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(あのドレスは……)
 記憶の中に今もきらめく、銀色の少女の面影がサライの脳裏でひるがえった。あの夜に交わした最後の言葉が蘇る。
(お名前は――教えていただけますか?)
(またいつか、お会いできたときに)
 思えば、オルテアでの出来事は三年も昔のことになる。たった三年ではあったが、余人の十年にも値するような曲折がその間にあった。その間、思い出さなかったことはあっても、忘れる事はついになかった女性である。それを恋と言うのか、サライにはわからなかったけれども。
 それが今、彼の婚約者として目の前に立っていた。あの夜と変わらずきらびやかで、恐らくはあの夜よりもずっと美しくなって。
(これは偶然なのだろうか、それとも……)
 サライは今の今まで彼女の――彼のリナイスの身の上を知らなかったし、ヘルリがサライの心の裡を知っていたとは考えられないが、ヤナスのいたずらというにはあまりにできすぎた展開のように思えた。
 サライはずっとファイラを見つめつづけ、ファイラもその視線に気付いて、微笑みを向けた。上流貴族の娘が、親の持ってきた縁談を断ることはほとんどない。だが、サライには、彼女が自分との縁談をすぐに受け入れた理由が判った。そして、自分の考えが間違いでない事を確信した。肖像画の一枚も送ってこなかったのも、全てはこの時のためであったに違いなかった。
「ヴェンド公の名代としてクライン皇帝陛下にご挨拶申し上げます。このたびクライン、メビウスの両陛下のご尽力により我が妹ファイラとカーティス公との婚約あい整いましたこと、深く感謝申し上げます」
「いや、いや。両人の意思あってこその婚約であれば、我が尽力などと申しても、とるに足らぬ事。感謝はむしろヤナスとディアナになさるべきであろう」
 リカルドが口上を述べ、三人は他国の君主に対する礼をした。レウカディアはこの頃では滅多にないほど自然な笑みを浮かべた。しかし格好はいつものように重苦しい皇帝のドレスで、略式冠と印綬を下げ、王笏を握った指には大きな宝石をつけた指輪が幾つもはめられていた。
 左手に王笏を握り、右手を顎に当てて玉座の肘掛けに軽く身をもたせかけた彼女は、若き女帝の貫禄のようなものを漂わせていたが、同時にそれは二十一歳とも思えぬほどの気だるさと疲れのようにも見えた。
「それにしても、かような花のごとき姫を妻として迎えられるとあっては、公はクライン一の幸せ者と言わねばならぬだろうな」
 レウカディアの言葉に、ファイラはぱっと顔を赤らめてわずかに微笑んだ。だがサライからの返事はなかった。レウカディアの機嫌を損ねはしないかと人々がはらはらしているのをよそに、黙ってファイラを見つめたままのサライに向かって、レウカディアはいたって上機嫌のまま声をかけた。
「公。――公!」
 その言葉にはっとしたように、サライはレウカディアに一礼した。
「申し訳ございません、陛下」
 レウカディアは鷹揚だった。その上、冗談らしい事を口にした。
「さしもの公も、未来の花嫁に見とれて言葉もないようであるな」
「は……。申し訳ございません」
 レウカディアの冗談に対してひそやかな廷臣たちの笑い声が広間をつかの間満たし、サライはただ深く頭を下げた。
「よい。それよりも、わらわからの挨拶は終わったのだ。未来の花嫁、義兄と義母になられる公子殿と夫人に挨拶するがよい」
 言われるままに、サライは改めて彼らに一歩近づき、まず名代であるリカルドに軽く礼をし、セーダの手を取って口づけた。
「お初にお目にかかります。リカルド・ド・ラ・レステ卿、ドムナ・セーダ。妹御、ご息女との婚約をお許しいただきましたサライ・カリフでございます。至らぬ点など多々ございましょうが、これより後、お二方を兄上と母上とお呼びする事をお許しいただけることは、我が身にとり無上の喜びにございます」
「それは、こちらこそ。私からも、不束者ながら我が妹をよしなにお頼み申し上げる」
「公のような方を息子と呼び、母と呼んでいただけるとは、この身にふさわしからぬ光栄と存じます」
 リカルドと同じように、セーダ夫人はにっこりと微笑んだ。それから、サライは二人の傍らに立っている女性と向かい合った。
「サビナ、お名前を今度こそお聞かせ願えますか? よもや約束をお忘れになったとは仰られますまいね?」
 彼の質問は、リカルドやセーダ夫人にはもちろんのこと、声が聞こえる範囲にいた人々全員に不思議がられた。だがファイラは動じた気配もなくサライの顔を見上げ、晴れやかな笑みを浮かべた。
「むろん――。わたくしはファイラ・ド・ラ・レステと申します」
