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「翌日は青騎士団による模擬騎馬戦の披露を大馬場で行いたいと考えているので、マギード殿には……」
 アインデッドが徹夜で考えた観兵式の予定や警備の割り振りを聞きながら、ハディースは彼の軍内改革はやはり間違いではなかったと確信していた。何をどこに命令されても動きやすいのである。
 最初は非難や不満ばかりを言っていた兵士や将校たちも、命令系統がきちんと立てられて軍のまとまりが良くなったことや、それぞれの特徴づけや役割分担をはっきりさせたことで動きやすくなったなどの成果を目の当たりにして納得し、今では軍内でのアインデッドの人気は大公以上のものとなっていた。
(シェハラザード様は気づいておられるだろうか。たった四ヶ月でここまで軍をまとめあげたのが、アインデッド将軍一人のお力だということ、兵士たちがそのことを誰よりも理解し、今や将軍をシェハラザード様以上に尊敬しているということに)
 アインデッドがシャーム市民の間でかなり人気があるというのは、ハディースでなくとも知っていることだろう。
 彼らのアイドルであるシェハラザードをサン・タオの手から救い出してラトキアを取り戻させ、シャームではいまだ死刑をの声がおさまらぬランを並み居る諸侯らの前でやりこめた――捕らえたのはハディースだったのだが――という数々の手柄を立てているのは、他ならぬアインデッドだったのだから。
(ただ、ランをやりこめたあの一件は、シェハラザード様の名誉のためというよりも、単にランが気に入らなかっただけのような気がするがな)
 ハディースは淡々と計画内容を発表しているアインデッドを見た。諫言しようとしたハディースを逆に諌め返したあの一件以来、アインデッドは元が傭兵という気質の相似もあってハディースと最も親しくなっていた。
 ラトキア軍の将軍たちの中で、多少なりとも智将らしさを持っていて、アインデッドの考えをすぐに飲み込んで理解できるのは情けない事にハディースだけだった。
 アインデッドのやり方に反発する隊長たちに対してハディースが助け舟を出したり、説得に加わったりしてくれることが何度か続いたこともあって、アインデッドはハディースを軍内での一番の理解者と感じているらしい。あまり暇があるわけではないが、時おり閣内の派閥争いの悩みをこぼしたり、少しでもグリュンの気持ちを和らげる方法はないものかと尋ねたりすることがある。
 グリュンはますますアインデッドを嫌っているし、ステラ伯派の人間――ことに青騎士団の一部はマギードを差し置いて軍務の最高責任者となった彼を敵視している。宰相は大公に継ぐ政務の最高責任者だったのだが。
(マギード殿はアインデッド殿とは何のわだかまりもなく付き合っているし、マギード殿はネフィ殿に似て実直な良い若者なのだが、どうも下の人間というのは、おのれの利害しか見ん。今のラトキアに、派閥で争っている余裕などないというのに)
 ラトキア宮廷で明らかな新参者であり、異国人であるのに一番手柄の多かったアインデッドとルカディウスには、やはり敵が多かった。
 だが、ルカディウスを敵視する派閥はアインデッドをも敵視するのに、アインデッドを主に敵視する派閥はルカディウスをあまり敵視していなかった。ルカディウスの方が悪く言えば八方美人で他人にこびへつらうのが上手く、アインデッドはどちらかというとそういったことが苦手だったからだろう。
(アインデッド殿は下々のものの心をとらえる力があるが、どうにも宮廷で上手く世渡りできるタイプとは言い難いからな。かくいう俺もあまり得手ではないが、アインデッド殿は特にそうだ。必要と思ったことならどんな批判を受けてもやり通すし、そのために妥協するということをしない)
 頑固なまでにおのれの信念を揺るがさぬのは若さゆえかもしれないが、或いはそれがティフィリスのやり方なのだろうか、とハディースは首を傾げた。先日シャームを訪れたフリードリヒも、会見時の人当たりの良さとは裏腹に、交渉の席では全く妥協をしなかったと聞いている。
