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 その日の夜は、ナーディルの帰還を祝う宴が盛大に催された。ツェペシュ大公の戴冠式と結婚披露の宴に使われた、そのような大掛かりな行事の時以外は廊下と物置代わりに使われている最大の広間が会場として選ばれ、招待客の数も頻々と行われる通常の宴会に倍する規模のものであった。
 市内の貴族が呼べるかぎり全て招かれていたので、会場には一体何百人の人間がいるのか知れたものではなかった。
「シェハラザード大公閣下、ならびにナーディル公子殿下、ご出座!」
 触れ係の声と共に盛大な拍手が湧き起こり、その中をシェハラザードとナーディルは並んで会場に入った。今夜のシェハラザードは大公の衣装ではなく、この日のために新調した淡い珊瑚色のドレスに身を包んでいた。
 胴はぴったりとしているが腰の後ろに金属製の芯と飾りスカートを入れてボリュームを出したそのデザインは、クラインあたりなどからすると一昔前の流行であったが、ラトキア全体の流行はそのようなものであった。輝く銀の髪は一部を鏝で巻いて垂らし、頭頂部近くに入れ毛をして結い上げた小さな髷の脇にその巻き毛を並べ、珊瑚と真珠の髪飾りで留め付けてある。
 対するナーディルは襟や袖だけでなく、胸の部分から裾にかけてもふんだんに花模様の刺繍を入れた青い上着を着ていた。それを黒の帯で留め、結んだ部分には飾り剣を吊るしている。それはこの日のためにエルザーレン伯が誂えさせたものだとのことだった。
 腹にもたれないような軽い料理と酒などの飲み物は幾らか用意されているが、晩餐はすでに済んでおり、今夜の宴は純粋な舞踏会である。最初に踊られたのは、ゆったりとした音楽に合わせて数十人の男女が縦一列に並んで向かい合って一斉に踊るという、荘重ではあるが少し古風な宮廷舞踊だった。
 それが終わると、次はメヌエットだった。シェハラザードは踊りに加わらない人々の中にアインデッドの姿を見つけて、そちらに歩みを進めた。社交の常で、最高位の女性である彼女は自分から男性にダンスの相手を申し込まなければならなかったからである。もちろんアインデッドもその辺りのことは知っていたし、毎度のことだったので、彼女が来るのを酒も飲まずに待っていた。
「イミル将軍。一曲、相手をつとめていただけようか?」
 甲を向けた右手を差し出しながら、シェハラザードは言った。
「何曲なりとも、仰せのままに」
 アインデッドも形どおりの言葉を返し、シェハラザードの手を取って唇を近づけた。それからシェハラザードをエスコートしてダンスフロアとなっている中央に進み出る。大体踊り手が出揃った事を確かめて、楽団が演奏を始めた。
 一対となった男女がくるりくるりと回るたび、ドレスの裾がひるがえり、貴婦人たちの髪飾りやドレスに縫い付けられた宝石やスパンコール、男性たちの衣服を飾る金銀糸の縫い取りがシャンデリアの明かりを受けてきらめく。
 エトルリアの徹底的な略奪からまだあまり経っていないというのに、一体どこにこれほどの宝石や金襴があったのかと疑いたくなる。だが、それもまた人々の逞しさといえばめでたい事なのだろう。
 踊る男女の中でも、アインデッドとシェハラザードは人々の目を引いた。アインデッドは大抵のラトキア人男性より背が高く、何よりもその赤い髪が否応なしに目に付いたし、シェハラザードの銀髪と美貌も周囲から鮮やかに浮いて見えたからである。
 踊りの輪には加わらず、帰還を祝う廷臣たちの挨拶を受け、彼らと会話していたナーディルも二人に目を留めた一人であった。
「姉上は以前よりお美しくなられたな。まるで輝くようだ」
 傍らにいたハディースが笑みを返した。
「ナーディル殿下も、いっそう男ぶりが上がられましたぞ」
「その褒め言葉はありがたく受け取っておくよ」
 ナーディルは小さく声を上げて笑った。その目はなおも、輝くような笑みを浮かべて踊るシェハラザードの姿に当てられていた。
(姉上がアインデッド将軍に恋をなさっているというのは、きっと本当なのだな)
 マギードと踊っていた時のドニヤザードの表情も、同じように幸せそうであったと思い出しながら、ナーディルは考えた。
「ハディース、イミル将軍は貴公から見てどのようなお方だ?」
「と仰いますと? アインデッド殿の軍人としての力量のことでしょうか。それとも人となりのことでしょうか」
 ナーディルは少し考えてから、言った。
「どちらもだ。貴公はどう見ている?」
