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     夏は過ぎ、我の待つ時は来たり
     帰りたまえ、我が君
     谷に雪の白く降り積もる間
     我は昼も夜も君を待とうから
     たとえ君の帰りし時は
     全ての花の枯れゆく季節であろうとも
     我が命の果てていようとも
             ――ベンガリアの歌より




     第二楽章 ナーディルの帰還



 知らせが来てから七日ばかり、あれやこれやの準備も慌ただしく、エルザーレン騎士団を引き連れたナーディルの一行がシャームに到着する予定当日まではあっという間に過ぎていった。
「閣下、おはようございます」
「おはよう、アルス」
 きびきびとした姿勢まで見えるかのような声に、アインデッドは笑顔で振り返った。この日の朝、彼を迎えに来たのは黒騎士団第一隊の隊長、アルス・カーリーであった。
「出発準備はいいだろうな?」
「はっ。閣下のご到着次第、いつなりとも出発できるよう、旗本隊は全員騎士宮前にて集合しております」
「よし。行こう」
 アルスをやや先に立てるようにして、アインデッドは集合場所まで歩いていった。ちらりと空を見上げて、呟く。
「今日はいい天気だな」
「そうでございますね」
 アインデッドの言葉に、アルスも空を見た。雲もほとんど見られず、陽射しも強くてヌファールの月にしては暑いくらいだった。黒騎士団の軍服は全て黒かったから、何時間も外で待たされると少々辛いかもしれない。
(真夏じゃなくて良かったよな、本当)
 それは考えただけで、口には出さなかった。
 十(テルジン)後、黒騎士団の旗本隊五百騎はゆるやかに北門を目指して動き出した。これから会うナーディルが自分をどう思うかもアインデッドには気がかりだったが、自分がその座を奪う形になった元将軍アクティバルがアインデッドの存在をどう感じ、どのように対応してくるかも気がかりだった。
 アクティバルと同年代のグリュンは彼を敵としか見ていないので、その年代の老人に何やら不安を覚えたくなる。それにナーディルを護衛して落ち延びたアクティバルこそが、本来ナーディルをたててラトキア再興の軍を興さねばならなかったはずである。
 そしてまた、先代大公の公子であるナーディルが本来ならばエトルリアに対し再度の独立を勝ち取るべき立場であったはずだ。それを先取りしてしまったのは間違いない。アクティバルとナーディルが自分を恨んでいるかもしれないというのは、当然ありうる展開だった。
 彼の思いは知らず、通りの両脇を埋めている群衆から歓呼の声が沸く。
「アインデッド将軍!」
「ラトキア万歳!」
 しかしアインデッドは手を振ったり、微笑みかけたりは決してしなかった。面倒だったのもあるが、下手に反応してまたグリュンに「人気取りをしている」などの攻撃の理由を与えたくなかったのである。
 黒騎士団旗本隊の北門到着から半テル後、ようやく街道の遥か遠くにそれらしき人馬の影が見え始めた。それはナーディル一行の側からも同じことであった。懐かしいシャームの、煉瓦色の壁がうっすらと見え、近づくにつれてその赤は鮮やかさを増していく。薔薇色の都は日の光の中で輝いていた。
 ナーディルはほとんど二年ぶりに戻る、生まれ育った街の姿に感動を隠せなかった。逃げ延びた時に振り返り、目に焼きついていた暗い光景はどこにもなかった。火の粉の代わりに紙吹雪が舞い、通りに面した家々の壁には壁飾りがかけられたり、急遽作ったらしい花綱などが通りを挟んだ窓から窓へと渡されて飾り付けられている。
「アクティバル、やっと帰ってこられたんだな」
 噛み締めるように、ナーディルは呟いた。隣のアクティバルはゆっくりと頷いた。
「そうです、殿下。あなた様のシャームに、お戻りあそばすのですよ」
 エルザーレン伯の一行が門をくぐると、人々の歓呼の声がわっと彼らを包んだ。門前から大通りに続く広場には、黒騎士団の一隊が整列して待ちうけていた。
 ナーディルが近づいてゆくと、最前列にいた騎士が馬から下り、少し進み出てきて最敬礼の騎士の礼を取ってひざまずいた。黒いマントがふわりと地に広がる。五バールほどにまで近づいたところで、ナーディルは馬を止めた。
 騎士は顔を上げずにいたので、黒いマントの上に炎の滝のように流れ落ちた鮮やかな赤い髪がまず目を引いた。その赤さは明らかにラトキア人のものではない。そこで、ナーディルはこの騎士がアインデッドなのだと察しをつけた。片膝をついて顔を伏せたまま、彼はゆっくりと口上を述べた。
