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                                *



 フェンドリックとアトの結婚式から、数日後のことであった。
 アトはいつものように、サライの後ろについて廊下を歩いていた。朝は宮殿中がどこも何となく忙しく、掃除をしたり、洗濯物を集めたりする召使たちが部屋を出たり入ったりしている。
「お早うございます、サライ様」
「おはよう」
 何事もなく一人の侍女のそばを通り過ぎようとした時であった。
「ディナ、ちょっといいかしら?」
 アトが何かに気付いたように声をかけた。
「なにか?」
 呼び止められたディナは首を傾げた。アトはサライを振り返った。
「申し訳ありませんがサライ様、少しディナに話がございますので」
「先に行っているよ」
 サライは詳しいことは聞かず、また歩き出した。ちらりと振り返ってみると、アトは周りの耳をはばかるようにしてディナを近くの壁際まで招き寄せ、何事かを告げるようだった。聞いているディナの顔がさっと赤らみ、ついで青ざめるのをサライは見るともなく見てしまった。
 じろじろと見るものでもなかったのでそれきりサライはそちらを見ることもなくその場を立ち去ったが、気になる情景だった。
 執務室に入ってしばらくすると、アトが追いついてきた。周りに小姓も誰もいないことを確かめてから、サライは先程の一幕について尋ねてみた。
「アト、さっきのは一体何だったんだい?」
「大したことではございませんわ」
 アトはちょっと笑ってみせた。
「そのわりに、ずいぶんあの子は驚いているようだったけれど」
「よくご覧になっていらっしゃるんですのね」
 皮肉っぽくアトは言った。サライは肩をすくめた。
「気にしないでいられるほど、私は人間ができているわけじゃないんだよ。君も知っていると思うけど」
 こういうときのサライは絶対に引き下がらないとアトは知っていたので、折れることにした。ため息と一緒に言葉を吐き出した。
「詳しくは申し上げられませんけれど、少し見えてしまったものがありましたから、気をつけるように言ったんです」
「何か悪いことでも?」
 さらに尋ねると、見えてしまったものを思い出して嫌な気分にでもなったのか、アトは眉をひそめた。
「ええ、そうです。余計なことを言ってしまったのかもしれませんが」
「……それは、予知?」
 怪訝そうに、サライは確かめた。アトはそんなサライの様子を気にしたようではなく、屈託ない様子で頷いた。
「はい。予知か、透視か……とにかく、力の一つでしょう」
「そう……」
 それきりその話題は出てこなかったが、サライの訝しげな面持ちは変わらなかった。一旬が過ぎた午後、サライは仕事の合間にディナを呼び出した。執務室に彼女が入ってくると、サライは人払いを命じた。そして前置きも何もなく、話を切り出した。
「ディナ、この前のことを教えてくれないか」
「と、仰いますと……?」
 突然呼び出されて、何のことかと怯えもしていたのだろう。不安げな顔で、ディナはサライを見た。居心地悪そうに手を組んで、エプロンの布を指先で掴んだり、放したりしていた。
「一旬ほど前のことだ。アトに何か、予言を受けたみたいだね。差し支えなければそれを教えてくれないか。言えないことなら、無理に言わなくてもいい。ただ、その言葉が当たっていたか当たらなかったか、それだけを教えてくれ」
「どうしても申し上げねばなりませんでしょうか?」
 ディナの声は哀しげだった。
「どうしてもとは言わない。ただ、気になることがあるんだ。彼女の予知の力が失われていないのなら」
「……」
 覚悟を決めたように、ディナは小さく息をついた。そして、一気に吐き出すように話しはじめた。
「私の、恋人だった人のことです。アト様は、私にとって良くないことがあるから、彼とは別れたほうが良いと、そう仰られたんです」
「それは、当たった?」
 おそらく彼女にとって残酷なことを尋ねていると判ってはいたが、サライは確かめた。ディナは悔しげに下唇を噛んだ。じっと床を見つめる瞳には、かすかに涙さえ滲んでいるようだった。
「当たらなければいいと思いましたけれど……。彼が、女を騙すような男だなんて信じたくございませんでしたから。だから、警備隊の知人に彼のことを調べてもらいました。でも、アト様の仰ったことが本当だと判っただけでした」
 ディナはそれ以上言葉を続けることができなかった。思い出しても悔しさがこみ上げるのか、彼女はハンカチを取り出して目を拭いだした。信じたかった男に裏切られたと知って、その後彼女とその男の間に何があったのかは想像に難くなかった。彼女にとっては辛い真実であったに違いないことも、サライには推測できた。
「……すまない。辛いことを言わせてしまって」
「いえ、騙される前に判ったのですもの。私、アト様に感謝しています。お礼を申し上げるつもりでおります」
 ハンカチを下ろし、ディナは気丈に首を振った。
