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 一通りの挨拶が済み、フェンドリックの一家とアトは一階の店スペースを抜けて二階の居住スペースに上がった。市場の通りに面したこの長屋は、地下室が倉庫、一階は店舗、二階と三階が住居という作りになっている。一軒ずつが長方形をした家の裏には小さな庭があって、店を通らなくても庭に下りられるようにベランダと螺旋階段がついていた。
 ヘルシリアと、フレデガリウスの妻のラヴィニアは庭からいくらか香草を摘んできて、それでお茶を淹れてくれた。アトも手伝おうとしたのだが、今日はお客さんなのだからと言われて、何となく困った顔でフェンドリックの隣に座っていた。
「やっとリックが身をかためてくれるんだ、これほど嬉しいことはないね」
 ヘルシリアは終始にこにことしていた。手早くお茶を注ぎ分けて、カップが手から手へと回される。
「何回言やあ気が済むんだよ、母さん」
 苦い顔をしたフェンドリックの言葉には耳を貸さず、ヘルシリアはアトに向かってため息をついてみせた。
「まったく、この子ったら、二十五にもなろうってのに恋人の一人もいやしないし、一生結婚できないままじゃないかと心配してたんだよ。店はフレディが継いでくれたからいいものの、リックは男ばっかりの軍隊なんぞに入っちまって、死ぬまで独り身でいるんじゃないかってさ」
「まあ、そんな」
 アトは苦笑のような笑顔を浮かべた。
「それが、あんたみたいに気立ての良さそうな、しかもこんな綺麗な娘さんと突然結婚するだなんて言うんだからね。最初は信じられなかったんだよ。でも、夢でも幻でもないんだねえ」
「お義母さんたら、そんなに褒めていただけるような者じゃありませんわ、私なんて」
 しみじみと言うヘルシリアに、アトは本格的に困りだして、ついでに照れた事もあって頬を赤く染めた。
 そのまま彼らは一家全員で昼食を取り、夕食もどうかと勧めるのを、まだ寄るところがあるからと断って夕刻にはフェンドリックの実家を後にした。その時にはヘルシリアが率先して、フレデガリウスの一歳になる息子までつれて通りまで見送ってくれたので、アトは少々気恥ずかしい思いをした。フェンドリックも同じような心境だったらしく、最初の角を曲がるまで憮然とした表情で馬車を御していた。
「悪いな、あんなおふくろで。気を悪くしないでくれよ」
 アトはゆっくりと首を振った。
「いいえ。とてもいいお母さんじゃない。明るくて元気で、とても素敵だわ。……私のお母さんも、少し感じは違うけどとても温かい人だった。私、リックのお母さんもお父さんも、それに弟さんの家族も、みんな好きになったわ」
「そうかい。そりゃ良かった」
 安心したようにフェンドリックは微笑んだ。アトは少し寂しげな笑みを返した。
「それに、新しい家族ができるんだもの。喜ばなくちゃ損でしょ」
 その言葉で、アトが天涯孤独の身であったと、フェンドリックは今更ながら思い知らされたような気がした。
「喜んでもらえるような親でよかった」
 深刻になりすぎるのもよくないと考えて、フェンドリックはことさら明るく言ってみせた。アトも自分の言葉に引きずられた様子はなく、小さく笑っただけだった。
 二人が向かったのはレンティア小宮殿ではなく、そこからさほど離れてはいない住宅地であった。その中の一軒の集合住宅の後ろには広場があり、そこにフェンドリックは馬車を停めた。
 十六でカーティスに出てきてから、アトはずっと王宮やレンティア小宮殿の宿舎に寝泊りしていて、市内で自分だけの家に住んだことがなかった。フェンドリックも宮殿の宿舎と実家を行き来するような生活をしていた。
 だが、所帯を持つとなれば今までと同じように宿舎で暮らすには色々と面倒があり、結婚を機に家を借りる事にしたのだった。これには、誰にも邪魔されずに二人だけの時間を作りたい、というフェンドリックの希望も大いにあった。
「ここの三階だよ。ちょっと上り下りが面倒だが、まあ、宮殿だって似たようなものだからな」
「そうね。それに、荷物は滑車で運べるのでしょう?」
「ああ。窓から入らないようなものでなきゃな。しかし家具は材料だけ運び込んでその場で作っちまえば運び賃も要らないし、安上がりかな」
 共同の階段を上がりながら、フェンドリックは楽しげに言った。
「あらリック、あなたそんな事できるの?」
「馬鹿にするなよ。そりゃまあ、職人仕事とまではいかないが、手の込んだものでなきゃ、テーブルとか棚くらいは作れるさ」
 フェンドリックは胸を張った。二人の新居となる家は、台所を除いたら三部屋しかなかったが、そこを見て回りながら、どんな家具を置きたいかとか、何に使う部屋にするかといった、まだ見ぬ新生活の計画を語り合うのは楽しかった。