「ご無事にてのシャームご帰還、まことにおめでとうございます。僭越ながら臣を代表し、まずはお祝いを述べさせていただきます、ナーディル殿下。ラトキア宮廷一同、殿下のご帰還を心よりお待ち申し上げておりました。それがしは殿下の姉君、二代大公シェハラザード閣下よりご下命たまわり、殿下のお出迎え及びご案内の大役仕り、また閣下のご厚情により新生ラトキア公国右府将軍及び黒騎士団団長、ルクナバード伯爵を拝命いたしますティフィリスのアインデッド・イミルと申します。以後よしなにお見知り置き願わしく存じます」
「懇切なるお出迎えまことにいたみいる、イミル将軍。いかにも我は先代ラトキア大公ツェペシュの公子ナーディル・ラトキアである。これにあるはかかるシャーム陥落の日、我を助け今までかくまい守りくれし前将軍アクティバル、そしてエルザーレン伯ラバックである。して、イミル将軍。苦しからぬ。おもてを上げられよ」
「は……」
 目の前にひざまずく、姉をエトルリアの手から救い出して二代大公の座につけ、その恋人であると噂される男がどんなものかとナーディルは見つめた。アクティバルもまた、単身でシェハラザードを救い出し、再びラトキアを独立に導いた若き英雄を食い入るように見つめていた。
 その二人の瞳を、明らかに異民族のものと判る緑の瞳が見据えた。その強い輝きにナーディルははっと惹かれた。
「……」
(何て強い目をした……)
(姉上たちも美しい人だったけれども、この人も美しい。顔は確かに女の人のように綺麗だけれど、かといって女々しいわけでもない)
 ナーディルはアインデッドの顔をじっと見つめた。背のあまり高くならないラトキア人の中では特に目立つ均整の取れた長身に、長く伸ばした背中まで届く赤い髪。その赤に縁取られた顔は驚くほど白いが、決して病的なものではない。すらりと通った鼻筋に、かすかに赤い唇。細くとがって妙に少女めいた顎。どちらにせよアインデッドは、ナーディルが今まで見たことのないタイプの美貌の持ち主だった。
「それでは、シャーム城まで先触れをつとめさせていただきます、ナーディル殿下」
 アインデッドは年下だからといって甘く見ているとは思われず、かといって無愛想にならない程度に小さく微笑んでみせた。
(なかなか受け答えはしっかりしてるな。それに、見たところ体も鍛えてるみたいだし……思ったより使えそうな奴じゃないか)
 またも身も蓋もない感想を抱きながらアインデッドは再び馬上の人となった。前々からの練習どおりに隊列を組み替えてナーディル一行を護衛する形をとる。黒騎士団とエルザーレン騎士団は、市民たちの投げる花と紙吹雪の中を、ゆるゆるとシャーム城に向かって動き出した。
「殿下、いかがですか。アインデッド将軍という男は?」
「ああ……綺麗な人だな。噂で聞かされた、姉上を騙して操っているようなひどい人には見えない。とても強そうだ。見てごらん、騎士団の何て整っていること。僕では、こんな短期間で初めて上に立つ軍隊をここまで使えるようになる自信はないよ。姉上は素晴らしい将軍を得たのかもしれない」
「たしかに、腕は立ちそうですな」
 アクティバルは呟いて、すでに少年らしい憧れの目で異国出身の新しい右府将軍の後ろ姿を見つめているナーディルを見守った。
(殿下の仰るように、美しい男だ――ここまでくると、禍々しいと思えるほどに。何故だろう。何か、胸騒ぎがするのは――)
 その思いを裏切るかのように、街には明るい鳴り物が響いていた。彼らはナーディルの帰還に沸き立ち、久々にその姿を現した彼らの英雄に歓呼していた。


 シャーム城に着いてから、ナーディルとアクティバル父子は控え室で旅の汚れのついた衣服をあらため、その上でシェハラザードの待つ謁見の間に通された。
「ラトキア公子ナーディル殿下、前将軍アクティバル閣下ならびにエルザーレン伯爵ラバック卿のおなりにございます」
 奏者が告げた。色々と変わってしまった部分はあるけれど、しかし懐かしい我が家であるシャーム城の謁見の間に、ナーディルは深い感慨と共に足を踏み入れた。
 その場に集まっている面々のほとんどはナーディルも見知った者たちで、懐かしさと好意に溢れた視線を感じた。だがその中に、明らかな悪意とは言い切れないが、何かしら嫌なものを感じる視線があるのにナーディルは気づいた。
(あれは――?)
