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     わたしはあなたのもの ララ お金はないけど
     わたしはあなたのもの ララ 羊はいないけど
     受け取って 誰にも捧げたことのない この愛を
     愛して 捨てられたら 死ぬわ 哀しくて
                   ――ヴェンド地方の恋歌




     第二楽章 輝ける日々




 コアロが来客を告げるために執務室の扉を叩いた時、サライはいつものように朝からずっと机の前にかじりついていた。取次ぎも面倒と、彼の後ろから入ってきた客は、呆れたように両手を腰に当てた。
「せっかくのお休みですのに、あなたときたら、こんな時でもお仕事をなさっておいでなのね」
「もちろん、君と過ごす時間まで仕事でつぶそうとは思わないよ、ファイラ」
 午前の柔らかな日差しに銀色の髪を輝かせる婚約者を、サライは眩しげに見つめて立ち上がった。言葉どおりに、書類を書いていた手を休め、ペンをペン立てに戻してインク壺の蓋を閉める。
「そう言っていただけるのは嬉しいけれど、わたくしを仕事をさぼる口実にされては困りますわよ」
「それは、君次第だよ」
 サライが差し出した腕に、ファイラはしとやかに手をかけた。
 カーティス公の婚約者がダネイン候のもとに滞在を始めてから、すでに一ヶ月が経とうとしていた。二人の結婚式は婚姻の守護者ディアナの月の十九日と定められ、すでにそのための準備も佳境に入っていた。
「それで、今日は何の予定だった?」
 ファイラはちょっと唇を尖らせた。
「まあサライ、困った方。あなたは本当に、仕事以外のことはまるでお覚えにならないのね。ドレスの仮縫いのために、リディア・ユリアが来るのよ。その時間までもう一点鐘もありませんわ」
「そうだったかな。ああ、そうだね」
 サライは顔をちょっと仰向けて、顎に指を当てた。
「こんな調子では、結婚してからが思いやられるわ」
 冗談めいた口調でファイラは呆れてみせた。サライは穏やかに笑った。
「それも君次第だよ、ファイラ。世話を焼いてくれる優しい奥さんがいるなら、覚えなくてもやっていけるからね」
「また、そうやってわたくしのせいになさろうとする。甘えないでくださいな」
 つんとファイラはそっぽを向いた。季節はまだ初春と言うにも早い頃であったが、レンティア小宮殿はすでに春の盛りのような華やぎに満ちていた。
 それは、そこで働く者たちが敬愛する主人が間もなく結婚するという喜びと、頻繁に訪れるその婚約者の若さや美しさ、屈託の無い明るさが、このところ沈みがちだった彼らの気分を大いに盛り上げたからであった。
 それに、美しく明るい婚約者の存在によって、閉じこもりがちでもあったサライが以前のような明るさを取り戻した事も、彼らの気分を浮き立たせる要因の一つであった。そのようなわけで、ファイラはすでに全ての使用人たちから、レンティア小宮殿の女主人としての敬愛と尊敬を勝ち得ていた。
 ファイラにしても、嫁ぎ先となる見知らぬ街でこれからやっていけるのかという不安を胸中に抱いてカーティスにやってきたのであったけれども、婚約者であるサライが彼女を愛してくれている事は言うに及ばず、その宮殿の人々も彼女を女主人として歓迎してくれている事にすっかり安心していた。
 彼女の出身地であるヴェンドは広大な領地を誇ってはいたが、メビウスの中でもそれほど開けている、という地方ではなかったし、メビウス自体がオルテア以外に文化的であると公言できるほどの都市というものがほとんど存在しない国柄である。
 そんな所から文化と洗練の都であるカーティスにやってきて、田舎者と見られはしないか、野暮ったく見えはしないかと、そのようなことも気にかけていたのだが、こちらも無用の心配であった。
 カーティスの宮廷人たちは、これは彼女に出会った全ての人々がそうであったが、ファイラの美しさにすっかり魅せられており、サライと彼女の二人を太陽と月のように眩しく見つめ、感嘆するばかりであった。ファイラのドレスが少々カーティスの流行と違っていたところで、彼女の美貌がそれで損なわれるわけではなく、せいぜいが意地悪な貴婦人たちがあら捜しをして、影でこっそりとそれについて論評する程度にとどまっていた。面と向かって言う勇気のあるものなどいなかったのである。
 サライは宮廷の中でその美貌と張り合おうとあえてする者などいない、別格の存在として受け止められており、それがサライとファイラというカップルに形を変えただけのことであった。