(それはともかく、アインデッド殿の実力は嫌でも認めなければならないだろうが、果たしてアクティバル将軍が彼をどう思うことだろうか)
 いまだ復興の途中にあるラトキアである。再独立の旗印の下に一つとなっていた国内も、何のきっかけで地方紛争が起きるか判らない。外患の憂いも晴れたわけではない。シェハラザードなり、彼女が大公位を譲るかもしれないナーディルなりを盛り立てて、宮廷も軍も足並みを揃えていかねばならない大切な時期なのだ。アインデッドがこぼすように、つまらぬ派閥争いなどで体制に隙や乱れを作ってはならないとハディースも思う。
 だが、そのような危惧や慮りは、派閥争いの当事者には最も縁のないものであった。だからこそつまらぬ派閥の勢力争いに汲々としているのだろうが。
(ナーディル殿下がお戻りになられるのは喜ばしいが、愚か者どもがつまらぬ争いごとを作り出さねば良いのだが……)
 ハディースはいつもの癖で髯をひねりながらため息をついた。
「どうなさいました、ハディース殿?」
「アインデッド殿」
 彼が考え事をしている間にアインデッドの予定説明は終わり、集められていた軍関係者は三々五々会議室を出ていこうとしているところであった。
「どうかなさいましたか。俺の割り振りに何か問題が?」
「そのことではありませんよ。将軍の仰っていた、つまらぬ争いごとを起こしたがる連中のことを、少し案じておりましたので」
 ハディースの言葉に、アインデッドは苦笑に似た曖昧な笑みを浮かべた。
「ご心配をかけて申し訳ない。俺は、どうも上手く立ち回ることができませんからね。性分だから、仕方ない――」
「とは、思いませんがな」
 皮肉めいたハディースの言辞に、アインデッドはちょっと肩をすくめてみせた。それは少し疲れているようにも見えた。
「そこまで俺を買いかぶられても困ります。ともあれ今は、そこまで気を回している余裕がないので、どうしようもありませんが」
「市内警備隊のほうで、また?」
 ハディースとが問うと、アインデッドはため息と共に頷いた。
「またというより、ほとんど毎日です。おかげで城にいながらにして、市内のどこでどういう事件や訴訟があったか判る。多分、当の警備隊の連中よりも詳しく知ってるんじゃないですかね」
「私にできることなら、力を貸そう。何なりと、いつなりと声をかけてくれ、アインデッド殿」
「かたじけない。まあ――とりあえずは、ナーディル殿下をつつがなくお迎えするのが最優先ということで、後はできることをやるだけですね」
「あまり、無理をなさらぬようにな」
 それには笑顔だけで応え、アインデッドは踵を返した。


 会議室を出たアインデッドを、忙しげな足音が追いかけてきた。声をかけられる前に、アインデッドは立ち止まった。
「おはようございます、アインデッド閣下」
「ああ、ジュイン。おはよう」
 後ろから小走りにやってきたのはイー・ジュインだった。シャーム城に仕える文官・武官にもエトルリア系の者は珍しくないが、純粋なエトルリア人となるとやはり多少周囲から浮いて見える。ゼーアは多民族国家であるが、やはり地域的な民族分布の差というものがある。ラトキアには、本来ペルジア大公国の一部であった事からゼーア系から派生したラトキア系ゼーア人が多く住んでいる。
 彼の手に書類挟みがあるのを見て、アインデッドは首を少し傾げた。
「どうした。警備隊に何か問題でも?」
 城の警備責任者はプブリウスという男であって自分ではないのだが、市内警備隊と同様に、かれら自身で判断のつきかねる事態が起こるとすぐに伺いを立てに来るのである。イー・ジュインは踵をきちんと揃え、さっと敬礼した。
「先月から濠に解体後の骨や内臓を投棄していた肉屋を捕らえたのですが、どのように処分すべきかの前例がないとのことで、隊長から将軍閣下の指示を仰ぐようにとご命令を受けましたので」
「えーと、濠への不法投棄?」
 アインデッドは手を上げて、前髪の辺りを掻いた。頭の中にめまぐるしい勢いで今まで読んできた判例が流れるが、該当しそうなものはすぐに出てこなかった。しばらく悩んでから、アインデッドは口を開いた。