 立っているのは上座に近い辺りで、文官の衣装を着ているので、それなりの地位にあるものなのだろう。髪や瞳の色はラトキア人と同じ黒っぽいものだが、血色の悪い肌の色はクライン系かとも思われる。向けられる視線の異様さの次にナーディルの目を引いたのは、彼の容貌だった。眼帯をして部分的に隠してはいるが、顔の左側は古い火傷の痕で醜く引きつっていた。
(誰だろう……新しい廷臣か?)
 あまりじろじろと見ては失礼であるし、玉座のすぐ下まで歩いていく途中だったので、ナーディルが目を留めていたのは実際のところほんの数秒もなかった。先ほど彼らを出迎えたアインデッドは、彼らが支度をしている間に広間に移り、今はシェハラザードの右斜め前に控えていた。
「ただいま戻りました、姉上。……いえ、シェハラザード大公閣下」
 よく磨かれた広間の床に片膝をついて跪き、ナーディルは頭を垂れて姉からの言葉を待った。シェハラザードは別れていた一年と数ヶ月で少女から一人の女へと成長し、生来の整った容姿はたぐいまれな美貌として完成していた。純白の大公の正装に身を包んだ姉の姿はまばゆく、月女神のように美しくナーディルの目には映じた。
 同様に、シェハラザードも弟の姿をこの上もなく懐かしく愛しい気持ちで見つめた。今のナーディルは少年というよりも青年という言葉のほうがふさわしく見えた。エトルリアの手を逃れ、隠れ潜んでいる間、彼が決して時を無駄に過ごしていたのではないということは、その体つきから察せられた。跪いているので正確なところは判らないが、彼女よりもずっと背が伸びて、一回り以上も逞しくなったようだ。
 よく似通っていた面差しは、この短い月日の間に一方はより女性らしく、一方はより男性らしく成長していた。ナーディルの面差しからは少年らしいふくよかさが消え、どことなく子供っぽく、甘えるようだった目つきも鋭くなり、父ツェペシュの面影を継いだ毅然としたものに変わっていた。
 二人の間には確かに並べば血のつながりを感じさせるだけのものはまだ残っていたが、それでも歴然とした性差が表れていた。
「ナーディル、よく無事でいてくれました。今までのように、わたくしのことは姉と呼んでいいのよ。たった二人きりとなった姉と弟ではないの」
 シェハラザードは言いながら大公の玉座を立ち、駆け下りるようにして壇を下りてナーディルの傍らに跪き、その肩を抱きしめた。それは感動的な一幕であった。
「姉上……」
「さあ、立ってちょうだい」
 微笑みながらナーディルの手を取り、促してシェハラザードは立ち上がった。ナーディルも立ち上がる。やはり、二人の身長差は一年前よりもずっと広がっていた。縦だけでなく横もかなり成長し、肩幅はがっしりとして胸郭にも相応の厚みが加わっている。
 シェハラザードの傍らに立つのは、もう姉たちに守られ助けられ、甘やかされていた末っ子ではなかった。一人の、何かを守る力を得た男であった。弟の明らかな成長に、彼女は目を細めた。
「新生ラトキアの内閣の面々を紹介するわ。覚えのある方たちがほとんどだけれど、新しく仕えることになった方もいるのよ。こちらがあなたを出迎えてくれた右府将軍、黒騎士団団長、ルクナバード伯爵のアインデッド・イミル卿」
 紹介されたので、アインデッドは左足を引いて右足を軽く折り、右手を胸に当てて一礼した。
「グリュンは摂政。それから、マギード兄様は宰相」
「お久しぶりにございます、ナーディル殿下」
 マギードの挨拶に、ナーディルは頷きを返した。シェハラザードが名を呼び、その官職などを告げるたびに一人ずつそれぞれの身分に応じた礼をとる。
「そして参謀、モリダニアのルカディウス卿」
(この人が、ルカディウス卿――)
 その名はエルザーレンでも、アインデッドとともにラトキア復活の立役者の一人としていくらか噂になっていたので知っていた。だが想像していた人物とはかけ離れた実像に、ナーディルは内心で驚きながら、彼の礼に会釈を返した。
(何だろう。この嫌な感じは……)
 ルカディウスの態度に失礼はなかったし、何を言われたわけでもない。だがナーディルの心には、小さな棘のように不快に引っかかるものがあった。
 しかしその後にも廷臣たちの紹介は続き、ルカディウスに対する印象は消えはしなかったものの次第に薄らいでいった。謁見が終わった後は、シェハラザードとナーディル二人だけでの時間がもうけられていた。積もる話もあるだろうし、改装工事中の城内を案内したいというシェハラザードの意向であった。

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