「話してくれてありがとう。私にも、確かめなければならないことができたようだ」
 下がってもよいと告げると、ディナは一礼して部屋を出ていった。彼女が出ていったことを確認して、小姓たちが戻ってきた。
「少し席を外すよ。すぐ戻るから、仕事を続けてくれ」
 言い置いて、サライもまた執務室を出た。向かったのは騎士団の控えている棟である。カーティス公の騎士団は登城の際の警護だとか、宮殿の警備といった仕事しかないので、雰囲気は実にのんびりとしたものである。そこに行くとサライは、いつもジャニュアのセシュス伯爵護衛団を思い出すのだった。
 アトを探し出すのにそれほど時間はかからなかった。彼女はフェンドリックや何人かの隊長たちと、成婚パレードの際の隊列や道順についての打ち合わせをしているようだったが、サライが差し招くとすぐに気づいてやってきた。
「どうなさいましたの」
「話があるんだが、いいかな」
「少々お待ちください」
 アトは相談していたテーブルまで戻り、席を外すことを告げてからまたサライのそばに来た。そのまま二人は部屋を出て、廊下の突き当たりまで行った。そこまで行くと、通りかかるものもほとんどおらず、静かなものだった。
「それで、お話とは?」
「この前の君の予知のことだけど――あの子には悪いとは思ったが、さっきディナを呼んで確かめた」
 アトは無言で、目を瞬かせて首を傾げた。何故サライがそんなことをしたのか、全く心当たりもないし、推測もできない、といったふうであった。
「どうしてそんなことをなさったんです」
「確かめたかったんだ。君の予知が正しかったかどうか」
 サライは素直に答えた。アトはさらに怪訝そうな顔をした。
「それで判った。君の予知の力は全く変わりないようだね」
「ええ」
 アトは頷いた。
「力が衰えたり、見えないときもある――というようなことも無い?」
「全く、そういうことはございませんわ。気象の移り変わりくらいなら、見たくなくても見えてしまいますもの。サライ様が今朝、朝食を召し上がらなかったことだって判ります。お昼はきちんと食べてくださいね」
 それを聞いたサライは、返事の代わりに心配そうな顔つきでアトの顔を覗きこんだ。
「アト、こんなことを聞くのは本当に、君にもフェンドリックにも悪いと思うんだけど……。正直に答えてくれないかな」
「何をですか」
 サライは少々恥ずかしげに頬を赤らめた。
「君――本当にフェンドリックとうまくいっているの?」
「なぜそのようなことをお聞きになりますの」
 心外なことを聞かれたように、アトはやや憮然とした顔で問い返した。
「サライ様が何を指して仰りたいのか知りませんけれど――。それはまあ、私は世間知らずかもしれませんけれど、そこまで私を子ども扱いなさることはないと思いますわ。どうしてそんなことをお疑いになるんですか」
 アトは唇を不機嫌そうに曲げた。そうすると言葉とは裏腹に実に子供っぽい顔になるのだが、互いにそんなことは気にしていなかった。サライは慌てて弁解した。自分で言っていることの恥ずかしさに、本格的に耳の辺りまで赤くなっていた。
「いや……君とフェンドリックの仲を疑ってるわけじゃないんだ。ただ、君のような力を持った女性が結婚すると――力を無くしてしまうものだと思っていたから――。力を失っていないのなら、もしかしたらと思って。お節介だっていうのは私だって百も承知なんだけど……」
 サライは言いにくそうに口ごもった。だが、アトはけろりとしていた。
「そういった話は私も聞きましたけれど、私には関係ない話のようです。本当は、こんな力など無くなってくれれば、と少し期待していたのですけれど」
「そうか……」
 意外なことを聞いたように、サライは考え込む様子だった。
「でも、なぜだろう。君のような例は初めて聞くよ」
「私は身を清く保つ事によって力を得ているのではないから、でしょうか。それに、もしかしたら、結婚したら力を失ってしまう人たちは、本当に結ばれるべき人と結ばれたのではなかったのかもしれませんね」
 遠くを見るような目で、アトは続けた。
「フェンドリックは、私と同じ力は持っていませんけれど、私を通じて私と同じものを見る力を持っているんです。何と言えばいいのか私にもまだよく判らないんですけれど、私の魂が天に近づく時、心を地上につなぎとめてくれる存在とでもいうのでしょうか。だから、彼によって身を汚されるとか、そういったふうには思いませんし、実際そうではないと思います」
 言ってから、アトは急に照れてしまったように顔を伏せた。
「で……ですから、サライ様がご心配なさるようなことは一つもございませんわ。お役に立てるのでしたら、この力もまだあったほうがよいのでしょうし」
「ああ……うん。そういうことなら、いいんだ」
 サライも同じようにどぎまぎしながら言葉をついだ。互いに何やらおかしな手振りまでつけて話し合っているのは、はたから見ていると奇妙な光景であった。



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