前へ  次へ

     夜と昼が分かれた初めの時、夜に光はなく、
     何も見ることはできなかった。
     昼の空には月と太陽が共にあり、眩しさに
     やはり何も見ることができなかった。そこで
     月は夜に移り、闇を照らすことにした。
     こうして光が分かれたので
     昼も夜も、見ることができるようになった。
               ――アルター州の民話
                「月と太陽の伝説」




     第一楽章 祝歌




 ユーリースの月、銀の二十日。
 この日の午後、メビウスからはるばるカーティス公に輿入れしてくるヴェンド公の息女一行が予定どおりカーティス市に到着するという連絡が入った。誰が漏らしたものか、その情報は一日前には市内に広まっており、人々は国賓でも迎えるのかというような調子で通りに花を撒いたり、色とりどりの紙の綱飾りを向かい合う家々の窓から窓に渡したりして飾りつけ、準備に余念がなかった。
 当日。行列を一目見ようという市民たちで、アルカンド通りは朝からごった返していた。徹夜で場所取りをしていたものすらいたほどである。人々は手に手にメビウスの国旗や結婚の祝福を示すディアナの紋章入りの小旗を持って盛んに振り、それはどちらも朱色と赤色であったので、まるで赤い波のさざめきのように見えた。
 群衆を整列させようと躍起になって声を張り上げている警備隊も、本心では自分も行列を見たくてたまらなかったが、押し寄せようとする群衆を背中で押し返すので精一杯であった。
 やがて、カーティス城の手前あたりに詰めかけた市民たちにも、行列の先頭が見えはじめた。わあっと歓声が上がる。それぞれの歓声が大きすぎて、全体として何を言っているのかもほとんど聞き取れないほどだった。
 騎馬の騎士たちが先頭を行き、両側にも行列を守るように槍を掲げた騎士が併走している。露払いの騎士の後ろには五台の馬車が並んでいた。馬から馬車まで全て白く、旅の埃すらついていない。
 馬車は金泥で装飾部分を塗られていて、真ん中の馬車は明らかに他の四台よりも豪華で立派なものだった。前後の四台は供回りの侍女たち、真ん中の一台にはファイラ姫と、ヴェンド公代理として妹の後見を務めるリカルド公子、ヴェンド公夫人が乗り込んでいるに違いなかった。
 それに続くのはたくましい北部産の馬が牽いている幌をかけた荷馬車である。荷馬車の列がいちばん長く、人々の想像をかきたてた。そこには嫁入り道具やドレス、その他姫が日常使っていた、これからも使う愛用の品が積まれているのだろう。
 旅のための食料や着替え、日用品などが積まれた荷馬車がそこに続き、しんがりにはまた警護のヴェンド騎士団が隊列を組んでおり、それでこの行列は終わりであった。成婚記念のパレードとまがうような人々の歓声の中、行列は進んでいく。
「少し外を見てごらん、ファイラ。まるでカーティス中の人々が我々を歓迎してくれているようだよ」
 向かいに座っていた兄の言葉に、ファイラは目を上げた。砂で磨いて白く曇らせ、繊細な草花の模様を陰刻したガラス窓の、わずかに透明な部分から、彼女はそっと外をうかがった。いきなり窓を開けるような、貴婦人にあるまじきはしたない行いなどはしない。兄の言うとおり、小旗を打ち振る人々の姿が沿道いっぱいに広がっている。
「まあ」
 彼女は感嘆のため息をついた。
「これはヴェンド公の息女ご一行を歓迎しているのか、それともおまえを未来のカーティス公夫人として歓迎しているのか、どちらだろうね?」
 リカルドは前についている小窓からもう一度外を見て、言った。その隣で、娘と同じようにしとやかに外を眺めていた母のセーダが振り返る。
「どちらにせよ、歓迎されていることは嬉しいわね。ねえファイラ、カーティス公のために人々がこれほど私たちを歓迎してくださるというのなら、あなたの旦那様になる方はさぞ人々に愛されているのでしょうね」
「ええ、きっとそうに違いないですわ、お母様」
 我が事のように頬を紅潮させて、ファイラは頷いた。
「この歓迎ぶりを見るかぎり、サライ殿はよほどの人物なのだろうな。しかし婚約でこれでは、いったい結婚式にはどれほどの騒ぎになるのだろうね? 国中をあげての騒ぎになるのではないのかな」