「悪いが今すぐには判らない。一両日中に回答を出すから、その件は俺の預かりとしておいてくれないか」
「かしこまりました」
 ジュインは一礼してから、書類挟みから取り出した数枚の書類をアインデッドに手渡した。そのまま去ろうとするのへ、アインデッドは声をかけた。
「ああ、ジュイン」
「は。何でございましょうか」
 少し辺りをはばかるような小声になりながら、アインデッドは訊ねた。
「タマルとは、どうだ。うまくいってるか? この頃姿を見ないんだが、まだ落ち込んでたり悩んでたりしてないか?」
「お気遣いありがとうございます」
 折り目正しくジュインは頭を下げた。
「閣下にはご心配とご迷惑をおかけしましたが、気の晴れた様子で元気にしております。縁談もつつがなく進んでおります」
「そうか」
 アインデッドはほっとしたように言った。妙に素直というのか馬鹿正直というのか、アインデッドはタマルが結婚の事で思い悩んでおり、その一因に自分の存在がある、とジュインに打ち明けて謝っていた。さすがにあの雨の夜の詳しい事情は話せなかったが、タマルが思いつめたのは自分の軽率な行動が原因だということは痛感していたし、自分のせいで二人の縁談が壊れてはと不安になったのである。
 隠さず打ち明けた事が良かったのか、それともジュインの真面目さなのか、彼はその事でタマルを突き放すこともなく前と変わらぬ愛情を注いでいるようで、アインデッドには普段どおりに接している。アインデッドはほっとしたものである。
「タマルの両親にはもう知らせたのか?」
「はい。使いはやりました。しかし何にせよ遠いものですから、返事が来るまでにはまだ時間がかかりそうですが」
 アインデッドは小さく笑った。
「ま、ここで焦っていても早まるわけじゃないからな」
「さようでございますね」
 それに応えてジュインも微笑んだ。二人の和んだ雰囲気はしかし、あまり長くは続けられない運命にあったようだ。こちらに向かって歩いてくる人影に、先に気づいたのはアインデッドだった。
「グリュン閣下。おはようございます」
「おはようございます」
 すぐに丁寧に礼をしたアインデッドに続いて、ジュインも頭を下げた。だがグリュンはアインデッドには目もくれず、ジュインに向かって頷きかけただけだった。
「お早う。そなたはたしか、イーとか申したな」
「はい。ご記憶くださいまして光栄にございます」
 ジュインは城の警備に当たっているのだからほぼ毎日顔を合わせているし、タマルの婚約者ということで、シェハラザードの近辺に仕えているものには改めて言うまでもなく名が知れているはずなのに、グリュンはいちいち確かめた。
「エトルリア人ながら、シェハラザード様にお仕えすることを選んだとは、なかなかに賢明だ。これからも励めよ」
「はっ」
 畏まった様子で、ジュインはもう一度頭を下げた。しかしグリュンはそこで終わらず、眉を寄せて続けた。
「だが付き合う人間は選んだ方が良いぞ。得体の知れぬいかがわしいものと親しく言葉を取り交わしては、せっかくの評価も下がるぞ」
 それは明らかに自分に向けた当てこすりであると気づいたが、アインデッドは何も言わなかった。
「異国人どうし、何の話かは知らぬが楽しくやっておるのも結構だが、そもそもそなたは祖国を裏切った身。要らぬ疑いを招くような事はせぬことだ」
「……」
 これが厭味になると判っていて言ったのかどうか定かではなかったが、これにはさすがにジュインも何やら思うところがあったようで、かすかに頬の筋を引きつらせた。だが言葉を返す事はせず、おとなしく頭を下げ続けた。グリュンはアインデッドを横目で睨んでから、来た方向へ戻っていった。
 それを待ってから、アインデッドは声をひそめて言った。
「すまないな。俺のせいで嫌な思いをさせた」
「将軍がお謝りになることはございません。私は、気にしておりませんよ」
「そうか」
 応えて微笑んではみせたものの、アインデッドの表情には先程まで見えなかった疲れの色がありありと浮かんでいた。

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