「戦いぶりは勇猛果敢にして冷静といったところでしょうか」
 ハディースは髯をひねった。
「その場の直感で動くかと見えて、二手先まで読むようなこともなさる。それがなかなか下の者には理解できぬときもあるようですが――。とまれ今まで我が国にはいなかったタイプの武将でございましょう」
「そうだな……。出迎えの時の黒騎士団の動きを見て分かった。恐らく彼自身も強いのだろうが、一軍の将としての統率力も多分にあるのだろう。姉上をエトルリアの手から取り戻し、このようにラトキアを再び独立に導いたのだ。力量のほどはおのずと知れようものだが」
 おのれ自身の言葉に納得するように、ナーディルは小さく頷いた。この一年と数ヶ月のうちに、ナーディルが物事を見る目はかなり鍛えられたようだ。
「それで、どのようなお人柄なんだ?」
「詳しく申し上げられるほど、私とてアインデッド殿をよく知っているというわけではございませんが」
 ハディースはあらかじめ断った。
「つかみ所のない方だというのが一番でしょうか。明るく打ち解ける事もあれば、急に考え込んで黙っておられる事もありまして。外国人だからというのではないでしょうが――何を考えておられるのか、よく判らぬときもあります」
「あまり評価できない、ということなのか?」
「あ、いや」
 ナーディルが不審げに首を傾げたので、慌ててハディースは首を振った。直接言葉を交わす前から悪印象を与えてはいけないと、当たり障りのない言葉を探す。
「今は大変忙しくしておられるようなので、それで疲れておいでなのでしょう。普段のアインデッド殿は気さくな方ですよ。ことに直接率いる黒騎士団の者たちには一人一人に気を配っておいでで、大変面倒見の良い方だと聞いております」
「そうか」
 何となくほっとしたようにナーディルは息をついた。その様子を見て、ナーディルが一体何を心配しているのかハディースは察した。むろん新たなラトキアの将軍としての器も気になるのだろうが、それ以上に姉の恋人として相応しい人間なのかどうかが気がかりなのだろう。それで、ハディースはやや声を落として続けた。
「アインデッド殿がティフィリス人であるせいか――言動をあれこれと誹謗するような輩も少なからずおりますが」
「判るよ」
 ナーディルは口許を苦笑するようにほころばせた。
「誰しも責任ある立場となればそれなりに毀誉褒貶があろうものだからな。彼への評価は本人と話して、僕自身が決める事だ。ただ、騎士団の一員として貴公がどう思っているかを参考までに知りたかったんだ」
「さようでございましたか」
「同じことをさっきマギード兄様にも訊ねてみたが、アインデッド将軍が優秀な武人であるというのは、誰しも認めるところのもののようだな」
 アインデッドとシェハラザードに和やかな目を向けながら、ナーディルは言った。
「人柄についてはまだよく判らないけれど――噂では色々と良からぬことも聞いたが、実際には悪い人ではなさそうだ。これから僕も彼と共にラトキアを守っていかねばならないのだから、良い関係が築ければと思うよ」
「ナーディル殿下が範を垂れてくだされば、下らぬことを申す連中も態度を改めましょうからな」
「そうだな」
 その時、曲が終わって舞踏が一段落した。アインデッドの腕に手をかけて、シェハラザードがこちらに歩いてきたので、ハディースは一歩下がって頭を下げた。
「ごきげんよう、ハディース」
 シェハラザードはまずハディースに声をかけた。
「大公閣下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう存じます。では殿下、それがしはこれにて」
「ああ。また後で」
「楽しんでいますか? ナーディル」
 ハディースがその場を離れたのを待って、シェハラザードはナーディルにも声をかけた。それを受けて、ナーディルも口を開く。
「とても素晴らしい宴です、姉上。僕のためにこのような宴を開いてくださったことと、これほどの人々が集まってくれたことに感謝しています。それからアインデッド殿、こんばんは」
「ご機嫌よろしゅう、ナーディル殿下」
 アインデッドはシェハラザードがナーディルの前に立ったときから、先ほどのハディース同様に一歩退いて控えていた。
「ナーディル、あなたは踊らないの?」
「その気はあるのですが、踊りたいと思う方をまだ見つけられないので」
 困ったようにナーディルは笑った。それを聞いて、アインデッドはシェハラザードに何事かをそっと囁いた。
「わかったわ」
 頷いてから、シェハラザードは再びナーディルに微笑みかけた。