「そんな皮肉を言うものではないですよ、リカルドや」
「皮肉ではありませんよ、母上。心配が一つ消えて、一つできただけです」
 ファイラが首を傾げる。
「何を心配していらしたの、兄上?」
「大切な妹の夫となる男がどのような人物か判らなかったことさ。父上がお一人でサライ殿を気に入って、持ち込んだ縁談だったからね。だが――」
 リカルドは首を曲げて、外を見やった。
「心配は無用だったようで、安心したよ」
「あら、だったら新しい心配はなんですの?」
「サライ殿の妻がお前では、人々ががっかりしはしないかとね」
 窓枠に肘をかけて頬杖をつきながら、にやっと笑ってリカルドは言った。とたんにファイラは子供のように機嫌を損ねてしまった。頬を膨らませて唇をとがらせ、ぷいとそっぽを向く。
「まあ酷い、兄上ったら」
「ほら、そんなふうだから私が心配するんだよ。そんな顔で未来の花婿殿の前に出るんじゃないよ、ファイラ」
「ご心配なく、兄上。私、それほど分別のない子供じゃございませんから」
「二人とも、それくらいになさい。もうすぐカーティス城に着くようよ」
 馬車の中でこのような会話が繰り広げられている間に、行列はだんだんと速度を緩め、アルカンド大門の前、アルカンド広場の入口にすべるように停まった。だが五台のまばゆいほどの白馬に牽かれた六頭立ての馬車と、護衛の騎士数十騎は、そのままカーティス城内に入っていった。
 そこで今日、一行の皇帝への目通りが行われ、夜には歓迎のパーティーが開かれる予定であった。
 一行は到着してすぐに謁見の間に入ったのではなかった。リカルドはそれほどの手間をかける必要もなかったのだが、女性たちは馬車に揺られて崩れてしまっただろう髪を直し、化粧も直し、そして他国の君主に謁見するため、旅の身軽な衣装から正装に改めなければならなかった。
 そのような前準備があったので、謁見は彼らの到着から一テルほど経ってから行われた。すでに広間は黒山の人だかりとなっていた。そこに居並ぶのはカーティス公の未来の妻を出迎えるべく現れたクライン宮廷の重鎮、文官、武官の面々。ずっと下座の方には、このような大きな会見の時には参列を許される貴婦人たちが並んでいた。
「ヴェンド公代理、リカルド・ド・ラ・レステ卿一行のお成り――!」
 触れ係が朗々と告げると、広間はざわめいた。人垣から、サライが婚約者とその一行を迎えるために、玉座の少し手前に進み出てきた。今日の彼はいつものようにカーティス公の正装に身を包んでいたが、心なしか人々の目には、いつもよりももっと晴れやかに美しく見えた。
 彼の隣には、しばらくの間ファイラ姫がそのもとに滞在することになっているダネイン候アリオンが、サライの代父、後見人として並んでいた。
 扉が開かれると、特別に佩刀を許された護衛の騎士たちと、クラインの人々には物珍しい、ヴェンド地方の民族衣装というお仕着せを来た侍女、小姓十人ばかりが先触れとしてスカートをつまんだり、帽子を取って略式礼をしつつ広間に入ってきた。それと同時に広間の人々は一斉に拍手を始めた。
 先触れに続いて最初に入ってきたのは、ヴェンド公の息子、リカルドだった。彼の姿はクライン宮廷の人々にとって、お馴染みというほどではなかったが、それなりに知られていたので、あからさまな興味の目にはさらされなかった。
 リカルドは義弟となるサライより二つか三つ年上であるだけだったが、その若さですでに態度物腰の中に未来のヴェンド公としての威厳を備えており、レウカディアに向かってした一礼も優雅そのものであった。彼はやや白っぽい銀髪と、けむるような菫色の瞳を持った、なかなか衆に優れた美青年で、今夜開かれる舞踏会では若い貴婦人たちに騒がれそうだった。
 彼はちょっと珍しいデザインのヴェンドの民族衣装で正装していた。黒い羅紗地に美しい刺繍をほどこした袖なしの胴着の上から、肩章のようにして赤や深緑、紺などの色で格子模様に織られた幅狭の布を左肩から右腰にかけ、端をもう一度背中から左肩に持ってきて、ずり落ちないように大きめの金細工のピンで留めていた。