 サライとファイラは、同じ秘密を共有する者どうしの笑みを交わしあった。
「ファイラ、これからはあなたを我がリナイスとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「はい。わたくしのサライア」
 二人がかつてオルテアの宴で出会ったこと、その時に交わされた約束を知る者などいないので、この会話で二人はますます不思議な顔をされたのであった。
 続いて、アリオンが三人に向かって一礼した。今度はサライもきちんと気付いて、手を差し延べて紹介した。
「こちらは我が後見人をつとめて下さいます、ダネイン候アリオン・カイキアス殿」
「お初にお目にかかります、リカルド殿、ファイラ姫。ドムナ・セーダにおかれましては、お久しゅうございます」
「お久しぶりでございます、アリオン様」
 最初に答えたのはセーダだった。
「お目に掛かれて光栄です、アリオン殿。これより後、しばらくの間妹がご迷惑をおかけいたしますが、何とぞよしなに」
「よろしくお願いいたします」
 兄に続いてファイラもスカートをちょっと持ち上げて、略式の礼をした。
 必要な挨拶は全て済んだと見て、レウカディアが告げた。
「あとはむしろ神々の上にあること、神意をうかがい、吉日を占って式の日取り、次第を決めるのみであるな。――ベルティア公」
「はっ」
「ご苦労だが、このたびのめでたきこと、すべて卿に一任し、一切をよろしく取り仕切っていただきたいが、かまうまいか」
「ありがたき仰せ、これ以上の光栄はございませぬ」
 ベルティア公は思いもかけない大仕事に頬を紅潮させた。サライとファイラもそれぞれ、ベルティア公に挨拶を述べる。
「ベグレンツ殿、お手数をおかけいたしますが、何とぞ良しなに」
「わたくしからもお願いいたします」
 レウカディアは大きく王笏を振った。
「小姓、この慶事を(けみ)して皆に乾杯の杯を取らせよ」
 乾杯があることは前もって決まっていたので、小姓たちは速やかに盆を持って広間に入ってきた。色鮮やかなカディス酒が満たされた杯が配られる。
「めでたき祝いの杯である。かまえて取り落とすまいぞ」
 手から手へと、杯が手渡される。従者たちの最前列にいたアトとフェンドリックは互いに目を見交わし、おのれの主人とその婚約者である花のような姫を見、そして二人と同じくらい幸せそうに微笑んだ。
 アトの耳元にフェンドリックはそっと顔を近づけて囁いた。
「何て美しい姫様なんだろう。こんなお美しい奥様が来たらきっと、幸せだけが続くに違いないよ」
「ええ、そうね。きっとそうだわ――」
 アトはサライとファイラにずっと目を当てながら、何度も頷いて答えた。美しい一組の婚約者たち――今度こそ、アトの目にはそれ以外の情景は映らなかった。不吉な予言の前兆も、血のマントも、そこにはなかった。
「きっとあの方が、サライ様を幸せにしてくださるわ」
 アトは自分に言い聞かせるように呟いた。
(そうよ、サライ様は幸せになってくださらなければ。辛かったことは全て忘れて……アインデッドさんのことも忘れて、幸せに……)
「皆々、杯は行き渡ったか?」
 レウカディアの朗声が広間に響く。
「よし、では杯を上げよ。今日は佳き日となった。ここに集いたる忠臣諸君よ。我が最も信任厚き摂政公、クラインの宰相にしてカーティス公なるサライ・カリフと、クラインにても高名なるヴェンド公のご息女ファイラ姫、本日めでたく婚約あい整うた。両名の幸福のために――乾杯!」
 一斉に杯が掲げられ、人々は酒をあおった。傍らに控える侍従に空のグラスを渡し、レウカディアは広間を見渡した。人々の方も、大方杯を乾してしまったようであるのを見て取って、彼女は再び口を開いた。
「さてリカルド殿。サビナ・ファイラはこの後カーティス公に嫁ぐ身なれば、婚姻までの日をダネイン候のもとで過ごされるとわらわも存じておるが、貴殿と母上はカーティスに何日ほど、いずくの宿に滞在なさるご予定か?」
「それは妹ともども、ダネイン候のもとにお世話になる予定でございます」
「そうか。それがよかろうな」
 レウカディアは大きく頷いた。
「メビウスからの長旅、さぞお疲れになったことであろう。わらわからの歓迎の宴は今夜であるし、それまでゆるりと休まれるがよい。本日の謁見はここまでとする」
 この言葉が合図で、人々は一斉に腰を折って深々とお辞儀をして皇帝を見送った。レウカディアは終始にこやかなまま、退出のファンファーレに送られて広間を後にした。



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