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 三度目の不可解な出来事は、マギードの屋敷での事故の余韻も冷めやらぬ二日後に、一度目と同様に周囲に誰もいない状況で起きた。
 グリュンたち弔問使節が出発した前後から、アクティバルはシャーム城ではなく市内の館に生活の場を移していた。彼がエルザーレン伯爵であったころに、伺候で滞在する時のために建てさせた館で、主の領地名からエルザーレン館とシャーム市民たちには呼ばれていた。
 それはシャーム市内を流れるスーザ川のほとりに建っており、外装はそう派手派手しいものではなかったが、三つの棟と幾つかの中庭を備えた、ステラ伯爵家と負けず劣らずの家格と財力にふさわしい規模の邸宅であった。ステラ家の館がそうであったように、ここもエトルリアの略奪に遭い、倉と収蔵庫が隣接していた西棟はすっかり焼け落ちてしまっていたが、幸いにして他の棟は無事であった。それに運び出せないほど大きな家具や台所などの設備は無事だったので、居住に不都合があるほどではなかった。
 このエルザーレン館の現在の主は息子のラバックであったが、彼は弔問使節の往路の護衛を兼ねてエルザーレン騎士団を引き連れて領地に戻ってしまっていたので、実質的に一人暮らしのようなものであった。
 もちろん、アクティバルが全くの一人でこの広い屋敷に住んでいたわけではない。掃除や補修といった屋敷の管理維持、アクティバルの身の回りの世話のため、何十人もの使用人が雇い入れられ、かれらもそこで生活している。身分の高い者であれば、周囲に誰もいない、本当にたった一人の状態になることなど、ほとんどありえない事だといってもいいだろう。
 だから、常に誰かの気配を感じることがあっても、それはさほど奇妙な事ではないはずであった。にもかかわらず、シャーム城で短刀を見せつけられる事件があってからというもの、アクティバルは何ともいえぬ居心地の悪さを感じていた。
 壁一枚隔てた所に使用人たちが控えている気配とは異質なものを常に感じるようになっていたのである。それはどこかから誰かが自分を見張っているような感覚で、吊り燭台の一件以来、気のせいなどではないとアクティバルは確信していた。使用人たちなり廷臣なり、誰かと共にいる時には感じられないのだが、一人になるとたちまち、うなじの毛がちりちりするような嫌な感じがするのである。
 おかげでアクティバルは心休まる時というものがなく、熟睡もできないような状態であった。歳のせいか、若い頃よりも眠りが浅く短くなっていたとはいえ、影響がないわけがなかった。なるべく表に出さぬように気をつけてはいたが、些細なことで苛立ったり、逆にぼんやりしたりといったことが時折あった。
 接触のあまりない人間ならともかく、毎日接している使用人や、騎士団の面々がこのような変化に気づかないはずがない。
「アクティバル殿。お顔の色がすぐれぬようですが、いかがなさいました?」
 朝見の席でハディースに尋ねられたが、アクティバルは確かに疲れているのかもしれないが、それは一年ぶりに騎士団の仕事に戻ったせいで、そのうち調子を取り戻すだろうと説明し、曖昧に笑ってごまかした。見張られている気がする、などというのは確たる証拠があるようなことでもなく、安易に口に出すべきではないと判断したのである。
 練兵を依頼する時に同じく心配してきたアインデッドにも同じような返答を繰り返したが、マギードには多少違った対応をした。マギードは先日の吊り燭台のことで、アクティバルを悩ませてしまっているのではないかと気を揉んでいたからである。しきりにすまながるマギードに対し、吊り燭台の事は単なる事故であったのだから全く気にしていないと、彼が納得するように繰り返さなければならなかった。
 そんな中で三度目の怪事が起きたのである。
 シャーム城から帰宅し、久々の風呂に入ってすっかり寛いだアクティバルは、体が温まっているうちに床に入ろうと寝室へ向かった。ベッドのシーツは毎日きちんと整えられ、虫除けも兼ねた香草の香りがしたためられている。
 さて寝ようと上掛けをはいだ瞬間、アクティバルは反射的に身を引いていた。さすがに大声を出して驚く事はなかったが、ぎょっとしたのは間違いない。ベッドの中には招かれざる先客がいたのである。
 赤茶色の鱗を蝋燭の光にてらてらと光らせた一匹の蛇がそこでとぐろを巻いていた。頭のすぐ後ろにある三本の黄色い輪の模様と尾の近くにある黒い縦筋で、すぐにその蛇が何であるのかが判った。水辺に生息する、ラトキアではさほど珍しくない種類の蛇である。もちろんアクティバルも知っていた。その蛇は牙に馬をも殺す毒があることで、《馬倒し》と呼ばれていることも。
 アクティバルはそろそろと下がり、後ろ手にドアを開けた。隣の部屋には主人の用にいつでも応えられるように使用人が控えている。後ずさりして入ってきたアクティバルに、そこにいた中年の男性使用人二人は顔を見合わせた。
「どうなさいましたか、旦那様」
「棒か火ばさみを持ってまいれ」
 アクティバルはようやく彼らのほうに体を向けた。
「寝台に《馬倒し》が忍び込んでおった」
「そんな! まさか、噛まれたりなどしておられませんか?」
 使用人はとたんに慌てた。一人は命じられたものを取りに行くため物置の方へと走り出し、もう一人はアクティバルに駆け寄った。
「大丈夫だ」
 気づかぬうちにかいていた汗を額から拭い、アクティバルは言った。
「それにしても、なぜあのような所に……」
「干し場に置いていた時に、潜り込んだのでしょう。洗濯係によく注意するように申してしておきます」
