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「女心なんて俺にゃ全然、よく分からんがね……。セシアは出回っている将軍の肖像なんかを大事にしまってて、毎夜寝る前に眺めているってさ。俺も持ってるんだが、見てみるか?」
 ダンが小さく折りたたんだ紙片を取り出した。マリエラは黙って頷いてそれを受け取り、粗悪な上にかなりくたびれている紙を破らないように気をつけながら開いた。それを一目見て、マリエラははっとした。
「……間違いないわ。あたしの知ってるアインデッドと、このアインデッドは同じ人よ。こういう顔だった」
 それでも、こんな安っぽく大して上手くもない肖像などでは、実物のあの溢れるような生命力の輝きは表わせていないとマリエラは思った。詳細の違いは間近で見て見なければ判らないだろう。だがたしかに顎の線の細さや、切れ上がったまなじりなどの特徴はそれなりに掴んでいる。
 肖像画をなおも見つめながら、マリエラは呟いた。
「でも、こんなのじゃ本人の全てを伝えられるってわけじゃないわね」
「まあな。俺も一度、遠目に見ただけだったけど。まるで物語の中の人みたいだったよ。この世のものじゃないような」
「ああっ! そう、それよ。それだわ、兄さん!」
 マリエラはぽんと膝を叩いた。ダンはびっくりして目を瞠る。たいへん素晴らしいアイデアを思いついたようにマリエラは頬を紅潮させた。
「物語の人って言ったわね。それが肝心なのよ。それはつまり現実のものじゃないってことよ。この世の人じゃないってこと。皆が心の中で勝手に作り上げてしまった想像上のアインデッドを現実の彼に重ねてしまって、彼自身もそれに気づかずそのように振る舞っているのね。たぶん、今のアインデッドは厳密な意味では現実に生きている人間ではないのだと思うの。生きてはいるけれど、それは半分の彼で、あとの半分は人々の想像の中に生きているのよ。だから、兄さんが言うようにあたしが今アインデッドを見たとして、それが昔の……」
「マリエラ、マリエラ」
 ダンは一気にまくし立てられて閉口したのか、お手上げのように両手を挙げてマリエラのお喋りを中断させた。マリエラははっと気がついて、周りに耳があったわけではないが気まずそうにそろそろと左右に視線を移し、口をつぐんだ。
「まったく、お前のそのよく動く舌には呆れるのを通り越して感心しちまうよ。ぺらぺらとよく回るもんだな。本当に吟遊詩人になるために生まれてきたような奴だよ。あいにく俺にはお前みたいな才能はないんだから、もっと判りやすく言ってくれ」
「はーい」
 マリエラはひょいと肩をすくめた。
「だからね、兄さん。兄さんはアインデッドをこの世の人のようには見えないと言ったでしょう?」
「ああ」
「当然、そういう評価は回りまわってアインデッドの耳にも入ってきているはずよね」
「まあ、そうなのかな」
 要領を得ない返事にマリエラは眉を寄せたが、かまわず続けた。
「アインデッドには他人の評価に合わせて振る舞うような所があったわ。頼りがいのある奴だと思われてたら、誰に何を頼まれても断らない、みたいな。もちろん、自分にとって良い評価に限られてたけどね。だからこの世の人のようじゃないと言われると、その期待に応えようとして必要以上に物語めいた人のように振る舞っちゃうのよ」
「なるほど……俺たちの想像が理想のアインデッド将軍を作ってしまい、それがまた将軍の耳に入って――っていう循環ができてるってことか。俺たちが見ている将軍は、俺たちが作り上げた印象を演じていて、実際の彼かどうかは定かでない、と」
「そういうことかしらね」
 マリエラは自分が考えたこの理論にかなり満足していたので、自信ありげに頷いた。それから、ふと思いついたように尋ねた。
「ねえ、道々嫌な噂を聞いたんだけど。アインデッド将軍がシェハラザード様を騙して、ラトキアを乗っ取ろうとしてるとか何とかって噂。兄さんは聞いてる?」
「そんな噂もあるよ。グリュン様にも聞かされたしな」
 ダンは頷いた。
「だがアインデッド将軍はティフィリス貴族の御曹司で、お家争いに嫌気がさして祖国を出奔なさって、ここまで流れ着いたってもっぱらの噂だ。それに……まあ、とにかくそんなことはないと俺は思うんだが」
「ぷふっ」
 真面目くさった顔で言うダンに、マリエラは思わず吹き出していた。
「ふふふっ、うふ、くは、あはははは!」
 いきなり憑かれたように笑い出したマリエラに、ダンはびっくりして何か悪いものでも食べてきたのではないかと心配した。
「何だ、どうしたマリエラ」
「な、な、なに、その、噂って……いやーッ! あはははっ。面白すぎる! 最高っ! 笑いすぎで死ぬ!」
 狼狽するダンをよそに、マリエラは寝台から転げ落ちそうなほど腹を抱えて笑った。止めようとして顔をひくひくさせ、妹のそんな反応が理解できずおろおろするダンの顔を見てさらにまたおかしくなって、最後には痙攣したようになって笑い続けていた。その合間に、何とか言葉を搾り出した。
「ア、ア、アインデッドが、ティフィリスの貴族?」
「いや、噂だが……」
「確かにね、ふふ、アインデッドの話では、ティフィリス大公があいつを息子として引き取ってくれたってことだったけど……それが、御曹司に、お家争い? それは嘘よ! それ絶対政治的な嘘だわ!」
