどうしたものかと思っておりました。しかし大公閣下に我々の行為をお執り成しくださる方がアクティバル殿の他にもおられるならば心強く、そうなれば迷うことはございません」
 ジロの長い説明を聞いている間、グリュンは真面目くさった顔で何か思案しているようであったが、聞き終わるやいなや大きく一つ頷いてみせた。
「おぬしたちの、ラトキアの行く末を思う忠義はよく分かった。そのことはわしに全て任せておくがよい」


 サライアの月二旬、銀の二十日に弔問使節がようやくシャームに戻ってきた。彼らの到着は二十日の午後遅くだったので、帰還の挨拶や視察結果の報告などは翌日の朝見で行われた。
 ゼーア皇帝の弔問は、アルマンド海軍大元帥の婚礼出席に続く、新生ラトキアにとって重大な外交行事であったから、それがさしたる失敗もなく終えられたことにシェハラザードは非常に満足しているようであった。
 そして例によって例の如く、使節の労をねぎらうと称して盛大な宴が張られた。ラトキア人が、機会さえあれば毎日でも開くのではないかと思われるほどの宴会好きであるのはもうすっかり承知していたので、どうせそんな展開になるだろうと思っていたアインデッドは前日のうちに少々無理をして多めに仕事を片付け、出席時間を長く取れるように配慮した。
 いつものように、途中で退出して仕事に戻らなければならなかったが、あまり早く抜けてはグリュンにどんな文句を言われるか判ったものではなかったからである。もちろん、出席したらしたで、顔を見ただけで厭味を言われるだろうこともまた、予想するまでもなく判りきったことであったが。
 アインデッドのかすかな期待を見事に裏切って、旅の時間はグリュンの彼に対する悪意や敵意を和らげてくれるどころか、むしろ一層純度を高めただけのようであった。相手を実際に見、接しなかったことが印象を弱めるのではなく、固定概念を強化する方向に働いてしまったらしい。半ば以上そうであろうと思っていたとはいえ、アインデッドは先の不安を感じずにはいられなかった。
 宴の始めの方で、シェハラザードの開会の挨拶に続いて主だった出席者がグリュンとルカディウスにそれぞれねぎらう言葉や、無事の帰京を喜ぶ言葉を述べたのだが、グリュンは誰にでも判る形でアインデッドを無視しさえしたのである。いかに内心の反感があろうとも、公式の場でのこのような振る舞いはあまりにも非常識であり、礼を失したものであるのは明らかであった。
 さすがにこれを放置していては、アインデッドの面子や宮廷内の揉め事にも関わってくる問題だと思ったらしく、マギードは周囲に聞こえるような声でアインデッドに話しかけた。
「アインデッド殿、ここはうるさくて、どうやらグリュン殿には貴殿の声が聞こえなかったようだ。もう少し、大きな声でお話しになったほうがよかろう」
 それからグリュンに視線を転じ、同様にわざとらしいほどの大声で呼びかけた。
「グリュン殿、アインデッド殿のご挨拶が聞こえませんでしたかな?」
 何の敵意も抱いていないマギードに、これほどの大声で話しかけられては無視を続けることもできない。グリュンは嫌々そうにではあったが体を反転させ、二人を振り返った。しかし今さら応えるのも癪だったらしく、むっつりと頷いただけであった。もう一度さっき口にした挨拶を述べても意味は無いと判断して、アインデッドはグリュンが頷くのを確認すると自分も一礼し、その場を去った。
 光溢れる会場から薄暗い廊下に出て、一人きりになると、アインデッドは重苦しいため息をついた。
(もしかしたら、グリュンの爺とは近いうちに本格的にことを構えなくちゃならなくなるかも知れねえな)
 そうなれば当然、アインデッドかグリュンのどちらかが宮廷を去らねばならない結果となるだろう。実質的な仕事が何もない摂政と、いなくては軍の全てが動かぬ右府将軍のどちらに軍配が上がるかは、常識的には考えるまでもない。だが、政治というものが世間一般の常識が通じない世界である事もまた、アインデッドはよく承知していた。
(シェハラザードとナーディル殿下は、ほぼ確実に俺を取るはずだ。軍でもハディース殿とカーンは信用できるし、下の武官はだいたい俺についてくれるだろう。だが、上層部やマギード殿はどう出るか……)
 マギードは恐らく、自分に親しい人間ならば情を捨てて切ることなどできない人種に違いない。アインデッドはそう思っていた。マギードに限らず、ラトキア宮廷の上層部は国にとっての利害よりも自分の利害や感情を優先させるきらいがあった。そうしたものこそ、彼をラトキア宮廷で孤立させる原因の一つであった。
 基本的にアインデッドも自分の感情で物事を決めるタイプであったが、そうしてはならない場面があるということは、かつてフリードリヒからよく言い聞かされたことであったし、その必要性を理解していた。