 二人の語らいを破ったのは、夕方のリナイスの刻を告げる神殿の鐘だった。夜までにはレンティアに戻るつもりでいたので、二人は潮時と考えて新居になる予定の家を出ることにした。


 アトとフェンドリックの結婚式はそれから一旬と二日後のネプティアの三旬、黒の二十一日であった。祝い事ではあるが主人の慶事を差し置いて騒ぎすぎるのも良くないと考えて、式自体はフェンドリックの家族と親戚、友人たちが列席して、彼の実家近くの十二神殿でささやかに行われた。
 王侯貴族の結婚ならば何日も儀式が続いたり、パレードを行ったりして華やかに、かつ長々と執り行われるものであるが、庶民のそれは婚姻誓約書に署名を行い、ディアナの司祭の前で婚姻を誓ってその祝福を受けるだけ、といういたって簡単なものである。
 とはいってもたいていの人にとって結婚は一生に一度にして最大のセレモニーであるので、新婦も新郎も緊張した面持ちで祭壇の前に立ったのであった。
 フェンドリックはカーティス騎士団団長の正装に凛々しく身を固め、アトは純白のドレスで装っていた。それはサライとファイラからの贈り物の一つで、軽やかな絹で仕立てられ、蔓草と薔薇の模様の透かしが入れてある。上は首筋までぴったりとしていたがスカートは後ろに長々と引き裾を引き、ボリュームを出してあった。
 立て襟になった首元は真珠とエメラルドをあしらった金鎖の飾りで留めつけられ、その飾りを首からウエストの切り替え部分まで並べたので、まるで軍服のように見えなくもなかった。当然、フェンドリックが騎士団の礼装を身につけることを考慮に入れてのデザインである。
 左の胸に飾られた白薔薇のコサージュは、霞草を模して先端に雫のような真珠をつけた銀線と一緒に束ねられて、ブーケのようにしてある。青みがかった黒髪は美しく結い上げて、そこにもヴェールを押さえるために、銀と真珠の髪飾りが留めつけられていた。
 その美しさと、彼女がとうとうフェンドリックの妻になってしまうということに、列席者の数人が心中で血の涙を流していたことには、幸せに輝くような笑みを浮かべるアトにはわからなかったし、フェンドリックはもちろん無視した。
 つつがなく式を終えると、新郎新婦は二人乗りの馬車に乗り込み、列席者もそれぞれの馬車や馬でレンティア小宮殿に向かった。そこで、披露宴を兼ねた祝賀会を行うのだ。立場上式に出られなかったサライに花嫁衣裳を見せたい、というアトの希望があったので、着替えはせずにそのまま会場となる広間に入ったのだった。
 レンティア小宮殿では、主にサロンなどが開かれる小さめの広間が今日の晴れの宴の舞台として選ばれ、すでに準備も整って、主役たちを待っていた。待ち構えていたカーティス騎士団の面々と宮殿の使用人たちの拍手に迎えられて、アトはフェンドリックに手を引かれて広間に入った。
 二人に最初に声をかけたのはこのパーティーの主催者であり、二人の主人でもあるサライだった。
「おめでとうアト、フェンドリック。君たちの上にディアナの恵みがあらんことを」
「ありがとうございます、サライ様」
 サライはかしこまって礼をするフェンドリックに軽く頷きかけ、アトの晴れやかな花嫁姿に嬉しげに目を細めた。アトはサライにとって単なる従者ではなく、似たような境遇と力を持つ仲間であり、妹のようなものだった。そのアトの幸せを、サライは心から祝福する気持ちで見守っていた。
「とても綺麗だよ、アト」
「まあ、そんな。ファイラ様に失礼ですわ」
 アトが頬を薔薇色に染めてうつむくと、傍らのファイラは笑って首を振った。
「いいえ、サライの仰る事は本当よ。とてもきれいで、可愛らしいわ。私も早く、純白の花嫁衣装を着たいわね」
「私も、ファイラ様の花嫁姿を心待ちにしております。私などとは比べられないくらい、それはお綺麗なことと思いますわ。月の女神のようにお美しいのですもの」
 ファイラを見つめてアトは言った。互いに褒めあい、謙遜しあう二人の女性の隣で、サライは苦笑しながら告げた。
「ともあれ今日の主役は君とフェンドリックだ。他の人からの祝福も受けなければね。さあ、宴を始めるとしよう。楽士、音楽を」
 彼の合図で、そこここで一斉に乾杯の声が上がった。貴族の館や宮殿といったものに初めて足を踏み入れたティソとヘルシリア夫妻は広間の豪華さや雰囲気に圧倒されて、ともすれば口が開きがちであった。それはフェンドリックの弟、フレデガリウスとラヴィニア夫妻も同様であった。
