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     めでたきかな 麗しき愛、愛しあう魂よ
     愛はすべてを赦し、すべてを与える
     さればこそ愛は 永久(とわ)に美しきもの
     ディアナは汝らを祝せられん
              ――ディアナの讃歌





     第三楽章 太陽と月の婚礼




 サライとファイラの結婚式が行われるディアナの月、金の十九日までの日々は、滴り落ちる黄金のしずくのようにきらめきながら過ぎていった。
 そして、その日がやってきた。
 早朝からレンティア小宮殿は慌ただしい雰囲気に包まれ、じっとしている人を見つけることもできないほど、皆が忙しく働いていた。今日は午前のアティアの刻から午前いっぱい、ファイファのディアナ神殿で婚礼の儀式が執り行われる。結婚式の後ファイファからこのレンティアまで成婚パレードが行われ、そののちに昼餐会、午後からの披露宴は夜まで続くという予定であった。
 その宴の支度で、宮殿内の人々は数日前から忙しく、前日の夜からはずっと働きづめなのであった。新郎と新婦はディアナ神殿で落ち合うことになっており、この日の朝早く、サライはレンティアから、ファイラはダネイン候の屋敷から、それぞれファイファに向かった。
 ヤナス神殿で代々の皇帝の即位式が行われる事でも有名なファイファ神殿群であるが、今日の主役はむろん、ディアナ神殿である。
 朝から神殿前の広場には列席者たちの馬車が連なり、名だたる文官、武官、貴族たちが続々と式場に入ってゆく。クラインの貴族だけでなく、メビウスからヴェンド公にゆかりのある貴族たちも訪れており、またカーティス公の結婚式というので、国交のある幾つかの国からも祝賀使節が来ている。
 ただ、この一旬と少し前、海軍大元帥サラキュール・ド・ラ・アルマンドとカミラ伯令嬢イルゼビル・ラ・ヴァリーニの結婚式という、これもまた国際レベルになる慶事が挙行されていた。そのため、祝賀使節団の幾つかはその式に出席後、国許に戻らずクラインに直行という強行軍でやってきたそうであった。
 一般市民は式の様子を見ることがかなわないが、成婚後のパレードは市内の大通りをぐるりと回るコースを取るので、予め発表されたコース上にはまだ三時間以上も前だというのに市民たちがつめかけ始めていた。
 花嫁と花婿の控え室は式場となる聖堂を挟んで反対側にあるので、本当に式のその時まで二人が顔を合わせることはない。控え室で二人は巫女や神官たちの手によって清めの儀式を受けた。それからファイラは婚礼衣装に着替え、侍女たちに髪を結い上げて化粧を施してもらい、花嫁姿を完成させる。
 一方のサライは、着替えの後はただ待つだけの時間となっていた。
「サライ殿」
 控え室で一人、瞑想するように目を閉じていたサライは、その声に目を開けて振り返った。そして声をかけた人物に微笑みかけた。
「アリオン殿」
 ダネイン候アリオンは、サライの姿を眺めて目を細めた。幼い頃から見守ってきたサライの晴れの日に、彼もまた喜びを隠せないようであった。家族のいないサライのために、今日は彼が親代わりに出席するのだ。
 最初にカザレス城に引き取ったとき、たった十歳の少年であったサライが、いまやもう結婚を迎える年齢に成長したのだということにアリオンは時の流れを感じ、また深い感慨を抱いていた。
 あの時家族も何もかも失って傷つき、殻に閉じこもったようだった少年が、今は目の前で輝くような栄誉と幸せの中にいる。彼の二人の息子はそれぞれ、すでに成人して結婚していたのだが、もう一人の息子を見るような思いで、アリオンはしみじみとサライを見つめた。
「本日は一日、よろしくお願いいたします」
 サライはふわりと金色の頭を下げ、一礼した。白一色の礼装だが、上着の裾には紺色のサテンのテープと絹糸で繊細な模様が描かれていて、折り返した袖口と襟には金糸で刺繍が施されている。それだけが衣装の中での唯一の色彩となっていた。普段はカーティス城に登城する時くらいしか身につけない銀と紫水晶の額環も、今日は誇らしげに額にきらめきと彩りを添えていた。
「今日の主役は貴殿たちで、私にすることはほとんど無いが――こちらこそよろしく。先ほど、ファイラ姫にお会いしてきたよ」
「どんなご様子でしたか」
「まだ髪結いの途中だったが、しかし実に美しかったよ。貴殿がサライアなら、ともに輝くリナイスといった風情だ。太陽と月がともにあっては、眩しすぎて人の目を焼いてしまうかもしれんな」
