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     アインデッドのサーガを作ってやるのよ。
     アインデッド王のサーガよりもすごいサーガにしてやるわ。
     だからあんた、ぜったいに王様になりなさいよ。
                      ――マリエラ 十八歳




     第一楽章 約束の故郷




 陽が完全に落ちる頃、点灯夫が大通りを巡ってシャームの街灯に火を入れる。その光は街道から見ればぼんやりと明るく、そこに街があることを示してくれるだろう。それでも中原の華と謳われるカーティスに比べれば暗い夜であった。
 そんなシャーム市内にある一軒の料理屋。シャーム陥落の際に略奪にでもあって破壊されたのか、所々の壁は漆喰が新しい。そして軒先にはへたくそだが何かしら温かみを感じさせる字で「ダンの店《ふるさと》亭にようこそ。シャーム名物デリラ小母さんの肉饅頭をどうぞ!」と書かれた看板がぶら下がっている。粗末な蝋引き紙を張った窓からおぼろに店内の明かりが漏れ、人々の笑い声が聞こえる。この店から、明かりと笑い声が絶えたことは無い。
 戸口に立った若い女は思わずといった様子で微笑んだ。訪れる人を知らず笑顔にしてしまうのも、この店の雰囲気だ。やがて女は把手を掴んで勢いよく引いた。
「ただいまあ!」
 《ふるさと》亭に、明るく澄んだ声が響いた。全員がぱっと振り向き、また話に戻る者もいれば彼女を迎えに立ち上がるものもいる。ダンは調理場からエプロンで手を拭いながら出てきた。その顔は驚きと喜びに輝いていた。
「マリエラ! よく戻ってきたな」
「ただいま、兄さん」
 マリエラはかぶっていた吟遊詩人の三角帽子を脱いだ。髪は相変わらず少年のように短いが、このところ切っている暇もなかったのだろうか、長いところでは肩に届くくらいに伸びていた。あるいは故郷に腰を落ち着けるつもりで、伸ばしながら来たのかもしれなかった。女の一人旅では用心のために男装することもあるが、実家に戻って定住するならその必要もないからだ。
 この《ふるさと》亭はマリエラの実家である。マリエラは捨て子であったそうだが、マノア夫妻に拾われ、ダンの妹として慈しまれて育った。十七歳のときに彼女は吟遊詩人になるという夢を抱いてシャームを出て、ラトキアを離れたのである。
 それ以来、彼女は一度も実家に帰っていなかった。きょうだい、親子が出会うのは実に七年ぶりのことだった。初々しい二十歳の青年だった兄は落ち着きを持った若旦那に成長していたし、おてんばで本当に子供だった妹は、少なくとも見かけは大人の女性に成長していた。
「マリエラ。まあ、すっかり大人になって」
「何てこった。お前、生きてたのか!」
「失礼ねえ、何その言い方」
 続いて、店内で給仕をしていたミカルと、今夜は客として食事をしていたエノシュがそれぞれマリエラのそばに来た。二人ともダンの幼なじみで、マリエラともよく遊んだ仲である。
「ミカルねえさん、エノシュ、元気だった?」
「ええ、元気よ」
 マリエラは相好を崩した。それにつられるように、二人も笑う。
「でもどうして、ミカルねえさんがうちで手伝いをしてるの?」
 首を傾げると、エノシュが訳知り顔でダンとミカルを見やった。すると二人は顔を赤らめて、互いの目をそらした。
「言わずもがなのことだろ、マリエラ」
「……」
 マリエラは一瞬呆気に取られたように目を見開いた。すぐに理解が訪れて、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「なんだ、そういうことかあ。やだなあ、いつ結婚したのよ。そんなことになるなんて、思いもしてなかったわ」
 三人は一通り七年間の空白を埋めるためにひたすら喋った。その間酌も調理もほとんど進まなかったのだが、客たちは皆顔見知りということもあって、兄妹と幼なじみたちの再会の喜びをあえて邪魔しようというものはいなかった。どころか、一緒になってお喋りに興じていた。
 そこへ、店の裏手で作業していたデリラがミカルに呼ばれて戻ってきた。娘の姿を見るなり、彼女は両腕を広げて駆け寄った。
「マリエラ! ほんとにマリエラなんだね」
「ただいま、母さん!」
 デリラのふくよかな胸に強く体を押し付けられて、マリエラはくすぐったそうに笑った。
「マリエラ、父さんに会ってやっておくれ」
「……そうだわ、まだ父さんにただいまを言ってなかった」
「こっちだよ」
 ダンはマリエラの肩を抱くようにして、店の奥へいざなった。周りにいた客たちがそっと道を空けてくれた。その人々の中央でマノアは揺り椅子に納まっていた。
「どうかしたの、父さん。……まあ!」
 マリエラはマノアの焼け爛れた痕も生々しい顔を見て声を上げた。
「なんてひどい! エトルリア兵にやられたの? あたしの顔も、もう見れないの?」
「もっと傍に来てくれんか、マリエラ」
 マノアは微笑んで、マリエラに向かって両手を差し延べた。マリエラは父の手を取ってしっかりと握り締めた。彼女の手から自分の手を抜き取り、マノアは慈しみを込めて彼女の顔に触れた。
「ああ、たしかにマリエラだ。お前の顔を見られなくても、顔はよく覚えてる。それに、歌はちゃんと聞けるよ。それにしても、よく戻ってきた。七年間出ていったきり便りもなくて、心配してたんだぞ」
「ごめんね。本当はもっと早く戻りたかったんだけど、エトルリア兵がいて危ないというし、その後またシャームが戦場になったと聞いて、なかなか戻れなくて。でも、ある人との約束があって、それもあるから戻ってきたのよ」