 このような場に出るのは一生に一度、これが最初で最後のことであろうから、彼らはこの日のために新調した晴れ着で精一杯めかしこみ、興奮気味でぎこちないダンスを踊っていた。かれらの衣装が他の人々と比べたらやはり見劣りがしたのは事実であったが、誰もそのことにはふれなかったし、かれらも全く気にしていなかった。
 フェンドリックはお祝いと称してかつての恋敵たちに小突きまわされ、手荒い祝福を受けていた。アトはアトで気の済むまでフェンドリックをつつき倒した団員たちから「思い出作りに」とダンスを申し込まれ、ほとんど一緒にいられなかった。
 披露宴が終わり、アトとフェンドリックが二人の新居に戻ったのは、そろそろ日付も替わろうかという時刻だった。部屋にはまだ家具は少なかったけれども、この数日でフェンドリックが苦労して作ったテーブルと椅子が食堂兼居間となる一室に据えつけられ、アトが嫁入り道具として持ってきた箪笥が置かれていた。続く奥の部屋は寝室と決められて、そこには長持とベッド、鏡台が置かれていた。
「何だか、不思議な気分だわ。今日からここが私たちの家になるのよね」
「これからずっと、な」
 フェンドリックはアトの肩を抱いた。
 全ての明かりを消してしまうと、部屋に入るのは街灯のおぼろな光と、月明かりだけとなった。窓辺で空を見上げながら、アトはふと呟くように尋ねた。
「ねえリック、あなたには判るかしら? 世界のあらゆるものすべてに自分が満ちているという気持ちが」
 アトは神秘的なたそがれの夜空の色をした瞳を瞬かせた。
「こう言うと、変かもしれないわね。でもそうなの。力が私を満たすとき、私は一人の、ここにいるアトであるのと同時に、遠い、私自身は見も知らぬ土地の誰か、空を翔ける鳥や地を駆ける獣、或いはどこかをそよぐ風やせせらぐ川、世界を満たす光でもあるの。そんな感覚になることはめったにないことだけれど、そんな時私は思うわ。心からこの世界を愛しいと」
「むろん君は、余人にはない特別な力を持っているからね」
 悲しげにフェンドリックは呟いた。アトは驚いて夫の顔を覗きこんだ。
「ああ、リック、フェンドリック。私は特別でも何でもない。夫を愛し、よき妻になりたいと望むただの平凡な女に過ぎないわ。ただどういうわけか、神の力が私をとらえる時がある。それだけよ。特別だなんて、私を異質なものにしないで」
「ごめん」
 フェンドリックは素直に言い、アトを引き寄せてしっかりと抱きしめた。
「アトを異質だと言ってるんじゃないんだ。こんな美人でしっかり者を奥さんにできるだけでも幸せだというのに、不思議な力まで持ってるなんて、俺には過ぎた幸せだって思ってたんだ」
「だから、そんなことは私にとって重大じゃないのよ」
 フェンドリックの胸に頬を寄せてアトは言った。
「予言することも、見えないものが見えてしまうことも、べつだん幸せでもなければ素晴らしいことでもないわ。リック、わたし、時々ね、夜の静かな時なんかに、自分がひどく透き通ってしまって、遠い何処かの誰かの臨終の魂に触れてしまうことがあるの。恐ろしく強い心話のようなものなのかもしれない。その老人が幼いときに一度だけ、祭で口にした氷菓子の味や、結婚した日の喜び、子を得たときの喜び、そしていろいろな悲しみ、死にゆこうとする安らぎ――その人の一生の上に起こった全ての感情やできごとが一瞬のうちに、私の心を駆け抜けて行くの。かれの魂が消えていく時、私は涙を流すわ。その時、私である世界、世界である私の一部もまた死に絶えてしまうから。そんな気持ちは、あまり味わいたいものじゃないわ」
「かわいそうに――! 君はまだ十八歳の若々しいつぼみでしかないのに、その魂は千年を生きた巫女アルネイズルのように年を経てしまっているんだな。でも、俺がアトといる時に感じている喜びとか、愛してるって気持ちもアトにそのまま伝わってくれるんだったら、少なくとも、そのことに関してはあながち悪いだけのことでもないんじゃないかな」
「そう――そうね」
 アトは頷いた。
「さっきの話は、本当に心が静かで澄んだときにしかないから、今は無理よ。でもそんな力なんか無くたって、あなたの気持ちは判るわ。それが愛してるってことじゃない?」
「うまくまとめたな」
 フェンドリックは低く笑った。それから彼は、アトの脇の下と膝の裏に腕を入れて、ひょいと彼女を抱き上げた。
「じゃ、天上と神々の話は終わりだ。地上の人間には地上でしなけりゃならないことがあるんだから」
 一瞬何のことか判らなかったアトは、フェンドリックが頬に口づけしてくるに至ってやっと事の次第を理解した。とたんに彼女は顔を真っ赤にした。



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