 そのように注目されたり、人々の賞賛の的になることは、ファイラにとって初めてのことではなかったが、しかしこれほど多くの人々に、というのには慣れていなかったので、彼女は戸惑いつつもそれを楽しんでいた。
 彼女自身がその美貌やドレス、装身具を称賛されるのも快かったが、自分が間もなく結婚する男性が、あまたの貴婦人たちの憧れの的であり、恐らくは宮廷中の誰よりも美しい、という事実もまた彼女の自尊心を心地よくくすぐったのだった。
 別室に分かれたサライとファイラは、仮縫いの済んだ衣装の寸法合わせやドレープの調整などをそれぞれ行った。結婚式の衣装や小物、装身具の全ては伝統的デザインをよく踏まえている宮廷御用達のデザイナー、リディア・ユリアに一任してあるが、それに続くパーティーの衣装は、これは斬新なデザインで人気が出ているアンミアヌスにも一着依頼していた。
 サライの方の寸法合わせはファイラよりも早く済んだ。結婚式の主役は花嫁であり、ドレスにはかなりの手間隙と金がかかるが、男性の礼装に関しては決まった形式というものがあって、それから大きく外れる事はあまりないのだ。
 もう一つの理由としては、以前には計った時と出来上がった時では胴回りがずいぶん細くなってしまって、結局作り直す羽目に陥っては仕立て屋を嘆かせていたサライだったが、最近になってやっと体重の減少も治まったので、そういった手間が一切なくなったということがある。
 それもひとえにファイラのおかげであった。クラインの貴婦人は自分で料理など一切しないし、できもしないものだが、メビウスの女性はどんなに身分高いものであっても一通り料理のできることが花嫁となるための必須条件である。
 彼女はその流儀で持参してきた調理道具をレンティアの台所に持ち込んで料理を作り、サライに食べてもらうのを無上の楽しみにしていた。もともと食が細い上に、摂政に就任して以来、食欲がないと丸一日でも何も食べない事があったサライだが、それらの手料理のおかげでその悪習はだいぶ改善されていた。
 最近はファイラと二人で食事をする事が多かったが、ファイラは消化に良さそうな料理を作ったり、まめまめしく手ずから料理を取り分けたりと、まるで雛鳥に餌を与える親鳥のようであった。自らの手で招いたこととはいえ、幼いうちに母親と死に別れたサライにとって、そうして面倒を見て、甘やかしてくれる女性の存在は実のところ最も必要なものであったのかもしれない。
 実際にはファイラの方がサライよりも三つ年下であったが、そういったところだけ見ていると、まるでファイラの方がずっと年上のようであった。
 サライが隣室でファイラを待っていると、二つの足音が入ってきた。一つはむろんファイラであり、もう一つは、これもサライの聞き慣れた足音の主だった。
「この頃二人とも、仲がいいんだね」
 ファイラの少し後ろから続いて入ってきたのは、アトだった。こちらもフェンドリックの求婚を受け入れて、近々結婚が決まっている身である。二人の主人であるサライの結婚式に先立ち、このネプティアの月に結婚式を挙げる予定であった。フェンドリックとアトは辞退しようとしたのだが、サライとカーティス騎士団の面々の悪乗りもあって、レンティア宮殿で披露宴を開く事にしている。
「アトには、色々とあなたの事を教えてもらっていますもの」
 澄ましてファイラが答えると、サライは笑ってアトに言った。
「頼むから、私の悪癖なんかを告げ口するのはやめてくれよ」
「ええ、そのようなことは申し上げておりませんよ。それはどのみちお判りになってしまうことでしょうから」
 アトも笑みを浮かべていた。ファイラとアトは、年齢が一つ違うだけということもあって、すぐに打ち解けてしまった。同じく男性の――この場合サライの――世話を焼くことに使命感や生き甲斐を見出すタイプであるという点においても、二人の女性は気があったのである。
「そんなに知られてはお困りになる悪癖などありますの?」
 ファイラはからかうような笑みとともに言った。サライは肩をすくめた。
「夜更かしと小食が悪癖と言えるのならね」
「大したことはないとおっしゃりたいのでしょうけれど、健康を損なうという点では立派に悪癖ですわ。それはぜひとも直していただかなければ」
 ファイラは大げさに深刻ぶった顔を作ってみせた。サライは困ったように微笑んだだけだった。
「ところでアト、今日はどこかに行くのかい?」
 今日の彼女は騎士団の制服ではなく、薄い海老茶色のドレスに身を包んでいた。髪は簡単に結い、短めのヴェールがついた帽子を被っている。人妻になる女性らしく落ち着いた服装をしていても十八歳の若々しさは抑えきれるものではなく、開き始めた薔薇の蕾のような初々しさを感じさせた。