 マリエラは椅子にかけ、リュートの弦を爪で弾いて音を合わせながら忙しく喋り続けていた。
「やっぱり街並みとかだいぶ変わっちゃったね。記念碑通りの記念碑がなくなってたし、あたしが捨てられてたっていう橋、架け替えられてきれいになっちゃって」
 ダンがマリエラの言葉が切れた所を見計らって声をかけた。
「約束って、何かあったのか?」
「うん。その人のサーガを作るって約束がね。そのためには、その人の近くにいたほうがいいんじゃないかと思って。それで、その人っての、知ったら驚くわよ。会ったのは六年前で、十八のときだったんだけど――」
 マリエラは得意げに、言葉の合間にリュートをかき鳴らした。マリエラのお喋りには誰もがついつい引きこまれてしまう。
「で、誰だって?」
 エノシュが催促した。マリエラはにっと白い歯を見せて笑った。
「なんとラトキア右府将軍アインデッド閣下よ!」
「馬鹿を言うなよ」
「お前さん、吟遊詩人だからってそんな嘘を言うもんじゃないぜ」
「嘘じゃないわよ。ほんとだったら」
 一同は信じられない、とばかりにどっと笑い出したが、ダンとエノシュは深刻な面持ちで互いの目を見交わした。その目の奥には、彼らだけが知っている秘密の重大さのようなものが浮かんでいた。
 しかし店内は、二人がいつまでも深刻な顔をしていられる雰囲気ではなかった。マリエラの歌が始まると客たちはそれに合わせて一緒に歌ったり踊ったりしはじめて、店内は先ほどに倍する騒がしさになったのである。
 黙ってしまった二人が当然見逃されるわけもなく、エノシュは近所の親爺にお前も飲まないかと杯を押し付けられ、ダンはいいかげん注文した料理を作ってくれないかと催促されて、慌てて厨房に戻った。
 結局、ダンとエノシュがその時何を思っていたにせよ、話ができる時間もなく閉店までの時間が過ぎていった。さすが諸国を渡り歩いただけあって、マリエラは色々な歌を覚えて帰ってきており、人々は異国の歌を聞かせてくれるように頼んだ。
 やがてマリエラが帰ってきたことを聞かされた知り合いたちが集まりもしてきたので、店は客が座りきれないほどになり、いつもの三倍くらい賑わった。しかし、ただ単にマリエラの話を聞きに来ただけの者もいたので、そのうちいくらが儲けにつながったのかは定かではなかったが。
 《ふるさと》亭の人々がようやく家族だけの時間を過ごすことができるようになったのは、閉店後の片付けなどが終わったナカーリアの刻過ぎだった。だがデリラとマノアは年もあって、片づけが終わると早々に寝てしまったので、しんみりと親子の会話をするのは翌日以降に持ち越されたようだった。
 一旦自分たち夫婦の部屋に引き取ったダンだったが、しばらくしてマリエラの部屋を訪った。マリエラは夜着に着替えてはいたがまだ眠っておらず、兄を迎え入れた。
「どうしたの、兄さん」
「ちょっとお前に聞きたいことと、話があるんだ。いいかな」
「ええ、かまわないわ」
 店の三階、屋根裏のマリエラの部屋は、つい一テルほど前の階下の喧騒が嘘だったかのようにしんと静まり返っていた。七年間いなくなっていた娘がいつ帰ってきても気持ちよく過ごせるようにとのデリラの配慮なのだろう。部屋はきれいに片付けられて掃除されていた。
「なあマリエラ、本当に、お前はアインデッド将軍に会ったことがあるのか?」
 部屋に一つしかない椅子に腰掛けながら、ダンは尋ねた。
「うん。もう六年も前になるけど」
 マリエラは屈託のない様子で頷いた。
「その時の将軍はどんな方だった?」
「そうね……元気で明るくて、嫌な奴だけど憎めない感じ。大人びて見えた次の瞬間には年よりも子供っぽく見えることもある、そんな奴だったわ」
 目を宙に泳がせるようにして彼女は答えた。
「いま将軍を見ても、それがそのお前の言う相手と同一人物だと思えるか?」
「そんなの、見てみなくちゃわかんないわ」
 即答したマリエラは肩をすくめた。
「だいたい、六年も前の話だもの。ねえ兄さん、いったい何があったと言うの? いつのまにか兄さんてばお隣のミカルねえさんと結婚なんかしてるし、今のシャームには色々判らないことばかりなのよ。どうして急にそんなことを訊くのか、あたしには何が何だかさっぱり判らないわ」
「ああ」
 ダンはマリエラのベッドに座り込んだまま、どこか上の空で答えた。マリエラはそのつり上がり気味の眉をふと寄せた。
「あの方は昔もあんな綺麗な人だったか?」
「そうね」
 マリエラは少し考え込んでから答えた。
「何というのかな。顔立ちうんぬんよりも、はつらつとしてたというか、目をやらずにいられない存在感があるというのか……。ほら、道を歩いていて、きらっと光るものがあったら思わず足を止めてそれが何か見てみるでしょ、そういう感じ。……たしかにまあ、顔はすごく綺麗だったわね。女の子みたいって言うと、すごく怒ったけど。ほんとのことなのに」
「俺も、将軍は凱旋の時グリュン様を送っていってちらっと見たが、えらく綺麗な人だった。この近辺の女の子たちなんか大騒ぎだよ。隣のセシアはアインデッド将軍の目にとまりたい一心で宮廷仕えを志願してるくらいだ」
「へえ……」
 マリエラは寝台に腰掛け、膝を抱えて髪の端っこをいじりながら感慨深そうに言った。沿海州で出会ったときのアインデッドも、やたらにもてていたのを思い出した。それは彼女にとっては、単なる腹立たしい思い出に過ぎなかったが。

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