「ご冗談を、アリオン殿」
 サライはかすかに笑った。一緒に微笑んでいたが、ふとおもてを引き締めて、アリオンがその顔を覗きこむ。
「緊張しておいでのようだな」
「それは、まあ……」
 サライは彼らしくもなく照れたように言葉を濁した。そんな彼の肩を一つ叩いて、アリオンは笑った。
「結婚式の主役は花嫁だ。花婿は添え物のようなものだよ。そう考えて、あまり緊張せずに、気楽に構えていれば良い」
「そういうものなのでしょうか」
 サライは首を傾げた。アリオンはもっともらしく頷いてみせた。
「私の経験では、そのような印象だったよ。こちらは一世一代の儀式、失敗があってはと思って緊張しているのに、人々の印象に残るのは花嫁のドレスだけ、といったところでね。まあむろん、どちらにとっても人生最大の儀式の一つであることに変わりはないし、結婚は神聖なものだが」
 いくらか気がほぐれたように、サライは笑った。
「では、私はそろそろ席に戻るよ。また後ほど会おう、サライ殿」
「はい」
 そして、式の始まりを告げる鐘が鳴った。
 聖堂の鐘楼から流れるのは大小合わせ百近い鐘を駆使しての、貴族――それもかなり高位の貴族――の結婚式の際にのみ演奏される曲である。低音、高音が入り混じって、一つの調べを作り出している。
 聖堂は白大理石と黄金色の、優美をきわめた建築であった。祭壇の上部に広々と空間を占めているドームは、柱や梁を一切使わずに自重のみで支えられるように設計されている。そこには金のタイルで縁取られた天井画が描かれていて、ディアナにまつわる神話のいくつかの場面が展開されていた。
 聖堂の両翼は柱で区切られた区画の一つずつに小祭壇が設けられており、ディアナに仕えるとされる精霊や、古代の聖人たちを祀る空間となっていた。そこにはたいてい、三翼一対の祭壇画が置かれていて、今日は晴れの日であったので、全てのパネルが開かれて中の聖人たちの絵が見えるようになっていた。
 柱や壁の所々にはディアナの象徴である薔薇をモチーフとした彫刻が浮き彫りや透かし彫りにされ、すばらしく趣のある陰影を作り出していた。窓も色ガラスで、繊細な薔薇模様のステンドグラスがはめ込まれていて、今の時間は美しい色彩の光の帯が人々の上に降り注いでいる。
 祭壇の周りには、たくさんの薔薇が飾られていた。早咲きのものもあるだろうが、今の季節ではほとんどが温室で栽培されたものだろう。それでも、祭壇近くの席まで甘い薔薇の香気が漂ってくる。
 祭壇に向かって左側の最前列には花嫁の関係者、母のセーダ夫人、兄のリカルドとその妻をはじめとする親族が座っている。右側には同様に花婿の関係者が座っていたが、天涯孤独のサライである。後見人のダネイン候アリオンが、妻のアマラスヴィントと共に座っているほかには、彼の親類と呼べる人間はいなかった。
 が、それも列席者のきらびやかさの前では瑣末なことであった。皇帝レウカディアの名代としてミュロン公爵がフリスティナ皇女とともにその次に席を占め、その娘婿で近衛長官のハルヴェ、妻のヤスミナ王女、娘のキアラ姫、ヤスミナの妹ツィフィラ王女夫妻といった皇家の人々が並んでいる。十二選帝侯、ローレイン伯一家など、他国でもそれと知られた有力貴族ばかりがそこに並んでいるのは壮観であった。
 聖堂の扉から祭壇までは真っ直ぐに中央通路が延び、その両側に長椅子が並んでいる。通路を挟んだ椅子の縁には、ディアナの色である赤と婚姻の神聖性を表わす白の二色のリボンが、薔薇の花飾りとともに飾り付けられていた。
 祭壇左脇の、薔薇の紋章が彫り込まれた扉が開かれ、神殿長のアントニア師が祭具を手にした二人の助祭を従えて現れた。下座から二段ほど高くなった祭壇の後ろに、三人は席を占めた。続いて、こちらは右の扉から二人の巫女に導かれてサライが入場する。人々は拍手で迎えた。
 彼の入場を待って、別の鐘の音が流れた。今度は単音の旋律である。それが花嫁の入場する合図であった。
 父のヘルリに手を引かれ、ファイラが聖堂に入ってきた。祭壇横の中二階に作られた演奏台では、楽隊が音楽を奏で、聖歌隊がそれに合わせて祝歌を歌い始めた。荘厳な弦楽の調べに、澄んだソプラノと重厚なテノールの歌が交じり合って流れていく。
 彼女が入ってきたとき、目にした人々は光の化身が入ってきたかと錯覚した。