 アトははにかんで帽子のヴェールを引っ張った。
「これからフェンドリックの実家に挨拶に行くんです」
「そうか。彼のご両親に会うのは初めて?」
「ええ。私と結婚する事はフェンドリックが知らせましたけれど、実際にお会いするのは今日が初めてです。もうすぐ式ですから、もっと早くにお会いしておくべきだったと思うんですけど」
「急な話だったからね」
 サライはからかうような微笑みを浮かべた。
「では彼のご両親に、私からも宜しく言っていたと伝えてくれないか。一応私は君の後見人だからね。私も挨拶に行ってあげたいのはやまやまだけれど、それは立場上できないことだから、すまないね」
「はい」
 いくらサライがアトの後見人で、妹のように可愛がっているとしても、臣下は臣下である。特別扱いをすれば嫉妬や臣下同士のいざこざを生み出す原因になる。実を言えばフェンドリックとアトの披露宴というのも、実質はそうだが名目上はサライとファイラが主役として、通常開かれるパーティーの体裁をとることになっている。
 これはサライやカーティス騎士団の面々が言い出して計画したパーティーなので内輪の関係を心配するようなことではなかったかもしれないが、外聞と言うものがある。むろんそのことをどちらもよく分かっていたので、アトはこのサライの言葉を気にしたようでもなく頷いた。
「では、行ってまいります」
「ああ、気をつけてね」
「行ってらっしゃい、アト」
 サライとファイラに見送られて、アトはレンティア小宮殿の車寄せに向かった。今日はドレス姿なので乗馬はせず、馬車で行く事にしている。すでにフェンドリックが馬車の支度を済ませてそこで待っていた。
「お待たせ、リック」
「待ってはいないよ。じゃあ行こうか」
 フェンドリックの手を借りて、アトは天蓋のない一頭立ての馬車に乗り込んだ。二人乗りの馬車は御者がつくほどの大きさでもなかったので、フェンドリックが手綱をとった。軽く笞をあてると、馬車は車輪をカタコトと鳴らしながら進み始めた。
 フェンドリックの実家は、カーティス市内の市場でパン屋を営んでいた。そのことはすでに聞き知っていたが、実際に訪れて家族に会うのは初めてだった。アトは緊張した面持ちで馬車を降りた。
「ねえリック、私の格好、おかしくないかしら?」
「全然おかしくない。自慢の婚約者だ」
 照れもせずにフェンドリックがそんなことを言ったので、アトは照れて顔を伏せてしまった。商品を売る一番忙しい時間帯はもう過ぎていて、人通りは少なくなり、店先にも人影はなかった。フェンドリックの説明によれば、この時間は特別注文のパンを作ったり、売ったりしているのだという。
「ただいま」
「おや、フェンドリック、早かったね」
 パン屑に群がる小鳥を追い払うように店先を掃いていた中年の女性が顔を上げた。フェンドリックに面差しが良く似ている。フェンドリックが彼女をちょっと指すようにして言った。
「俺のお袋の、ヘルシリア」
「そちらがあんたの婚約者?」
「はじめまして。アトと申します」
 視線が向けられたので、アトは軽く一礼した。フェンドリックの母親はにっこりと笑ってアトの手を取った。
「名前はリックから聞いてるよ。ほんとに、可愛いお嬢さんだこと。リックにはもったいないくらいだわ」
 それを聞いて、フェンドリックは顔をしかめた。
「一言余計だよ」
「とりあえずお上がりよ」
 掃除を放り出して、ヘルシリアはぱたぱたと店に入っていった。フェンドリックとアトもそれに続いた。ヘルシリアは商店のおかみさんらしい大声で夫を呼んだ。
「ティソ、ティソ。あんた! フェンドリックが帰ってきたよ!」
「そんな大声でわめかなくても聞こえてるよ、ヘルシリア」
 手からエプロンから粉で真っ白にした男が二人、奥から出てきた。一人は中年だったのでフェンドリックの父親だとすぐに分かった。もう一人は二十代と見えたので、フェンドリックの兄弟のようだ。
「おお、あんたがアトさんか!」
 フェンドリックの父、ティソはにこにこ顔だった。傍らの青年もにこやかに挨拶した。
「俺はフレデガリウス。兄貴をよろしく」
 その言葉から、彼が弟なのだということが判った。が、握手を求めて差し出された手が小麦粉まみれだったので、一張羅を着てきたアトは瞬時ためらった。フェンドリックがすかさずアトの肩を引き寄せた。
「おいフレディ、そんな粉まみれの手で俺のアトに触るな」
「はいはいっと」
 フレデガリウスは肩をすくめた。



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