 自分にとって大切な人やものを見捨てる時、手にかける時、彼はその瞬間だけは冷徹な無感情に切り替える術を心得ていた。平常心に戻った時の揺り返しは大きかったけれど、それで今までやってきたのである。同様に右府将軍となってからは、丁寧な言葉遣いをして揉め事は極力避け、感情を表に出さない宮廷用の自分というものを新たに作り上げて、それに切り替えるようにしていた。
 そのため、自分がそうしてむき出しの感情を出さないようにしている時に、正反対に感情をぶつけてくる相手はやり辛くてかなわなかった。普段のアインデッドなら、グリュンに対して素直に敵意を撥ね返して対抗できたのだろうが、それができないのでストレスが大きかったのだ。
「……まあ、なるようにしかならねえか」
 小さく呟いて、アインデッドは歩き出した。
 アインデッドが退出した後、例によってグリュンはシェハラザードのもとに行った。一月近くも離れていた彼女の顔を見ることができてグリュンは上機嫌だったのだが、シェハラザードはというとアインデッドが出て行く前のやりとりを見ていたので、少々機嫌が悪くなっていた。
「シェハラザード様におかれましてはお変わりなき様子、嬉しゅうございます」
「それは何よりね、グリュン」
 シェハラザードはそっけなかった。しかしグリュンは彼女のすみれ色の瞳に浮かんでいる感情に気づかなかった。
「それがしがおらぬ間に、誰ぞが姫様に怪しからぬ振る舞いなどいたしませんでしたか」
「何が言いたいの、グリュン?」
 だいたい判っていたが、シェハラザードは判らないふりをした。絹の扇で隠していたのでグリュンには見えなかったが、言い終わった口許は不機嫌を示してきゅっと引き結ばれていた。
「あの男のことに決まっております。親しく近づけたり、不必要な言葉をかけられたりなどおりませんでしょうな?」
「さあ? 誰のことを言いたいのかは知らないけれど」
 うんざりしたようにシェハラザードは顔を軽く背け、手にしていた扇を耳の辺りで振って虫を払うような仕種をした。
「わたくしが誰と言葉を交わそうが、私的な時間をどのように過ごそうが、わたくしの自由でしょう。わたくしは幼い子供ではないし、大公なのよ。どうしていちいち、そんなことまでそなたに了解を取らねばならぬというの。そんな下らぬこと、摂政の仕事にはないはずよ」
「ちい姫様!」
 グリュンは驚いたような声を出した。まさかシェハラザードが、ここまで明らかに冷たい言葉を投げつけてくるとは思わなかったのである。銀の柳眉をかすかに寄せて、シェハラザードは目を伏せた。
「もうちい姫様とは呼ばないで欲しいと、前にも言ったと思うけれど、憶えておらぬのかしら?」
 これは確かに前々から言われていたことなので、グリュンはもぞもぞと謝罪の言葉を口にした。
「こんなことは言いたくないけれど、グリュン。そなたはこの頃、要らぬ口出しが多すぎます。くだらぬことに心を煩わせる暇があったら、もう少し、本来の仕事に目を向けて欲しいのだけれど?」
 ここまで言われれば、さすがのグリュンにも明らかにシェハラザードがこの会話を早く打ち切りたがっていること、自分を疎ましがっていることを悟らねばならなかった。このことは、グリュンにとって大きな衝撃だった。
(何たることだ――!)
 グリュンが呆然としている間に、シェハラザードはおざなりな言葉を一言二言かけて、さっさと向こうに行ってしまった。一緒に踊りたいアインデッドがいなくても、彼女にはお喋りをしたい女友達が何人もいたからである。
(ちい姫様は、完全にあの男の術中に落ちてしまっている。これは一刻も早く、例の計画を実行に移さねば……!)
 はっと我に返ったグリュンは、別の人物の姿を探して広間に視線をさまよわせた。するとほどなくして、目指していた人物も自分を探していたらしく、目が合うとこちらに近づいてきた。
「御機嫌よう、グリュン殿」
「変わりないようだな、アクティバル殿」
 アクティバルはまず当たり障りのない挨拶をし、グリュンも応えた。それから、何を話し出そうかと言った感じで二人とも口をつぐみ、五秒ほど黙った。
「実は貴殿に話が……」
「折り入って貴殿に……」
 口を開いたのはほぼ同時であった。また口を閉じてから、アクティバルがちょっと片手を挙げて、先に話すようにグリュンに促した。
「折り入って貴殿に話があるのだが、この後、少々時間を取れぬだろうか。して、貴殿は何を?」
「いや、貴殿と同じことを聞こうと思っていた」
「ならば話は早い。今からで構わぬなら、わしの部屋に来てくれぬか」
「うむ、ではそうしよう」
 即座にアクティバルは承諾し、二人は連れ立って宴を抜け出した。宴はたけなわとなっていて、誰も彼もが酔っていたり、ダンスに興じていたりしていたので、彼らが出ていったことなど、誰も気に留めなかった。ただ一人を除いて。

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