 ファイラのウエディングドレスは、遠目からでも人々に感嘆のため息をつかせるものであった。入口から祭壇の前まで敷き詰められた真紅の絨毯の上を、彼女は一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと近づいてくる。
 薔薇を敷き詰めたような赤の上に、ドレスの白が淡く光って浮き上がるようだった。白一色でありながら、それは大変華やかなものであった。白だけでこれほどの彩りを見せることができるのかと、人々が驚いたほどである。それは単なる白ではなく、あらゆる色と光をそこに内包した白であった。
 下地には光沢をおさえた繻子を使い、スカート部分はさらに薔薇を刺繍したタフタを重ね、刺繍の上に真珠とスパンコールを縫い付けてある。裾に近い部分の真珠は淡い薔薇色真珠であったが、胸元からウエストにかけて使われた真珠は南方でのみ採取される金色真珠であった。
 真珠は至るところにふんだんに使われていた。内陸のクラインでありながらこれほど多くの真珠を集めることができたのも、ヴェンド公とカーティス公の財力の豊かさを示すものであった。
 ドレスは喉元までぴったりとした立て襟に仕立てられ、チョーカーのように銀糸と純白の真珠で豪華な刺繍が施されている。首筋から胸元までは薄く透けるエトルリアの絹レースをはめ込んであったので、刺繍はまるで首飾りのように見えた。しかし首飾りは別にあり、この刺繍の少し下にくるように、すばらしく透明で青いサファイアと、その周りにきわめて細かいダイヤモンドをちりばめた金のネックレスがきらめいていた。
 中指で固定する、手の甲まで覆う袖も胸元と同じレースでできており、手首には緑柱石をアクセントに縫いこんだ金糸刺繍が施されている。花と蔓草模様の刺繍は手首から肩口まで続き、所々に緑柱石や紅玉髄、ラピスラズリのビーズが縫いこまれていた。
 両の耳には細い金線を編んだシャンデリア型のイヤリングが揺れている。イヤリングにも真珠が用いられ、歩くたびにゆらゆらと雫のように垂らされた真珠が輝いた。数々の装飾品にも増して輝く銀髪は、下ろしてなびかせていればそれ自体が装飾のように映えたことだっただろうが、手の込んだ形に結い上げられていた。
 銀とダイヤモンドの髪留めを襟足の近くに飾り、ねじって留めた髪の房には紫水晶を縫いつけた金糸のリボンが巻かれている。さらに金色の髪粉をふりかけてあったので、光が当たるたびに金銀のきらめきが人々の目を奪った。
 きわめて繊細な琥珀織りのレースで作られたヴェールは床まで届く長さで、引きずらないように侍女が二人でその裾を捧げ持った。ヴェールは落ちないように月長石をトップにあしらったピンで所々が留められ、頭にぴったりと嵌める形の額飾りで押さえてあった。額飾りは額にあたる部分だけが金鎖のループになっており、中央にアメジストが垂れるようになっていた。
 白金のティアラは孔雀の羽を模した形で、五枚の羽は華やかに真珠とダイヤモンドで飾られている。
 しかしどの装飾品、宝石よりも美しいであろうその花のかんばせは、まだ白く霞むヴェールの奥に覆い隠されている。その霞をはらう権利を持ち、最初に花嫁の顔を見ることができるのは、夫となる男だけなのだ。
 祭壇へと続く赤い絨毯の道のその先に、その人が待っていた。
 ファイラと同じように白い婚礼の衣装を身にまとい、ヴェールに透けて見えるせいで、まるでここからは虹色に輝く美しい幻のように見える。一歩一歩近づいていくにつれて、晴れやかで、少しはにかむようなその笑顔が見えてきた。
 祭壇に飾られた金の祭具や、司祭たちの法衣に縫いこまれた宝石のきらめき。ファイラの目には、それらの光よりも、これから夫となるその人の姿の方がずっと美しく輝いて見えた。祭壇上の丸天井から降り注ぐ白っぽい日の光を浴びて、まるで彼自身が光を放つようだ。
 とうとう祭壇の前までやってきた。ヘルリが、ずっと引いていたファイラの手を伸ばさせ、同じように差し延べたサライの手に託した。この時花嫁は父の保護下から離れ、夫の家に属する者となる。
 無言のままであったけれども、ヘルリの目には感涙にも似たきらめきが宿る。頷きかけたヘルリに、サライは応えて小さく頭を下げた。そしてファイラに目を向けた。大きく感情を表わすことはなかったが、その目が優しく微笑みかける。
 この人の妻となるために、自分は生まれてきたのだ――。
 ファイラは心からそう思い、それを信じた。


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