 主人の無事に、こちらもほっと力が抜けたような顔をしながら使用人が答えた。エルザーレン館はスーザ川のほとりにあるので、洗濯は外部に任せず館内の使用人で行っている。洗い場は川から水を引きこみ、干し場は洗い場のすぐ隣にあるのだ。川辺に住む蛇が太陽に温められた布の間に潜り込む、というのはよくあることではなかったが、かといって全く聞かない話でもなかった。
 間もなく、火ばさみとバケツを手にした使用人が、応援を一人連れて駆け戻ってきた。飛びかかられないように二人で牽制しながら、シューシューと威嚇の声を挙げている《馬倒し》の首根っこを素早く掴みあげ、バケツに放り込んで板で蓋をした。
 それから上掛けを全て剥がし、他に招かれざる客がベッドに忍び込んでいないかを確かめた。だが、さすがにそう何匹もいるものではなかった。ようやく無事を確かめた使用人は、ベッドを綺麗に整えなおしてから、控えの間で騒動が治まるのを待っていたアクティバルを呼んだ。
「旦那様、蛇は捕まえましたし、寝台も点検いたしました。もう安心してお休みいただけます」
「そうか。ご苦労であった」
 もう一度改めて就寝の挨拶を述べて使用人が全員出て行ってしまうと、アクティバルは深く考え込む顔つきになった。シャーム城で起きた第一の事件はともかく、第二第三の事件は場所がマギードの邸宅と自宅である。簡単に忍び込んで何かを仕掛けるということはできない。しかし本当にたまたまの出来事なのかどうか、考えれば考えるほど判らなくなってきた。
 仮に全てが何者かの陰謀による一連の出来事だとして、では誰が犯人なのか。
 ツェペシュ大公がラトキアを大公国として独立させる前から、アクティバルは彼に従ってきた。ラトキア公国の最古参の廷臣なのである。名のある廷臣たちはほとんど全員が顔見知りであり、旧知の仲といっても過言ではない。エトルリアの侵攻と再独立の戦いで幾らかの入れ代わりがあったとはいえ、彼らの中におのれの死を望むものがいるとは、アクティバルは思えなかったし思いたくなかった。
(とすれば、新参の外様ということになるか……)
 アクティバルがそう考えたのも無理ないことと言えた。知らぬ者どうし、互いの人となりをよく知らないのだから否定に足るだけの材料を持っているわけでもなく、また疑いたくないと思う理由もなかった。
(ルカディウス参謀長は、グリュン殿と共にシャームを離れている。シャームにいる外様の廷臣といえば、イミル将軍しかおらぬ。それに、彼にはわしを邪魔に思うだけの理由がある)
 明かりを消し、寝台に横たわりながらもアクティバルは考え続けた。
(あの宴の時も、イミル将軍は一人先に退出しておった)
 疑い始めれば何もかもが疑わしく感じられるのが、人の常と言うものである。
 いかように理屈をつけてみたところで、つまるところそれは身内びいきであり、外国人に対する偏見に基づいた考えでしかなかった。だが、それが誰かに示されたものであったならばともかく、内心にはそうと指摘できるものなどいなかった。
(これは一つ……もう一度、彼らと話してみる必要がありそうだ)
 アクティバル自身は冷静で公正な判断を下しているつもりであったが、もはや偏見と思い込みを捨て去って考えることができなくなっていた。アインデッドと、彼に不満を抱く者のどちらに問題があるのか、真実は彼の前から消えてしまっていた。
 翌日、その決心どおりアクティバルは青騎士団の練兵後、ダマススとテレンスをエルザーレン館に招いた。アクティバルの指定でもあったが、人目をはばかるように、日がすっかり暮れてから二人はやってきた。居間に彼らを案内させ、人払いをすると、アクティバルは待ちかねたように口を開いた。
「武功がないなら作ればよいと先日お前たちは言ったが、何か具体的な策があるのか? あるなら申してみよ」
 返答は即座であった。
「我々は東北部の諸侯と語らい、大公閣下に対し兵を興すつもりでおります」
「何だと」
 アクティバルは目を瞠った。大声を出しそうになったのを、ダマススは両手を軽く挙げて制した。
「むろん、それは見せかけのもの。実際に戦うようなことにはいたしません。要は、アクティバル閣下でなければ見事におさめることはできなかった、という結果を出しさえすれば良いのですから」
 アクティバルはしばらく黙り込み、何かを考えているようだった。
「つまり、反乱軍とはあらかじめ意を通じておき、わしが出て行って、説得によって兵をおさめさせた、という形を作るのか」
「さようでございます」
 ダマススは頷いた。
「少々、騎士道には外れる行為かもしれませんが――しかし、これもラトキアのため。双方に被害は出ないのですから、さほど道義にもとることはございますまい」
「それはそうかもしれぬが、東北部の諸卿らはどうするのだ。どちらにもせよ、大公閣下に弓引くことになるのは変わらぬぞ。ことが終わったあと、我々の目的は達せられるにしても、彼らが罰されることになっては意を通じるも何もなかろう。今の話では、彼らには損はあれども得になることなどないように思える。本当に見せ掛けだけということになるのか?」
 息子のラバック――かつては自身――が同じラトキア東北部の領主であることもあって、アクティバルはどことなく心配そうに尋ねた。
「そこをアクティバル閣下にお執り成しいただきたいと思っているのです。内乱の原因が余所者の将軍と、彼をひいきする大公閣下にあるのだということをご理解いただけたあかつきには、大公閣下も強く諸卿らを責めることはなかろうとは思いますが」
「うむ……」
 アクティバルは再び考え込むような顔つきになった。
「そういうことならば、他にも執り成しに加わってくれるよう幾人かを味方につけたほうが良いだろうな。それはわしに任せるが良い」
「では、ご賛同いただけるということですね?」
 ダマススの表情が明るくなった。アクティバルは黙って頷いた。



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