「ではナーディル、あなたと最初に踊る栄誉を姉のわたくしに与えてはくれまいかしら?」
「それはむろん、喜んで。しかし将軍は?」
「殿下のご帰還をことほぐ宴をこのように中座する事はたいへん心苦しいのですが、滞っている仕事がございますので、この辺りで失礼させていただきます。無礼の段は平にご容赦ください」
「仕事とあらば致し方ない。大公たる姉上が許可したのならば構わぬゆえ、下がられるがよい」
「では御前失礼いたします、シェハラザード閣下、ナーディル殿下」
 優雅な礼と共にアインデッドは退出していった。それを待ち構えていたかのように、どこからともなく人垣の間から出てきた老人の姿があった。ナーディルはその姿を見て、ちょっとびっくりしたような顔をした。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ございませぬ、殿下」
「じいや、探していたんだぞ。どこにいたんだ?」
 それには答えず、グリュンは苦い顔を扉に向けた。
「先程、黒騎士団長などと親しくお言葉を取り交わされていたようにお見受けいたしましたが、よろしくない。あやつはパーティーひとつまともにこなせない賤しい田舎者なのですぞ」
「田舎者などとは言葉が良くないよ、じいや。だいたい、クラインではあるまいし、このラトキアがいつからティフィリスをけなせるほどの文化の華になったというんだ?」
 冗談めかしてナーディルは笑ったが、グリュンは和さなかった。
「何を仰られますか、殿下。殿下はいやしくもラトキア大公家の……」
「グリュン、アインデッドには毎日片付けねば溜まるほど仕事があるのよ。どうしてそんな意地悪なことを言うの」
 シェハラザードが大公らしい口調も忘れて、うんざりしたように言って遮ろうとしたが、グリュンは逆に叱り飛ばす口調で噛み付いてきた。
「姫様はあやつに甘すぎるのです。このような重大な宴を途中で抜けるなどとは、何たる礼儀知らずか――」
 延々と続きそうになったグリュンの言葉を今度こそ遮ったのは、シェハラザードではなくナーディルだった。
「じいや、アインデッド将軍に退出の許可を与えたのは僕だし、将軍はきちんと挨拶をしていかれた。だから、僕に対して無礼なことなど一つもない。つまらぬ儀礼にとらわれて国務を蔑ろにするほうがよほど問題じゃないか。それに僕は姉上と踊りたいんだ。ほら、もう曲が変わってしまった」
「は……申し訳ございません」
 ようやくグリュンは、相手に全く聞く気がないことを知った。彼が渋々口をつぐんで引き下がったので、ナーディルはシェハラザードをエスコートしてダンスフロアに出ていった。
「グリュンはいつもああなのですか、姉上?」
 組曲の二曲目に入ったガボットを踊りながら、ナーディルは訊ねた。
「そうね。昔から口うるさかったけれど、アインデッドにはことさら厳しいのよ。あの人がティフィリス人であることが、よほど気に入らないみたい。でも、かといって、摂政でもあるじいやを皆の前で叱責できるものでもないし……」
 シェハラザードの顔が曇ったので、ナーディルは話題を変えることにした。
「ところで、そのドレスは新調なさったんですか? 僕には見覚えがありませんが」
「え、ええ。この宴のために作らせたものよ」
 シェハラザードは弟の顔を見上げて微笑んだ。
「とてもお似合いですよ。その髪飾りも新しいもののようですね」
「そうなの。先日いらしたフリードリヒ大公にいただいたのよ。どうかしら? この髪型は少し地味かと思うんだけど……」
 髪型を気にするように、シェハラザードは視線を上に向けた。ナーディルは首を横に振った。
「地味だなんてとんでもない。大公らしく落ち着いた感じに見えますよ。姉上は何もなさらなくたってお美しいんですから、気になさる事など何もありませんよ。それに、姉上の髪の色には、その珊瑚色がよく映えますね。ドレスの色にもぴったりですし」
「ありがとう、嬉しいわ。あなたもとても素敵よ、ナーディル」
 シェハラザードは零れんばかりの笑顔になった。実は彼女はもともと別の髪飾りで、もっと手の込んだ髪型にするつもりだったのだが、アインデッドがこちらの方が似合うと勧めたのだ。それで、彼女としては似合っているかどうか、他人の評価が気になっていたのである。
 自分が褒められた事よりも、自分を見るアインデッドの目が正しかったことの方が嬉しいシェハラザードであった。

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