 下はこれもヴェンド地方独特の民族衣装で、肩にかけた布と同じ格子模様の布を巻きつけてその下には絹の靴下をはき、膝までのブーツを履いていた。そして頭にはちょっとおしゃれな、山鳥の羽を挿した深緑の縁なし帽子を斜めに被っていた。
 リカルドに手を引かれて周囲に軽く会釈しながら入ってきたセーダ夫人がまとっていたのも、彼とお揃いの民族衣装風のドレスであった。胴着と後ろスカートの部分は侍女たちの着ているものとほぼ同じだったが、刺繍だけはやや大きな花柄で、ずっと精緻で美しかった。腰の辺りでたっぷりとギャザーを寄せた前スカートは黒と白の大きな縦縞が入っている。その上にエプロンのように、灰色の混じった青の布を重ね、さらに赤い帯を前結びにしてある。帯には金の帯留めが飾られていた。
 一番人々の目を引いたのは、セーダ夫人が被っていた、頭のてっぺんにちょこんと乗せて、顎の下で紐を結んで留める形の帽子であった。これも民族衣装であり、木綿の白い布に穴を開けて、縁をかがっていくという、とても手の込んだ作り方をするレースでできている。それがしっかり糊付けされて頭の上に二十バルスほども立ち上がっており、もう一枚のレースは結い上げた髪の上に被せられていた。
 彼女は非常に若々しい感じの貴婦人であったが、かといって若ぶって上品さに欠けるというところは全くなく、とてもしとやかで美しい女性だった。
 それからいよいよ、ファイラ姫の出番だった。これこそ、人々が一番興味を持ち、かつ楽しみにしているものだった。兄、母と続いてかなりの美青年と美女が出てきたのであるから、人々の期待はいやが上にも高まっていた。
 扉の向こうの光の中から白い影が動き出すと、広間のざわめきはぐっと小さくなり、一つ一つの会話も聞き取れるのではないかというほどになった。侍女二人に付き添われて入ってきた女性に、居並ぶ人々は思わず息を呑んだ。
 年の頃は二十歳前後、ほっそりと優美な体つきである。陽光に金色みを帯びて輝く銀髪は、両端を三つ編みにして耳のわきに少し垂らしてから後ろできれいに結い上げ、ヴェールで押さえてある。
 透かし細工の金でできた、色ガラスをはめ込んだ円形の頭飾りが頭の両側に留められ、こめかみには瞳の色に合わせた大きな紫水晶が揺れるようになっていた。
 髪の銀色と髪飾りの金色に飾られた顔はなめらかな卵形で、陶器の人形のように透明な白さだった。鼻筋の高さは母のセーダ夫人譲りのようであった。愛らしい桜色の唇は厚すぎず薄すぎず、大きすぎず小さすぎず、場所といい形といい、彫刻家が黄金率を計算して彫り込んだかのような絶妙なバランスでもって存在していた。
 眉はくっきりとしていてやや気の強そうな弧であったが、決して欠点になりうるものではなかった。この完璧ともいえる美女の容姿に最後の仕上げをするのは、アーモンド形に縁取られた、宝石のようにきらめく紫色の双眸であった。暁の空の菫色を映したかのような、明るく、やや赤みの強い紫である。
 居並ぶ人々の中から、感嘆のため息が漏れた。
 ルクリーシア皇女がパリス皇子に嫁いだ後に社交界でクライン一の美女の名をほしいままにしていたのはレウカディアであったけれども、彼女は即位してからというもの、めったにパーティーに出てこなくなってしまっていたし、以前の快活な美しさも痩せてしまって失われかけていた。
 そんなわけで、自分に「宮廷一の美女」の座がめぐってくるチャンスがあるかもしれないと密かに考えていた貴婦人たちも、もはやその望みはなくなったことを一目で悟った。まもなく誕生するカーティス公夫妻が、おそらくはクラインで最も美しい一組となるだろうことは疑いを入れる余地がなかった。
 ファイラのドレスは母や兄と違い、白一色のものであった。胸元にはシャーリングを施して真珠を縫い付けた透ける布地とレースがはめ込まれ、胴は体にぴったりとして彼女の体の細さを否が応にも強調して見せている。そして一面に銀の刺繍がちりばめられ、色こそあでやかでないにしても豪華なものだった。
 そのドレスはヴェンド公の息女が嫁ぎ先の宮廷で初お目見えするには充分な豪華さと立派さであったけれども、サライにとってはまた違ったもう一つの意味を持っていた。



前へ  次へ
inserted by FC2 system