 マリエラはようやく笑いの発作をしずめ、また涙が出るほど笑ったので目を拭いながら叫んだ。ダンはまだ目を白黒させていたが、マリエラの言うことの方が正しそうだと――『吟遊詩人は見てきたような嘘を言う』などという諺もあったのだが――思って、それを信じることにした。
「じゃあマリエラ、お前はアインデッド将軍がもう一つの噂どおり、シェハラザード大公を騙そうとしていると思っているのか?」
「ううん」
 とたんに真面目な面持ちに戻り、マリエラはきっぱりと首を振った。
「あいつは絶対そういうことを平気でするような奴じゃない。短い付き合いだったけど、それは断言できるわ。むしろそういうことには潔癖だったもの。それは本当にひどい噂だと思う」
 マリエラの知っているアインデッドは、確かに気の合わないことはあったが、自らを犠牲にしても気に入った相手、自分に好意を示してくれたものには絶対に恩を忘れない律儀な所を持っていた。
 それに、自分とは喧嘩の方が多かったのに襲われた時には助けてくれた。アインデッドは口では面倒は嫌だとか、頼られるなんて趣味ではないと言っていたが、いざとなると誰よりも頼りになる男だった。
 当時のマリエラにはそういった彼の表面しか判らずに衝突ばかりしていたが、悪ぶってみせることで根の優しさや気遣いを隠すような、どこか矛盾をはらんだ性格だったのだと、今は判る。
 そんな彼が、たった六年で彼女の知らない何か別の、ラトキアを脅かす悪魔に成り下がってしまったとはどうしても思えなかった。
「マリエラ、それなら一度アインデッド将軍を近くで見てくれ。それで本当に、お前の記憶の中の彼と、今の将軍が変わっていないかを確かめてほしい」
 ダンは真顔に戻ってマリエラを見つめた。義兄のこういう真剣に物事を見つめる目をマリエラは密かに尊敬していた。まだ何故ダンがそのように言うのかわからなかったが、彼女は頷いた。
「わかったわ。でも、なんでそうもアインデッドのことにこだわるの? もう宮廷づとめをやめたんなら、宮廷でのごたごたなんて関係ないことじゃない?」
「それが……」
 ダンはためらいがちに顔を曇らせ、それからもうここまで来た以上は話すしかないと覚悟を決めたように口を開いた。
「ちょっと長くなるが、聞いてくれるか」
「ええ」
 何か重大なことだとぴんときて、マリエラはおもてを引き締めた。
「エノシュがこの前、革を仕入れるために街道まで出ていったときのことだ」
 そこでエノシュが巻き込まれた事件の全てを、ダンは義妹に語った。アインデッドが率いていたはずの盗賊たちが殺されたこと、それを呼び戻そうとアインデッドが追いかけてきていたこと、二人だけ助かったシロスとレクスを、アインデッドに頼まれて今はエノシュがかくまっていること――。
 覚悟はしていたものの、マリエラはしだいに顔を青ざめさせて、最後には驚きのあまり口もとを手で覆ってしまった。
「そんなことになっていたの……」
「シロスさんから、俺たちは色々なことを聞いた。ルカディウス卿のこともその一つだ。ルカディウス卿――いや、卿なんてつけなくてもいいな。ルカディウスと言えば参謀長で、ラトキアの頭脳とも言われる人だ。だがその人がどうやら、シロスさんたちをシャームから追い出して殺そうとした犯人ではないかとアインデッド将軍は疑ってる」
「兄さんは、どう思うの?」
「エノシュはアインデッド将軍を信じると言っていた。俺も、この件に関しては本当にアインデッド将軍は無関係なのだと思う。ともあれ、これは俺たちが抱いている疑念とは少し別の話になるが……」
「本題はなに?」
 マリエラは先を促した。
「シロスさんが言うにはルカディウスはアインデッド将軍によからぬ思い――シルベウスの恋をしているんだそうだ。しかも内容も身の毛もよだつようなことばかりで、アインデッド将軍が嫌がるのもかまわずに着替えを手伝ったり、あまつでさえ、湯浴みまで面倒を見るという徹底ぶりだそうだ。それならばまあこう言ったら失礼だが、アインデッド将軍お一人の問題だからいいものの、しかしそうもいかない問題がある」
「それが、シェハラザード様のことね」
 ダンは頷いた。
「アインデッド将軍にはそんなつもりは全く無いのに、ルカディウスはシェハラザード様を利用して、ラトキアを将軍のものにしようとしているらしいんだ。それで、アインデッド将軍がシェハラザード大公を色仕掛けでどうのという話は全くの嘘で、シェハラザード様のほうが一方的に熱を上げているらしい。それがルカディウスの思う壺なものだから、将軍自身は嬉しく思っていないそうだ。だったらラトキアの敵はアインデッド将軍とルカディウスではなく、ルカディウス一人ということになる。シロスさんたちを襲わせた一件は、さっきも言ったとおり、完全に将軍は無関係だと思うんだが、しかし将軍が本当にルカディウスに操られていないかどうか、それをお前の公正な観察眼で確かめてほしいんだ、マリエラ」
 長い沈黙があった。
 やがてマリエラは顔をあげ、大きく頷いた。


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